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AWAKE
七月十八日(水)
前回の戦闘から五日が経った。多分、もうそろそろだろうとハルとトーマとタイチ──ボクら3Bはなんとなく覚悟を決めていた。
それ故に、デバイスが受信するメールに過敏になり、迷惑メールにさえ安堵した。
そろそろ何か作戦を立てるべきだろうと思い、授業中に考えてもみたけど、段々兵の質が落ちている。アーマーに馴れていないとかじゃなく、人としての中身の方だ。あの高梨と小森コンビを彷彿させる輩が増えているし、それによって志気が下げられている。
もう三桁を越える死者数が出て、その命に救われたボクら四人で戦っていると言い切っても良いくらいだ。
はっきり言って、もう疲れていた。終わりの無いマラソンをさせられているような。クルクルと必死に、回し車の中で走っているハムスターはこんな気分かもしれない。ボクらW・Wプレイヤーはそのゲージの中で飼われているのだ。逃げようとすれば無理矢理回し車の中に入れられる。馬鹿正直にその中に入ろうとする3Bは優秀なハムスターだ。モルモットと言った方が最適だろう。
授業では、社会の平和について語っている。そんなものは無いというのに。
タブレットのSNSアプリを起動してみると、クラスの掲示板ではリアルタイムで更新されていた。匿名だから誰かはわからないけど、表示されている機体番号からすると、三人だ。
『Sって授業中いっつも寝てね?』
『お疲れなんじゃね? ウチらと違って遊んでんだろうし』
『言えてる! こないだおっさんと歩いてんの見たし。ウリやってから羽振り良さそうだし』
『あいつ中学ん時もじゃね?』
いつも寝てるSっていうのは一人しかいない。今もボクの右の席で寝息を起てている。このやり取りを後から見た他の生徒も、そんな印象を持ってしまうわけだ。
声を出したくないから店の注文すらしないのに、おっさんと遊んでいるわけがあるか。
意識しよう。この教室で、今現在タブレットを操作している人。タップする微かな音が聞こえるはずだ。敵を探すと思え。
先生の声が邪魔だ。カツン、と小気味良い音が最右翼後方から聞こえる。同じタイミングで掲示板が更新されたから一人はそこだ。BBSに表示された機体番号から見ると、『売り』の話題を出した奴だ。
いくつかのやり取りを見て確信した。『金井道子』だ。そいつと仲の良い奴らと言えば、左翼前方『松田貴子』・左翼後方『渡辺麻里』で確定だ。
食らえ、情報感染。
『金井さんもこないだおじさんと歩いてるの見たけど? 随分仲良さそうだったね』
新たな機体番号の乱入に、掲示板は止まった。三人は顔を見合わせて教室を見回している。
『誰だよお前!!』
何の為の匿名なのか。何事も無かったようにボクは授業に集中する事にした。返信を待っているのだろうが、するわけがない。勝手に苛立ってくれ。
……情報戦か。それも良いのかもしれないと思ったけど、どうやって何の情報を流す? 大体、戦況が悪くなればお決まりの『休戦協定』とやらが入って終わる。
「おい、誰だよ! ホラ書き込んだヤツは!」
授業中だぞ? 金井さん。彼女は席を立ち上がって教室中に声を響かせた。あまりにいきなりの事に、先生も驚いていた。
「ど、どうしたんだ? 金井」
「ちょっと黙ってください!!」
勿論、掲示板を見ていない生徒は何が起きているのか全くわかってない。書き込まないだけで見ている人もいるだろうけど……面白そうに笑っている数人がそうだろう。
「なんて書かれてたんだ?」
ボクは平然と訊いてやる。言えば、書き込みの効果は大きくなるが、言うわけはないだろう。それどころか、
「うっせぇよエロ本ヤロー!! 話し掛けんな。一人でエロ本読んでシコッとけよ!!」
教室中で一瞬にしてボクは笑い者になってしまった。ルナを庇って始めたのに、そのルナのせいでこんな事に。というか、もう忘れてくれよ……。
結局、先生になだめられて金井は大人しく座った。ボクが笑い者になっただけだったと考えたら、これは完全な敗戦だ。命が懸かってなくて良かった。蒸し返されたせいで、またしばらくクラスの話題になってしまうだろう。
次の授業──四時限目は英語だ。
滑らかに話す英語が似合わない、歴史物の漫画に出てくる『落ち武者』みたいなおじさんの先生。
