無線の罠1

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無線の罠1

 ピピピピピッと共通電話がけたたましく鳴り響く。  事務所にたどり着いたばかりだった僕は、急いでデスクまで駆け寄って電話を取った。 「はい、情報部です」 「すっすみません。パソコンがうまく動かなくて。こちらに電話すれば相談に乗っていただけると伺ったのですがっ」  若い男性の声から、焦りがにじみ出ていた。 「お伺いします。まず、その危機を確認したいのですが、そのパソコンはマックですか? ウインドウズですか?」 「マックです」  マックかよ。心の中で悪態をつきながら自身の前にマックのノートパソコンを取り出す。  配属直後は、どこをクリックすればどうなるのかすら分からなかったマックも、ユーザ対応で毎日触っているせいか、基本的な操作は一とおり覚えてしまった。 「ネットワークは有線接続ですか? それとも無線接続ですか?」 「えっと……どういうことですか?」  それだけで、このユーザがパソコンに慣れていない人だということが読み取れた。 「普段LANケーブルをパソコンにつないでいますか?」 「あ、それでしたらたぶんつながっていません」  たぶんってなんだ。見ればわかるだろ。有線か無線かぐらいここに入る前の僕でも判断できたぞ、と心の中で毒づいた。 「では同じ環境で確認するため、私のパソコンも無線接続します。少々お待ちください」  そうは言ったものの目の前のノートパソコンは普段から無線接続しているため、問題なくWifi接続されていることだけを確認する。  学術情報部に来てから、このような問い合わせ対応の連続である。  朝からほぼ毎日、就業時間前にもかかわらず学生や教員から電話による問い合わせがあり、時には直接情報部までパソコンを持ち込んでくる人からも相談を受ける。新入生や新入教職員が多い四月特有のイベントらしい。  特にマックユーザは鬼門である。ここに入ってくるまで知らなかったが、学生や教員にはマックユーザが多い。附属病院の医者になるとさらに多く、半数近くが使っているのではないだろうか。そしてマックユーザのパソコンを扱う技能は両極端だ。  できる人は見事に使いこなしており、来た時にはこちらの手に負えないトラブルを抱えている。できない人は基本的なことができず、パソコンの操作から説明していく必要がある。  結局今の問い合わせは、学内の無線LANにつながらなかっただけであり、画面を見ながらここをクリックしてください、ここに入力してくださいと案内をすることで解決した。  学術情報部OA課。  学術情報部に数年前に新設された課である。  BYODという言葉は就職活動時に注目キーワードとしてチェックしていたが、仕事に就いてまで使うとは思っていなかった。Bring Your Own Device、つまり各自のデバイスを職場に持ち込み仕事を行うという意味の用語である。自身の端末であるため種類を自由に選べ外でも自宅でも仕事ができるという利便性に長ける一方、情報流出などセキュリティリスクも存在している。  紫洗大学では数年前から授業にBYODを取り入れており、学生が各自の端末を持ち込んで授業を受けている。無線LANに接続することで学内のネットワークに入り、そこから授業の資料を閲覧し、Webの講義や試験を受ける。ただし研究室では有線接続によるデスクトップパソコンもあるため、問い合わせ時は必ず接続方法を確認している。  個人の端末がうまく動かないと学生が授業に参加できない。そのため学内に個人端末のヘルプデスクが必要になり、大学内の情報システム全般を司る学術情報部にOA課という部門が設立された。 「おはようキリ君。トラブル?」  電話を置くと、いつの間にか来ていたサキさんが、コーヒーを入れてくれていた。 「ありがとうございます。無線につながらないだけですが、すごく深刻そうな声で質問されました」 「新入生ね。パソコンが使えなくて授業に置いて行かれるんじゃないかと不安なんだと思うから、許してあげて」  穏やかに諭してくるのは、洲賀崎咲、通称サキさん。二人しかいないOA課のメンバーであり、僕の直属の上司で教育主任でもある。  