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無線の罠2
無線LANについて、これまではパソコンに設定する方法しか聞きいておらず、詳しいことはわからない。
でもサキさんもそれは承知の上だと思う。無茶ぶりをする人ではない。きっと、どう考えているのかを聞きたいのだろう。
さっきの会話を思い出し、状況を整理する。
第三講義室はここ総合棟の一階にある。
その部屋で、無線がつながる場合もあれば、つながらない場合もある。
僕は考えを整理しながら、口を開いた。
「まず先生の言っていることを確認するために、現地で実際につながらないことを確認する必要があると思います。その上で先生の話が本当でしたら、機器の故障が怪しいかと思います。無線LANのアクセスポイントがどのような構造かはよくわかっていませんが、ソフトウェア的な問題ではない気がします」
ハードウェアの問題ではないかと思ったのは、配属直後にあった断線しかかったケーブルによるトラブルが、同じように上手くいく場合といかない場合に分かれていたためだ。
「なるほどね」
「どうですか?」
「先生の話を疑ったのは満点。こういう話を持ってくる人は自分の都合のいいように話を脚色していることが多いからね。そしてハードウェアを疑ったのは、悪くないけど、今回は不合格。事実からトラブル原因を絞り込むのはいいけど、今みたいに先入観から決めてかかっちゃだめ。もし見当違いのことに当たりをつけて調査したら解決は遠ざかっちゃうんだから」
「確かに」
ぐうの音も出ない指摘であった。でも、口調が優しいので怖くはない。授業を受けているような気分だ。
「無線LANアクセスポイントには同時接続数を設定できるから、同時接続数が極端に少なかったり、機器に不具合があるとつながる人とつながらない人に分かれてしまうことも十分ありえるの。確か先月一台、あのあたりのを最新の機種に更新したはずだし。しかも私たちの知らないところで。なんか通信速度上げたいとかどこかの先生が言い出したらしくて、変更してからうちに連絡来たのよね……」
「それ、めちゃくちゃ怪しいじゃないですか」
「うーん。でも設定した人は、更新前の機器の設定をそのまま写したみたいだし、連絡を受けた後私のほうでもリモートで機器自体が問題なく動作してるのは確認したのよねー」
サキさんは無線LANの監視装置の画面に目を向ける。
監視装置といってもただのパソコンだ。学内全ての無線LANのアクセスポイントが設置場所ごとにグルーピングされて表示されている。
配属当初にどう監視しているのかと聞いたところによると、定期的にネットワークの導通確認、つまり通信ができているかどうかを確認しており、通信ができないと警告が表示されるらしい。僕は今のところ警告が表示されたところを見たことがない。
次にサキさんは監視装置横の共用デスクのパソコンの電源を入れた。これはすべての機器にアクセスできる装置だ。
画面を開き、流れるように表示される文字をチェックしては次の画面を開くという動作を繰り返していく。
「うん。一階のアクセスポイントの設定に問題はなさそう」
何を見て判断したのかはさっぱりだが、問題はないらしい。確認内容について説明がないのは、僕にはまだ早いということだろう。
「これからどう調査するんですか?」
「うーん。場所もわかっているから現地調査が手っ取り早いのよねぇ。ただ……」
僕たちは周囲を見渡す。情報部にはまだ僕たち二人しか来ていない。
時刻はすでに九時半。就業開始が八時四十五分であるから、もうすぐ始業から一時間経つ。
「あの人たちはー」
サキさんの呆れた声が情報部の部屋に響いた。
本来、この部屋の住人は僕を含め六人。部長は他部署の部長が兼務しているためこの部屋にはおらず、OA課が二人、業務システム課が二人、情報インフラ課が二人。他の人が来ない限り、他の課の問い合わせも僕たちで対応しなければならず、部屋を空けるわけにはいかない。
情報部には、フレックスタイム制度が取られている。システムのトラブル対応で時間が不規則になるという名目だが、僕がここに来てから遅くまで作業しているところを見たことがない。朝遅れてきた分少しだけ遅くまで残っているが、残業している他の事務職員と帰る時間はほとんど変わらない。
他部署から不満が出てこないのは、このような技術部署がほかにはなく異次元空間だと思われているからだ。同期と昼食や飲みに行く際、興味津々に大丈夫か、どんなとこか、なんて一か月も経たないうちに何度も聞かれた。
「まぁいいわ。うちの誰かが来てから調査に行きましょう。あと念のため、建築課に状況を確認する電話しておこうかな。実は機器を違う場所にもってっちゃったとか言われたらたまらないし」
「建築課ですか」