掲示板はさっきの事があったから動いていない。それ以前に、この先生は授業中のそういうことには口すっぱく注意するから弄っていないのだろう。だからルナも英語だけは起きるようにしているらしい。相変わらず、当てられても読まないけど。
「じゃあ、次は……須山読んでみろ」
こういう嫌がらせが多い。まぁ、徹底して読まない方にも問題があるけど、四十人もいて、毎回狙ったようにルナばかり当てるのは故意としか思えない。
一応、立つ事は立つけど、先生がもういいって諦めるまでひたすら無言を貫く。その精神力は逆に凄いとさえ思う。
「間違っても良いんだ。まず読んでみよう。な?」
クスクスと笑いが起きる。でもいつもそんなものにも動じない。けど今日は珍しく、タブレットを持って画面を見ていた。
「お? そうだ。頑張ろうな。さぁ、須山頑張れ」
黒いアイメイクの目は険しかった。やたら機嫌の良さそうな先生に怒っている? まさか本当に読むのか? 何度か息を吸っては吐いてを繰り返し……、
「寝てる時に掲示板でしか文句も言えないクソビッチはオッサンのしなびたモンで満足らしいー。IN・ホテルブルースカイ新宿て~ん」
一息で叩き付けられたそれに、教室中が凍りついた。ただ一人を除いて。
「テッメェー!! なんなんだよ!!」
金井が激怒していた。ボクが適当に書き込んだのもあながち間違いではなかったらしい。ルナの席まで来て机を叩くも、当の本人は知ったこっちゃないという風だ。
「なに怒ってんの?」
「わけわかんねぇこと言ってっからだろうが!!」
「別に誰とか言ってないじゃん。中二ん時からおっさんと歩いてるの見るけど、新宿のホテル街は結構危ないからやめた方がいいよ」
金井は図星を突かれたのか、言葉も無く、顔がみるみる赤くなっていく。
「あれか? テメーもオッサンとヤッて金貰ってんだろ」
「あの辺のライブハウスとかスタジオによく行ってただけ。一緒にされたくない。つか、授業中だから座ったら?」
「ケンカ吹っかけといてなんなんだよ!?」
止めるように、先生に期待が向けられるも、普段話さない生徒が突然ケンカしているから混乱しているのだろう。狼狽するばかりで止めに入ろうともしない。
ボクだって止められないから当然か。
「先に吹っかけてんのそっちだろうがよ! ギャーギャーうっせえんだっつーの!! ヒステリーかましてんじゃねぇよ。テメー更年期か? 実はババアだろ。何年ダブってんだ。さっさと卒業しろ!!」
という啖呵を切って立ち上がったルナに、教室の空気は凍えるようだ。とんでもない勢いで怒ってるけど、言ってる事は面白い。絶対に笑えないけど。その口調は、『魅由さん』由来のものだろう。真似ているのか、移ったのかはわからない。
「つーかバカみてぇに髪染めてっから遊んでるように見えんだろうがよ!!」
「これ地毛だっつーの!! 羨ましいか?」
「はぁ!?」
完全に怒ってるように見えても、冷静に机の中にある何かを探している。ペン一本でも人は殺せる。やりかねない。大切なのは体格や力じゃなくて殺意だ。
「テメーみてぇにビビりながら髪染めて必死こいてトリートメント塗りたくってクッセー頭になる必要もねーんだよ!! つか、陽を笑いモンにしたの謝れよ」
左手で持っている物がちらりと見えた。カッターだ。チキチキと刃を出す音を抑えながら、机の中で刃が伸ばされている。ボクの為に怒っているというなら、その『笑いモン』の大元は自分自身にあるというのに……。金井も二時限連続でボクらとケンカする羽目になるとは、中々の厄日だ。
「イズ、止めた方が良いんじゃ……」
振り返ったトーマがヒソヒソと言う。止められるのだろうか。
「いや……無理だって……やるしかないけど」
とりあえず、カッターを持った左手を、ボクは掴んだ。
「なに?」
「それは駄目だ。こんな奴の為に人生を棒に振るな!」
「ほっといていいって」
「こんな奴とか言ってんじゃねーよ!!」
なんで二対一になっているんだ……。とりあえず金井は無視しておこう。
「約束守るんだろ? 高校卒業出来なくなるぞ?」
「約束とか人生とか全部どうでもいいって言ってんじゃん!!」
「人を惚れさせといてどうでもいいとか言うなよ!!」