初めてサキさんを見たとき、年の近い良いところのお嬢様かと思った。平均より少し高い身長に、ぴんと張った背筋。肩まで届かない程度の少しウェーブのかかった黒髪と穏やかな笑み。口を開かずとも上品さが伝わってきて、同年代にこんな人がいるのかと驚いたものだ。  実際は僕より五つ年上であり、本人もアラサーだと公言している。初めて聞いた時は、冗談ではないかと二回聞き返してしまった。  コーヒーを一口飲むと、一息つくのを邪魔するかのように部屋のチャイムがなった。 「あ、お客さんが来たみたい。私が出るから、キリ君は一息ついてて」  部屋のチャイムに反応したサキさんがドアに向かった。ドアを開ける前にもう一度、そしてさらにもう一度と合計三回チャイムが鳴る。せっかちな客のようだ。  情報部の部屋は第一キャンパスの最も大きい棟、総合棟にある。  事務関連のほとんどの部署が一階の中央事務室に集約されているが、情報部は一階東端の一角に部屋をもらっている。電子錠で施錠されているのは、部屋の中にサーバールームがあり、うかつに外部の人に触れられることを防ぐためだ。  この部屋に入るには許可された人の職員証を認証機にかざして解錠するか、入り口でチャイムを鳴らし中の人に開けてもらうしかない。学生や教員が相談に来るときは、当然後者である。今来た人は若い教員だった。 「こちらにどうぞ」  サキさんは入り口近くのテーブルに来客を誘導した。  これが僕たちの部署のスタイル。パソコンやスマートフォンについて立ち話のように相談を聞いてしまうと、長引いた時にお互いが辛くなるためだ。  テーブルは主にパソコンなどのOA機器の相談を受ける際に使われるが、それ以外にも時々サキさんが学生と話をするのに使っていた。 「それで、本日はどうされました?」  自身に割り当てられたデスクで、聞き耳を立てながらコーヒーを飲む。 「無線がうまくつながらない。どういうことだ」  教員はイラついているようだった。 「場所はどこでしょうか」 「第三講義室だ」 「それは先生の端末だけですか? それとも他の人もですか?」  開口一番に失礼な口をきいてきた教員に対して、サキさんはあくまで冷静に答えている。 「よくわからんが、とにかくつながらない。他にもつながらないと言ってる学生たちもいた」 「それは全員ですか? それとも一部の人たちですか?」 「つながっていると言ってた学生もいたな」 「つまり上手くいく人もいればいかない人もいる、ということですね」 「たぶんな。だがつながらなかったのも一人、二人じゃないから明らかにネットワークがおかしいだろ。いったいどういう設備をしているんだ。こんなに不安定なことなんて、前の大学じゃなかったぞ」 「もう少し詳しく、どのようにつながらなかったのかわかりますか?」 「つながらなかっただけだ。それ以外に何があるんだ」 「ネットワークは7つのレイヤーから構成されます。例えば下のレイヤーでは物理層と呼ばれる無線でいう電波を受け取ったり出したりする部分から、上ではアプリケーション層という皆さんが使うソフトに対してネットワークサービスを提供する部分まであります。ネットワークのトラブルシューティングを行う場合、どのレイヤーに原因があるかを突き止めるのが基本です。もうしわけありませんが、もう少し細かく確認させてください」 「……そうか」  サキさんが専門的な用語を使って説明をすると、教員は考え込むかのように頷いた。ただ、これは納得したというよりも、わからないがわからないと言いたくないだけだろう。  調子を崩されたのか、教員はしどろもどろに状況説明をした。 「ではこれから調査し報告させていただきますので、この紙にお名前と所属、連絡先を記載いただけませんか」  テーブルを覗き込むとサキさんが紙とペンを渡した。 「これでいいか」 「はい、それでは何かわかりましたらまた連絡させていただきます」 「ああ」  最後まで失礼な態度で、若い教員が学術情報部の部屋から出て行った。  ドアが閉まるのを確認すると、サキさんがしっしっと手を払った。 「さてキリ君。聞いてただろうけど、どう思う?」  ドアを閉めたサキさんが、ふふっと笑いながら僕を見た。
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