入職直後の全体研修の記憶を辿る。確か総務部の下の課で、施設全体の管理をしている部門だ。建物の設計をするわけでもないのになぜ建築という名前になったのか不思議に思ったことを覚えている。確か初期は各棟を建てるためのとりまとめ部署だったから、という答えだった。
「キリ君電話してみる?」
「……やってみます」
入って一か月と経たないため仕方ないのかもしれないが、今の僕はほとんど何の役にも立たない、職場のヒモのようなものだ。
サキさんはゆっくり覚えればいいと言ってくれるが、一日でも早く自分ひとりでできることを増やしたい。ならば何でもできそうなことは挑戦してみよう、というのが今の僕のスタンスである。
固定電話の受話器を取り、電話番号一覧表から建築家の内線番号を見つけ、電話に打ち込む。
「もしもし」
電話から聞こえたのは、ふてぶてしい声だった。そもそも名乗ってくれないため、電話口の相手が本当に建築課なのかもわからない。
「お疲れ様です。情報部の霧島といいます」
「聞かん名だな」
そんなこと言うならせめてそっちも名乗ってくれ、という言葉を心の奥に押し込んで続ける。
「四月に新卒で入りました。よろしくお願いいたします」
「ふん。で、どうした」
「先ほど教員の方から問い合わせがあったのですが、第三講義室で無線がつながらないという問い合わせがありました。先月建築課のほうで機器を更新したと伺ったのですが、その際作業は、問題なく完了し、元の機器があった場所に戻したのでしょうか?」
言ってから、問い合わせという言葉を重ねてしまったことに気づき、やってちまったと思っていると――
「俺が施工不良したとでも言いたいのか!」
電話から聞こえる怒声に押されるように、のけぞってしまった。
「そっそっそっ」
そんなつもりはないと伝えたいが、びびってしまい口が動かない。
「せっかく気を利かせて工事してやったのに、その言い草はなんだ! 何様のつもりだ!」
部屋まで震えるような大声の波が、電話から僕の耳に押し寄せてきた。
いきなりの怒りに、体が震えてしまう。
「えっと……」
頭の中がショートして、言葉がうまく出てこない。
「ふん。話にならん」
がちゃり、と大げさに固定電話がたたきつけられる音が聞こえ、電話が切れた。
大変なことをしてしまったのではないか。この職場にこれからもいられるのだろうか。
眼の縁がじわりとする。
「あら。代ろうと思ったら切られちゃったか」
横を見ると、サキさんが僕の手の受話器に手を伸ばしていた。
「サキさん……えっと……」
何を言っていいのかわからず口ごもってしまう。
「ごめん。あの人があんな感じなの頭から外れてた。頼れる人なんだけど、苦情には条件反射で噛みつくような人だから、気にしなくていいよ」
サキさんはあっけらかんとしている。
そうは言われても、はいそうですかと体の震えが止まることはない。
「……大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫。根が悪い人じゃないし、たぶんあの人たぶん後で怒鳴ったこと後悔してると思うよ。万が一今度何か言ってきたら私が代る。それでもだめなら、うちのヤクザに表に出てもらいましょう」
サキさんがふふっと笑いながら、ちらりと今は空の席を見た。
僕は、こころを落ち着かせるために、ゆっくりと深呼吸した。
「ありがとうございます」
例え僕を落ち着かせるためだけのウソだったとしても、その軽い口調だけで気が楽になった気がした。
「まぁ入って一か月しないであんな怒られ、いや怒るというよりいちゃもん付けよね。そんな風に怒鳴られたら不安になるよねー。ちょっとココアでも入れようか。それで、みんなが来るまではのんびりと調べものでもしてよう」
サキさんはさっとホットココアを入れて僕に渡し、自席に着いた。
二つの画面の片方にメールソフトを立ち上げ、もう片方にインターネットを見るブラウザを立ち上げた。これが彼女の朝の日課であり、僕も真似ている。
メールはともかくインターネットを見るのはどうか、と最初は思ったが今では必須事項だと認識している。
どこぞでウイルス騒ぎが起こった、どの大学で新しいICTのプロジェクトが立ち上がった、新しいセキュリティホールが見つかったなど、自ら情報を集めていかなければ情報部門としてやっていけない。ただ、この間サキさんが仕事中にしれっとカフェや居酒屋のページを見ているのに気付いたが、それはそっと見なかったことにした。
「あ、見て見て。近くの動物園で虎の赤ちゃんが生まれたって!」
サキさんが無邪気に呼んできた。
いや、そんな仕事に関係ないことを堂々と言われても、と思いながら、画面をのぞき込む。
画面には小さな虎が、大事に親になめられている写真が写っていた。
「あ、確かにめっちゃ可愛いですね」
そうして雑談を続けていく。
これがサキさんなりの気の使い方だったと、一息ついてから僕ははっと気づいたのだった。
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