思わず言ってしまった。こんな所で。こんな時に。はやし立てる声も聞こえ始めて、ケンカは水を差されて終わりを迎えそうだ。ボクは何度笑い者になればいいんのか。無事に収まるならもうそれで良いかもしれない。金井は席に戻ろうと踵を返すも、まだ腹の虫が収まらないらしい。
「つかさぁ、そのキャンキャンうっせーチワワみてーな声──!?」
………………。
気が付いたら、ボクの握っていた手に、ルナの手は無くて、教室中の視線は集まっていて、先生は何か叫んでいて……金井は鼻から血を流して倒れていた。
「──る! ずるッ!! 日出!!」
……人生を棒に振ったのはボクの方だった。
地下戦争一の兵士が思いっきり殴っていた。立ち上がって踏み込む速さも、腰の捻りも拳の握りも完璧だったのに殺せなかったと思ってしまったボクは、本当にただの兵士だ。
「何してるんだ!! 日出」
「なんとなく……つい……」
「お前はなんとなくで女子を殴るのか!! 誰か保健の先生呼んで来い!! 金井を動かすなよ! 日出は生徒指導室だ。来い」
ルナは呆れたように笑って、「バーカ」と口だけ言っていた。ハルに至っては、机に突っ伏して何も知らない風を装っているけど、肩が震えているから笑いを堪えているのだろう。
ボクは昼休みも午後の授業も無くなり、入れ替わり立ち代わり先生が説教して行く。挙句に、金井の両親までやって来てがなり立てた。クラスのSNSなんかあるから悪いのに。
「日出、これは立派な傷害罪だ。警察を呼んだからもうじき来る」
六時限目のチャイムが終わったくらいで、学年主任の先生がそう言った。そろそろ正座が辛くなって来た。まるで警察の取調べみたいだ。経験は無いけどこんな感じで追い込んでいくのだろう。
相変わらず、金井の両親は煩いままだ。あの後、ルナは大丈夫かなぁなんて考えたけど、騒ぎは起きてないみたいだから大丈夫だろう。
生徒指導室のドアが開いて、警察がやってくると、先生達は立ち上がってお辞儀した。
「それで、問題の生徒さんはこちらですか?」
「はい。一年B組の日出陽です。女子生徒を授業中に殴りつけたということで。これは立派な傷害罪ですよね?」
金井父の言葉もそこそこに聞き、警官はタブレットを操作して何か入力していた。その画面に映ったであろうものに何度か、そしてにこやかに頷いた。
「日出君……か。まぁ、今回は生徒同士の問題ですし、不問という事でいいでしょう」
不気味なほど穏やかな警官に、ボクも先生達も言葉が出なかった。不問なわけあるか。勿論、大事な娘を傷付けられた金井両親は黙っているわけが無い。
「冗談じゃない!! あんた公務員だろ! 仕事をしろ!!」
「はい。末端ですが、国家機関の一部です。ですが、聞けば日出君はとても従順で優秀な生徒だということですし……今回の事は問題ありません。それが、あなたの言う公務員の判断です」
『国家機関』──その言葉でボクは気付いた。従順で優秀な兵士ということだ。この警官もまた、ボクらの側ということだ。それを証明するかのように、正座しているボクに手を差し伸べた。
「さ、日出君。立つんだ」
「…………はい」
三時間近く正座させられているから、脚の感覚なんかもう無かった。警官は何を思ったのか、肩まで貸してくれてボクを立たせてくれた。
「では、私はこれで」
敬礼までしていった。他の誰でも無いボクに向けて。
金井両親は怒りに震えていた。よく考えてみたら、義務教育になっている今なら、先生だって公務員で国家機関の一部のはずだ。説教こそするものの、退学とか、停学といった処分の話も無い。
「日出とか言ったな!! お前を絶対に留置所にぶちこんでやるからな!! 腕の良い弁護士を知ってるんだ。あんな末端のものじゃない本物の国家権力をなめるな!!」
何を言っているんだ、このおじさんは。そんなのは重々承知だ。
「はい。なめてませんよ」
捕まえた兵士を絶対に逃がさないことも。明らかな事件さえ揉み消してくれる事も。国家権力の力はもう嫌になるほど思い知らされた。
金井両親も帰り、先生にも釈放されたボクは生徒指導室を出た。
「お! 終わったのか? どうだった?」
ハルとトーマが待っていてくれた。
「警官のおかげで無罪放免だって」
「警官の? 僕達も今名前聞かれて敬礼されたんだよ」
「考えてみろよ。国家機関の一部だ。ボクらの事を知ってる」
二人とも合点が行ったみたいだった。だったら何をやっても無罪になるのかと思ったけど、今度こそ留置所と地下戦争の往復になってしまっても困る。
