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「ありがとう、しゃべっていたら、すっきりした」 「それはそれは」 「藍田君といると落ち着くな」  彼は黙ったまま、ほんの少し微笑んだように見えた。 「藍田君はなんで美術に興味があるの?」 「それはややっこしい問題だな。じゃあ、君はなんで音楽に興味があるのかな」 「私は……」  物心ついたときから、気づけばピアノを習っていた。引っ越してピアノを置きにくい家に住むようになると、自然とギターに移行した。辞めようとはあまり考えなかったところをみると、やはり比較的音楽が好きなのだろうか。 「ミーハーかもしれないけど、外国人の女の子が、肩に鳥を乗せてギターの弾き語りをしている映像をテレビで見たことがあって。かっこいいなって思ったの。ギターなら、引っ越しのとき、運んでもらうのに何万かかるとか気にしなくていいじゃない。ギターを背負って旅したりできるし、かっこいいなって思ってさ」  自分で言いながら、ふと思う。 「音楽が好きっていうよりも、そういう風景に憧れてるだけなのかな?」 「鳥や旅って、音楽と共通するものがあるんじゃないかと思うよ。音楽って、とどまっていないものだろう。楽譜やら、CDやらでその影を残すことはできても、音楽そのものはその場で消えてしまうものだと思う。それは、飛び立ってしまって帰ってこない鳥や、一つのところにとどまれない旅という行為と通ずるものがあるだろうね」  からからになっていた心に水が沸き上がり、広がっていくようだった。その流れに乗れば、私にだって何でもできるし、どこにでも行ける気がした。  でもきっと、私はとどまる人なのだろうと思う。だからこそ、そういったものに憧れたり固執したりするのだ。手に入れることができないものだからこそ、引き寄せられるのだ。そして、彼はとどまらない人なのだろう。例えずっと同じ場所にいたとしても、彼は変化し続ける。常に、より自分の進むべき方向、探究するべきものを探して、どこまでも、どこまでも行ってしまう人なのだ。  この人と同じ場所にいられるのは、きっと今だけなのだ。それだって、高校という枠の中に無理やりみんな閉じ込められているからであって、自分の能力で生きていかないといけない場所にいたら、私と彼は存在する空間が違うはずだ。彼にはいつも、普通の人よりも少し高いところから物事が見えているのだ。 「いくら僕がみんなから変人扱いされているからって、やっぱり美術部へ行くと『受験生が』って顔されるよ」 「でも、藍田君は全然気にしてないよね」 「なんで気にする必要があるのかな。高校生なんて、みんなまだ人生は無限に時間があるように思えているから、無責任なことが平気で言えるだけだ。必要のない助言に耳を傾けるのは不毛なことだよ。僕はただ、自分のするべきことを淡々とやっていくだけさ」 「普通の人には、その淡々とやっていくのがなかなかできないんだよ」 「それは何かな、僕は普通の人ではないと?」 「そんなことは言ってないけど」 「それはよかった」  どんな意図があるのかと思い、首を傾げる。 「僕が普通じゃないというのだったら、そこで話はおしまいじゃないか」 「なんで?」 「初めからわかり合えない世界に属しているのなら、それ以上何を話しても無駄だから」  その時、突然思い出した。  いつだったか、教室の移動の渡り廊下ですれ違った時に、彼は空をさして、「今日はラピュタが来ているようだよ」と言った。あまりに見事な積乱雲で、気を取られているうちに、お互い授業に遅刻したのだった。その時見た積乱雲の様子を思い浮かべていると、続いて中学校時代のことが思い出された。 友人の一人が、道に面した家に引っ越したからだったろうか、隣人がいないから気にせず楽器を弾いて構わないということで、休みの日にみんなで集まって、合奏するようになった。誰からともなく演奏が始まり、一人一人が自分の音を重ねていく。時にははちゃめちゃになりながら、時には贈り物のように素晴らしくぴったりと音が重なり、そうして時を過ごしていた。その家には、ピアノ、ギター、鉄琴などが置いてあって、メンバーはそれぞれハーモニカ、リコーダー、カスタネットなど音楽の授業で配布された楽器を持ってきていた。 教室では決して起こらなかったことが起きていた。みんなそれぞれ、自分の演奏したいように演奏し、「この曲はこうだ」というのがないから、「こうしたらもったいいと思う」というのを前面に押し出して、何度もアレンジを変えた。めちゃくちゃになって、大笑いもした。  ピアノの先生だけと音楽をやっていたときには見えなかったものが、そこにはあった。今まで狭いまっすぐな道しか見えていなかったのが、突然道のない広い世界もあったのだと気づいた。それと度同時に、この果てしない世界の中で自分がつかめるのはほんの一握りの時間だけなのだということを思い知った。その仲間は、卒業したらみんながみんな違う高校へ行くことになっていた。こうして一緒に楽器を奏でられる時間は、無限にあるかのように見えて、単純に計算してもあと二十四時間も残されていなかった。 「私も知ってたんだ。さっき藍田君が言ってたこと」 「何のこと?」 「時間がいかに少ないかってこと。だって、私が一番大事にしたかった世界は、その存在に気づいた時点で、残り二十四時間もなかったんだもの」 「でもある意味では永遠だったのでは」 「ある意味では……?」  永遠という言葉の持つ意味は広義にわたりすぎていて、それがぴたりとあてはまるものなのかどうか、すぐに結論づけることはできなさそうだった。だけど、そういう言葉を当ててみることによって、もう戻ってこない時間に、思ってもみない美しい色が添えられたようで、うれしく思われた。 「私は、あのとき見えたものをまた見たいんた。  みんな知らないふりしてたけど、数か月後にはそれぞれが違う学校へ行って、違う道が用意されていることを知っていたの。そういう心細さとわくわくした気持ちを共有していたからこそ、あの空気があったの。  多分だけど、ずっと音楽を続けていれば、あのとき見えたものがまた見える瞬間があるんじゃないかと思う。だから私は、どんな形であれ、音楽に関わっていたい」  藍田君は黙って私の話を聞いていただけだった。しかし彼が途中で何か言ってたら、こういうことを話すことはなかった。自分自身に対してさえ、自分の思いを言葉にしようと試みたことは、今までなかったのだから。 「僕にとって、美術はあくまで手段であって目的ではない」
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