騙し合い効果

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騙し合い効果

老人は塀の板の節の穴から注意深く芝刈り機を押す隣人の老婆を観察していた。 「クソババァめぇ…、調子に乗って芝なんぞ刈りおってからに…!」鼻歌を歌いながら芝を刈る老婆は大層ご機嫌に見えて老人にはその芝刈りの音と老婆の鼻歌が耳障りでならなかったのだ。そもそもなぜ老人がイライラしていて、隣人の老婆がご機嫌なのかと言うとそれは昨日の老婆が仕掛けた“いたずら”に老人がまんまと引っかり、老婆がその余韻に浸っているからに他ならないのだ。 それは昨日の午後の出来事だった。老人が自宅のテラスでビーチチェアに横たわりながら日光浴をしている時だった。夏の日差しの下、当時物のレコードでディスコミュージックを聴きながらカクテルをひっかけてリラックスしていた。老人はこの日光浴の時間を過ごすのが隠居してから三十年来の楽しみとなっていた。 「あのぉ、すみません。」通りの方から声がした。老人が通りの方を見ると真っ白なワンピースに大きな麦わら帽子をかぶった女性が立っていた。大きな麦藁帽子で顔は見えなかったが、透明感があり、清楚でいて、スラっとしたその容姿は老人の理想の女性像にとても近く、老人は興奮し、胸の鼓動が高鳴った。 「少しお尋ねしたい事がありまして…」老人は早足で彼女に近寄りながら応えた。 「ハイッ、どういった事でしょうか?」彼女の前まで老人が来ると彼女は麦わら帽子を取って問いかけた。 「騙されたかい?」その女性は小型カメラを携えて老人の屈辱的な瞬間の撮影に成功した隣人の老婆だった。 「なっ、ババァ、てめぇ…、そんな格好して何を…」 「ヒャッヒャッヒャッハ!何赤くなっているんだ!いい歳してスケべ根性見え見えなんだよ、このエロハゲガッパが!」そう言い放つと老婆は笑いながら家へと帰って行ったのだった。そう、老人は昨日見事に隣の老婆に“騙されていた”のだった。 しばらく老婆を観察していた老人は閃いた。日頃の感謝の意を込めて老婆宅の芝生に水をやってやろうと思いついたのだ。もちろんこれは建前であって、憎っくき老婆に水をお見舞いしてやるのが本来の目的であった。老人は早速物置に行き、リール式の水道ホースと錐と針金を持ってきた。そしてまずホースを全て伸ばし出して片側に錐でいくつも穴を空けていった。十分ほどで穴を空け終わると次に老人はホースを塀の上部に針金でくくりつけ始めた。老婆側からは見えないように、そして水がうまく老婆の所に飛ぶように慎重に作業を進めていった。 八月の強烈な日光の下、老人は汗だくになりながら作業を続けていった。もう少しで塀にホースを付け終わるという頃だった。老人はいつのまにかあの耳障りな芝刈り機の音と老婆の鼻歌が聞こえない事に気が付いた。老人は『しまった!今日に限ってもう芝刈りを終わらしちまいやがったのか⁈』と焦りながら塀の節穴から隣を覗いた。 するとそこには隣の老婆がうつ伏せに倒れていて、ピクリとも動かなくなっていた。老人は一瞬ギョッとなり、青褪めたが、『いや、これはいつものやつだ!』と自分に言い聞かせて冷静さを保った。しかし、五分たち、十分が経過しても老婆はピクリとも動かないのだ。老人は落ち着かずやきもきしていて、たまらず塀を回り込んで隣の庭に駆け込んで行った。 「バアさん、大丈夫かぁー⁉︎」老人はうつ伏せに倒れる老人に駆け寄って、身体を起こし抱き寄せた。だが老人が抱き寄せたそれは布団やら布を丸めて形作った人形で、顔にはマネキンの顔が付けられ“へのへのもへじ”が描かれていた。 「な、なんだこれは…」老人が騙された事に気付くよりも早く老婆が木の陰から満面の笑みを浮かべながら老婆が飛び出して来た。 「ヒャッヒャッヒャッハ!引っかかったな、ジジィ!血の気の引いたアンタの顔ったらなかったよ。」唖然とする老人をみて老婆は涙を流しながら笑っていた。 「!、このクソババァが…!やっていい事と悪い事があるぞ!オレは別にてめぇが死のうが知ったこっちゃ無いが、なんだ…、隣で人が死んだとなると…」老人は顔を真っ赤にして悔し紛れに暴言を吐いた。 「ヒャッヒャッヒャッハ!私らに何かあったらこの腕時計みたいな装置がすぐに感知して医者が飛んでくるだろ。まだまだ思考があまい証拠だよ。さぁ、これで私の一三二勝一三一敗で私の勝ち越しだ。アンタもせいぜい無い知恵を絞って頑張る事だねぇ。ヒャッヒャッヒャッハ!」老婆は未だ両膝をつき悔しがる老人に背を向けて自らの家へ入って行った。老婆は密かに年甲斐も無く頰を赤らめていたのだが、今の老人にその事に気付き、指摘出来るような精神状態では到底ないのであった。 今のこの様子を二人の男が国立大の研究室でモニター越しに観察をしていた。一人は満足げな表情で、もう一人は渋い表情をしてモニターを見つめていた。 「何なんですか、この老人二人の小競り合いは…?」 「フハハッ、素晴らしいじゃないか。高齢者がこんなにも元気に動けているんだぞ。こんな事が五年前の二人からは想像もつかない事なんだ。」 「はぁ…」 「今ひとつ分かっていないようだな。この二人は六年ほど前に互いに伴侶を亡くしてふさぎ込んでいてな。そこを私がしっかりと実験と研究の為と伝え、五年前からこうやって騙し合い小競り合いを続けているのだ。この実験を始めるまでは二人ともほとんど家に閉じこもって暗い表情をしていたが、今では『どうやって隣人を脅かしてやろうか?一泡吹かしてやろうか?』と活発に思考し、行動しているのだよ。二人とも今年で齢百を迎えようとしているが肌艶も良いし、行動的で何よりとても元気なのだ。素晴らしい事だろう。ホモ・サピエンスは高齢になっても真剣に他人と競い合うことで脳に何らかの神経伝達物質が分泌され、その効果で失われていた気力や体力が復活したり飛躍する事がこの実験で分かってきたのだ。私はこれを仮に“騙し合い効果”と名付けて呼んでいるのだよ。ほら、老人が起き上がってきたぞ。」老人はゆっくり起き上がると身体を震わせながらユラユラと自分の家へと戻っていった。その目にはメラメラと燃え上がるような生気に満ち溢れていた。
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