「あ、そうだ。イズ! 須山さんが教室で待ってるから行ってやれよ」
「須山……さん?」
多分、あのケンカの様子を見てハルは完全に引いてしまったんだろう。魅由さんの話を先に聞いてなかったら、ボクも相当に驚いたかもしれないし。
「あぁ。俺ら先に帰るからよ。じゃあな」
「ルナに伝えるように言われたのか?」
「うん。凄い大人しかったから反省してるのかも」
そうじゃないだろう。平常運転に戻っただけで。二人と階段で別れて、ボクは教室のある四階まで戻った。
タブレットを弄りながら、一人でいても寂しそうな様子も無い。
「話したんだな、ハル達と」
席に座りながら声を掛け、誰もいなくなった教室でボクは前を向いていた。なんとなく、顔を見られなかった。
「うん。会いたかったから。なんでケンカしてんのかと思ったらしょうもないことで揉めたんだね。しかもアタシのこと」
「ルナのことだからしょうもないことじゃなかったんだ。それに、人の事言えないだろ? あんなに怒らなくてもいいのに」
「あ~、言えてる……ありがとね。金井の鼻の骨折れてるって保健の先生言ってたよ。せっかく整形したのに無駄になったね」
「整形?」
「うん。去年の冬休みかな。バレバレだったけど誰も言わなかったから、本人はさりげなくやったとか思ってんじゃん?」
言われてみれば、違和感はあった。両親は鼻高いわけでも無いのに娘一人が高いわけはないはずだし。
「じゃあ丁度良かったんじゃないか? 付けっ鼻みたいで似合ってなかったし」
「プッ……アッハハ……全っ然反省してないじゃん!」
「それを笑うならルナもそうだろ」
「だってアタシ正論しか言ってないじゃん? あ! ねぇ、これ見て」
寄越されたタブレットの画面には、掲示板が表示されていて、新しいスレッドが立てられていた。『1─Bの超危険カップル』とかいうタイトルだ。
『これまで全く話さなかった須山ルナは、クラスメイト相手にブチ切れ。それを仲裁に入った、普段は真面目で大人しい日出陽はその女子生徒の顔面を殴りつけて病院送りに!!』、
掻い摘みすぎて完全にボクらが悪い事になっている。
「これで自他共に認めるカップルだね」
「見るところそっちなのか……カップルとか括りはどうでもいいんだろ」
「うん。でも言われて悪い気分でも無いし。なかなか無いよね、あの空気で告白。なんだっけ? もう一回言ってみて」
「勢いだよ、あれは」
「そっか……ウソなんだ」
「そうじゃない! ボクはルナが好きだ。雨の日に話し掛ける前から興味があった。全然話さないからどんな声してるんだろうとか。なんで話さないんだろうとか……だから声を聞いてみたくて声を掛けたんだと思う」
「うん。こないだも言ったけど、スゴイ嬉しかった。だからバカにされたこと黙ってられなくてさ」
エロ本の件については自覚無しとは。
「ゴーイングマイウェイもいいところだよな、ルナは」
「アタシの人生にはアタシの道しか無いんだから、他にどこ歩いたら良いの?」
「……うん。それで良いと思う、ルナは」
「バカにしてない?」
「してないって。羨ましいよ。強くて。絶対にぶれなくて」
そんな精神的な強さがあれば、ボクは地下でもっと多くの命を奪えるのだろうか。
部活に励む生徒の声が聞こえる。軽快なバッティングの音だったり、音楽室は吹奏楽部に使われるから、屋上で練習する合唱部の歌声だったり。この静寂の教室と外は別な世界みたいだ。
「放課後の教室に二人っきりっていうこの状況、ドキドキしませんかー?」
「ん~……ドキドキっていうより現実味が無いな」
「これは現実です。つか、散々したのに好きっていうのは口だけなのー?」
それが何を意図しているかはわかる。
「誰か来るかもしれないし」
「もう来ないよ。部活中だし」
「忘れ物取りに来るとか」
「部活終わるまで来ないっしょ」
「……見回りの先生とか。帰されるかも」
「別に悪いことしてないし」
次の言葉を探していると、ルナはボクの机の上に胡坐をかいて座った。
「あー、この座り方ダメだったっけ? 体育座りの方が良い?」
今机の上でそんな座り方を選ぶな。
「……誰も来ないかもしれないけど、遠いし無理だ」
「じゃあ狭い」
下がれということか。後ろの席ごと、ボクは椅子を下げると、特等席になっている膝の上に座った。猫と同じじゃないか。
「来いよヘタレ」
その挑発に乗るだろうと彼女はわかっている。負けず嫌いだとわかっているから。教室のドアの方に目をやって、ボクは乗ってやった。あの日以来の感触……というわけでもない。駅のホームだったり、電車の中だったり。人目を盗んではそうすることが普通で、愛情表現で『遊び』の一種である彼女とはほとんど毎日だった。
「なんで止めたの? これ」
満足そうな顔で、机に手を伸ばし、カッターを見せた。この膝の上にある存在をいつでも感じられたら良いのに。そう思ったから、カッターを取り上げて、刃を伸ばした。
「これはあいつを切るものじゃない………………」
言い切るには覚悟が必要だった。ボクは新品で切れ味の良さそうな伸びた刃を見て、覚悟を決めた。
「ボクを切るためのものだ……だから、やろう。ルナがいると言う事をいつでも感じていたい」
驚いているルナの手に、カッターを返した。やろうとは言ったものの、傷を付ける側になることに抵抗はまだあるから。
「良いの? 傷付けたくないって言ってたじゃん」
「存在を残すんだろ? 傷とは考えなければ良い」
「うん。これは愛情だよ」
刃を伸ばしきったカッターを持って、嬉しそうな顔をしているというのも妙な話だ。
「どこにする?」
「腕……じゃないか?」
制服は半袖のシャツだからもうお互いに露出しているし。秋になって制服が冬服に戻るまで隠す事が出来ないけど、仕方無い。
差し出したボクの左腕に、ルナは刃を当てる。
「……ちょっと待った。加減わかってる?」
「やったこと無いしわかんないよ。でも大丈夫っしょ……多分」
不安な一言が付いて来た。即死は無いとはいえ、遠回しにこれは相手に命を預けるという事だ。命を預かると言うことだ。本当に、愛情表現の一つなのかもしれない。
一本目──震えるルナの手は、刃を当てて、切るというよりは軽く引いただけといって良かった。まばらな切り取り線みたいになった線からポツポツと玉のような血が、皮膚をこじ開けるみたいに腕から出て来た。
「これだと消えそうだな」
「あんま深いと危ないと思って。加減が難しいね」
カッターを渡される。
二本目──差し出された白い左腕を、脈々と血管が走っている。こいつらをきったら大変な事になると思ったら、同じような事になった。切った感触なんて何も無かった。
「難しいな」
「だよね。でも、もっとやるうちに上手くなるよ」
「腕切るのが上手くなってもな」
「キスが上手いのと同じだよ」
上手い下手があるのか、それにも。ボクはどうなんだろう? 聞こうと思ったけど、上手いわけがない。
三本目──やや深い。金属の冷たさが身体に侵入して来た。完全に〝切られた〟感触だ。玉じゃなく、じわりと線が赤く染まった。
「痛い?」
「そりゃあね。切られたんだから」
「アタシにもちょうだい。その痛み」
四本目──まだボクの手には遠慮が残っていた。その手を、ルナは押さえつける。
「もっと深く」
「危ないぞ」
「でもそれじゃ消えるよ」
ほんの一ミリにも満たないであろう深度を加えて、ボクは一本目と平行に線を引いた。同じように血が零れて来た。刃の淵には二人分の血が混ざり合って着いていた。
「ちっちゃい。もっとおっきいのがいい」
五本目──加減がわかったのか、線を引くのが早い。躊躇いはなかった。少しくらい躊躇して欲しい気もするけど。
六本目──ボクの手はまだ少し震えた。これは絶対に『普通』ではない。わかっている……でもボクはこの方法を選んだ。唇を噛み締めて、痛みを堪えるように、引かれる線をルナは見ていた。
「痛かった?」
「うん。でも、生きてるから痛いんだよね」
七本目──ルナは嬉しそうだった。切る事で自分の存在を相手に残し、自分にも残る。『魅由』以外の人とはほとんど交流を持たずに、ずっと一人だった彼女はやっとそうしたい相手が出来たのだから嬉しいだろう。
八本目──ボクだってまさか初めて好きになった人とこんな事をするなんて思わなかった。
九本目──でも喜んでいるからそれで良しとしよう。
十本目──それが愛情表現だと教えた、『あの女』の顔が頭を横切った。
十一本目──目に蝶を飼う女。あいつがいなければ、ルナはもっとまともで……でもずっと一人だった。
十二本目──もしかしたら、『声』という自分への嫌悪感から、ボクは出会う事無く死んでいたかもしれない。
十三本目──ボクは感謝するべきなのか?
十四本目──邪魔だ。ルナがこんなに嬉しそうなのに、他の女の事を考えるな。ルナの中で『魅由さん』はもう死んでいる。でもボクはこれから想い出を重ねて、塗り替えていける。
十五本目──壊れてるなぁ。彼女はこれに憧れていたんだ。病んでいる笑みでもなく、ただ純粋に……いつものキスをした後の顔だ。
十六本目──「そうだ。ペアリング欲しい」と、とろんとした顔でルナは言った。「どこかに買いに行く?」「ううん。今ここで作ればいいよ」と、血の滴る腕を上げて、手の甲をボクに向けた。薬指にカッターを当てて一周させると、皮膚が薄いせいか、少し唇を噛んで耐えているみたいだった。
十七本目──「お返し」と、ボクの薬指にも刃が当てられて、血の指輪交換になった。やりにくいから、形はお互いに歪だった。
十八本目──「これペアか?」「他に無いっしょ?」「まぁ、いないだろうな」と、ボクは思わずキスした。油断していたのか、身体をビクッとさせて、やられっぱなしにならないようにしっかりボクの唇を噛んだ。
十九本目──「痛いな」「腕?」「唇」「血が出てるよ」と言うなり、唇から流れる血を舐めた。
二十本目──「皮食べたんだけどこれってカニバリズムってやつだよね?」「皮だけでそう言うのかな……」と返すと、少しガッカリしていた。
二十一本目──「食いたいのか? 人肉」「美味しくないって聞くけどね。興味本位?」「だったらボクにも食わせろよ」なんて口走ってしまって、勢いで首元に噛み付く。少し高くて、ボクの脳内を溶かすような甘い声が一瞬聞こえた。
二十二本目──いっそ、あの燐火の蝶がいる腹部を食い千切ってやりたい。あの女を消してやりたい。でも、ボクには無理だとわかっているから、この方法を選ん二十三本目──だのかもしれない。こんなのは、ただの醜い、嫉二十四本目──妬でしかない。愛情表現に違いは無いけれど。
二十五本目──ルナのキスが激しかった。「触って」と、ボクの右手を掴んで、ブラウスの中に突っ込んだ。「そういうのは嫌いなんじゃなかったのか?」「でも触られると気持ち良いって、魅由さんが言ってたから」──またあいつか。揉むという表現にはちょっとばかり足りない。刃物を持つ女子には絶対に言ってはいけない。
二十……もういい。いちいち腰を振る数なんて数えないだろう。 更にお互い三本ずつ線を引いてカッターの受け渡しをした後、ルナは抱き付いてきてカッターを落とした。スプラッター映画みたいに、ボクのシャツの右側は血がべったり着いた。薬指の『ペアリング』のせいで、お互いに触れた顔にも血が着いていて、もうグチャグチャだった。
『空白』に頭が侵食されていく。ここがどこかも判らなくなるほどに。
ブラウスのボタンを外すと、彼女の吐息混じりの甘い声は激しさを増した。
バットが白球を叩く音が軽快に聞こえる。サッカーボールが蹴られる音。四階のこの教室のほぼ真上にある合唱部の歌声。それらも遠くなって行くようだった。
『無音』に飲み込まれていく。さっきまであった部活の音も、合唱部の声も聞こえない。あるのは、息混じりの声と、舌の絡む音。
愛に触れたシャツが刺激するせいで、苦悶の声を漏らす。
キス、キス、キスキスキス。重ねる唇は貪るように、求めるのはお互いの存在だけで、言葉も要らなかった。
触れた柔らかな肌は、季節がら汗ばんでいた。温もりというよりは、灼熱の如き熱を帯びていた。燃え盛る心が、身体に火を点けたみたいに。
どんな一瞬の表情も見逃すまいと、彼女はキスの最中も目は閉じない。ボクも同じく。細まる目が嬉しそうな心を伝える。きっと同じようにボクの心も伝わっているはずだ。
瞬刻の隙を突いた様に、彼女の目はイタズラ猫のそれに変わる。痛ッ……唇を噛み千切られる。カニバリズムへの僅かな憧れによる犯行。謝る代わりに出された舌を、ボクは噛んでやった。
胸の柔らかな部分にある突起で指を躍らせた。太陽光を得て更に明るさを増した髪を振り乱す。シャツのボタンが外される。Tシャツが捲くられる。首から、噛まれ、吸われ、どんどん下へ向かっていくと、ルナが背にしていたボクの机は倒された。廊下にも誰もいないみたいだ。何の反応も無い。
呼吸が荒れる。お互いに。
『消失』したみたいだ。この世界から。何もかもが。ボクら二人だけを残して。音も。景色も。
この世界にはボクらの姿しか無くて、ボクらの音しかない。言葉も無くて、ただ求め合う音と、存在を伝える鼓動の音しかない。
本能的な求愛行為は二〇四五年の今でも、太古の原始の時代も変わらないのかもしれない。変える必要も無い。求める相手がいれば、必要な事はただ一つ、相手を悦ばせるだけ。
『衝動』よ……お前がこの場を支配したみたいだな。
なし崩し的に椅子から降りたら、身を隠してくれるように机が並んでいた。掃除したばかりとはいえ、ボクも含めて適当にやるもんだからまだ汚い。
ただ、じっと何かを言うでもなく見つめ合っていた。時が止まったみたいに。いっそ、本当に止まって欲しかった。この誰もいない世界で。二人っきりでいられるなら。
「いいよ」
ルナの囁くような微かな声も、無音の中でははっきりと響くように聞こえた。『何が』良いのかは聞かなくても良かった。
バレたら国家権力で揉み消して貰えるのだろうか……。そう思っていると、ガタッ……っとドアの方で音がして、ボクらは息を潜めた。
「誰かいるの?」
机が倒れているから不審がったのか、女子生徒が教室に入ってきて、血塗れで上半身のはだけたボクらを見るなり、その女子生徒は青ざめた顔で走って行った。しかも、そいつは『佐々木由紀奈』でトーマの彼女だ。
「サイアクな終わり……」
三十分ちょっとの初めての行為は強制終了させられた。残念そうに終わりをわかっても、ルナはまだ起きない。
「このままで帰れないな。腕も顔も洗わないと」
「多分、洗ったら水で血ももっと流れるよ」
あぁ、だから自殺者は風呂場で手首を切って死んだりするのか。映画でのワンシーンだったり、報道だったりでそんな知識はあった。
「だったら、保健室で消毒して包帯巻こう」
「陽のシャツどうする?」
「……どうしようもないって。誰だよ、付けたの。まぁ、ルナも酷いことになってるけど」
「つい……ね。血液型なに?」
「B」
「一緒じゃん。輸血輸血♪」
どっちの輸血かもわからないけど、腕を擦り付けると、そこに走るヒリヒリとした痛みから、二人で顔をしかめて笑った……血を流しながら。愛を、存在をお互いに腕に滲ませながら。
机の周りの床にも血が付いていた。ルナはそれを靴で擦って、消した。まだ身体に熱い熱が残っていた。色々考えながらも、切り付け合うなんていう事で、お互いに気持ち良くなってしまっていた。
誰もいない廊下を歩きながら、ルナは言った。
「ワガママ同士はぶつかるだけだって言ってたけどさ、こうやって隣歩いたらぶつかんないじゃん。ワガママ同士だから気分で道がウネウネして離れたり近付いたりするし、重なった時は──」
「キスする」
先手を打って言ったのに、ルナは不愉快そうに頬を膨らましたと思ったら、ちっちゃい身体でタックルして来た。
「アタシの道だー!! って吹っ飛ばすよ」
壁にぶつかったせいで、今度はシャツに自分の血が着いた。
「それにさ、お互い好きなら最期まで一緒に行けるんじゃん?」
「……最後?」
「死ぬとき」
形は違えど、ボクらはお互いに『死』を間近で見て来た。だからすぐ傍にそいつはあって、いつ訪れるかわからない事もわかっている。
「あぁ。一緒に生きよう」
その決意を試すように、デバイスが短く振動した。
あぁ……ついに来たか。
夜までに痛みが治まると良いけど。
『召集令
本日 二〇:〇〇
有楽町駅 中央口
先日送付したカードを忘れない事』
いつもの文言だ。
「またハルからだ。激辛の店のお誘い」
「お腹壊したのにまた行くの?」
「例えそれが痛くて辛くて、死ぬかもしれないとわかっていても、行かなきゃいけない時があるんだよ」
ボクは至って真面目に言うと、ルナは呆れた調子で、
「ご飯食べに行くだけでバカじゃないの?」
「……確かに。今度スイーツバイキングに行こう。前に言ってたじゃないか」
「夏休みになるしねー。どっか遠出したいから空けといてね」
「何日くらい?」
「全部」
反論は無いし、させようともしない感じだ。
先生に見付かると面倒だから、保健室にそーっと忍び込んだものの、ベッドメイキングを終えた先生とバッチリ鉢合わせしてしまった。普段保健室には来ないから会うのは四月の身体測定以来だ。
いつも気だるそうな背の高い女の先生は、外見は美零さんを思わせる雰囲気だった。
二人の腕を見るなり、顔を引き攣らせて苦笑いで、
「お~、極悪人。女子の顔面ぶん殴る鬼畜男子がどうした?」
さっきの事件を茶化すと、座るように椅子を指した。女子優先で治療はルナからだった。座るのを拒んで、ルナは立ったまま腕を出した。
「ケンカの理由は──」
「わかってるよー。暇だとSNS見てるから学校の事は大体把握してるし。別に男女交際禁止じゃないから良いんだけどさ。もう少し人目を気にしたら?」
ルナが話さないのは先生も知っているから、治療をしながらも目線はボクに向いた。
「包帯で隠しておきますよ」
「隠れてないから言ってんの。首元とか……ちょっと二人上脱いでみ」
カーテンを閉めてくれて、二人してシャツを脱ぐ羽目になった。
「君達さぁ、ここがどこだかわかってんの? 学校だよ、学校。随分と激しいみたいだねぇ」
青紫の痣だったり、噛み跡だったり……ボクの背中には爪を立てられた跡まであるらしい。言い訳を探しているうちに、先生は続ける。
「しかもさぁ、君達駅でチュッチュやってんの見かけたことあるけど? 隠れてるつもりでも見えてんのよ。しかも制服だし」
ぐうの音も出ないくらい反論の余地は無い。
「少し……工夫します」
もうしませんとは決して言わない。ルナはそれに対してプッと噴出した。先生は少し驚いていた。全く話さない生徒が笑っている所を初めて見たのだろう。
消毒液で血を拭き取ると、ボクが引いた線は鮮明に現れて、所々からは血がまだ出ていた。ガーゼを当てて包帯を巻いてルナは終わり。ボクにはどんな線が引かれているのだろう。
「そういえば日出君て転校生だったわよね?」
「はい。四月からこの学校に来ました」
「てことは……三ヶ月で難攻不落の女の子を陥落させたわけだ。意外とやり手ね。どうやったの?」
難攻不落というよりも、誰も落としに掛からなかった城なのに。
「特に何も……アダムとイヴが仲良くなるのに時間は掛かると思いますか?」
「世界に二人きりなら時間は要らないでしょうね。故に、〝仲が良い〟とか〝仲が悪い〟とかいう概念も無い」
「ボクらもそういう事です。ボクの世界に女の子はルナしかいないし、逆に──」
「アタシも、同じ。陽が好きだから時間とか関係無い」
先生の驚いた顔が、ボクの隣に立つルナに向いた。
「須山ちゃんが中学の時から、わたしここで働いてるけどさ~、初めて声聞いた」
「言いたかったから。それだけ」
サービス終了とばかりに、口を固く閉めた。もう何も話しませんという意志がありありと感じられる。
「もっと喋んなよ。せっかく可愛い声して……んだからさぁ」
消毒をしながら、先生の手も声も一瞬止まった。思いの他ボクの傷は深かったのか? 医者のそんな反応は恐い。
「どうしたんですか?」
「…………いや。なんでも。気にしなくていいから」
血は止まっていた。深くはないみたいだ。
「日出君、昔大きな傷とか……病気で入院とかしたことある?」
「いえ。ありませんけど……この傷、残りますか?」
腕を見つめたまま、ボクの名前を何度か繰り返し、先生は我に返って、
「ん~……薄くはなるけど消えないかもね。残念ながら」
「いえ。それで良いんです。その為にお互い切ったので」
包帯を巻きながら、先生は笑った。『馬鹿な事』とか言いそうなのに。というか、それでいいのだろうか、先生として。
「若いって良いねぇ。そうやって後先考えないで衝動的にものごとやれるから」
治療は終わったけど、ボクはなんとなく聞いてみた。
「大人は出来ないんですか?」
「出来ないって言うか、考えてしまうって方が正しい。結局、〝出来ない〟で正しいのか。生徒達見てると楽しそうね~って感じ」
「……大人になると楽しくないんですか?」
「あんたらも年中楽しいわけじゃないでしょ? 辛い時もあれば楽しい時もある。それはいくつになっても同じよ」
「先生はいつ楽しいですか?」
「わたしは……自称S系の男がわたしに跪いてる時が楽しいわね。お前のSなんかたいした事ねぇっつーの。ついでに、生徒も何人か摘んでるし、人生エンジョイしてる方だと思うけど。女医だけに」
目をキランとさせて、ボクらの反応を待っているみたいだけど、しょうもない駄洒落の反応よりも、この人は先生で良いのか!? ボクらは聞いちゃいけないこと聞いてないか? そんな疑問の方が強い。ルナはまた隣で笑いそうになっているのを、顔を伏せて隠していた。
「須山ちゃんは笑いたい時は笑う! そして日出君。なんだこのクソつまんねぇババアとか思ってないでしょうね? これでも二十八なの。ババアとか言ったら校庭に埋めんぞ? なぁ?」
「い……いえ。素敵なお姉さんだなって思います……先生らしくないので驚いただけで……」
恐い……。ただただこの威圧感は本物だ。『姉御』呼ばわりされている意味がわかった。
「治療は終わったし放課後だしもう先生は終わってんのよ。とりあえず、イチャイチャするんならもう少し目立たない所でやること。須山ちゃんはただでさえ目立つんだから」
「やっぱり、髪色ですか?」
「そんなのは学校出たらたいした問題じゃないって。もう、日出君と二人でいる時の空気がすっごいキラキラしてんだからさ、須山ちゃんは。全身発光体連れて歩いてるようなもんなんだから、覚えておきなさい。あと、もう切らないこと。良い?」
険しい剣幕でそう言うものの、ルナには当然どこ吹く風で、ただ頷いただけだった。
ボクもまた口では「はい」と言うものの、それは聞けないと内心で舌を出した。それも見透かしたように、先生は微笑んで見た。
帰り道、十字路で派手に事故にあっていた車があった。ノアが置かれていた方とは反対方向に向かって、歩道の電柱に突っ込んでフロントは潰れていた。
その様は天国と地獄の分かれ道みたいに思えた。
車の持ち主は金井の両親だった。国家権力の力を思い知ったのは向こうだったみたいだ。車の横もひしゃげているし、きっと事故に遭わされたのだろう。そこまでして、兵士を守りたいらしい、この国は。イカれてる。
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