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佐藤陽太は急いでいた。ただひたすらに、急いでいた。
陽太が向かっているのは、街外れにあるジュエリーのセレクトショップだ。立地的に多少不便な所にあるが、センスのいい品揃えで客足が途切れない人気店だ。
新進気鋭のデザイナーの作品やアンティークの一品ものもあれば、手頃な価格のアクセサリーもあり、オーダーメイドの作成も受け付けている。どの商品もお洒落なものばかりだ。
若者の間では、この店のアクセサリーを贈れば意中の人と結ばれる、というまことしやかな噂まで流れているという。
陽太は今日この店を訪れる予定だったが、仕事の都合で遅くなってしまい、こんな時間になってしまったのだった。
この街では今日明日と夏祭りが行われる予定で、そのせいで人通りも車もいつもより多い。一部の道路では交通規制もされているため、場所によっては人や車が道にあふれ、人ごみも出来ている。遅くなってしまったのはそのせいでもあった。
店の閉店時間は、夜9時。もう何分もない。
やっと店の入り口が見えて来たと思ったら、中から店員らしき男が出て来た。「OPEN」の札を付け替えようとしている。
(マズい!)
陽太は焦った。ぐずぐずしていると、店を閉められてしまう。
「待った! ちょっと待った! まだ閉めるなー!」
男を押しのけるようにして、間一髪で陽太は店に滑り込んだ。腕時計を見る。8時57分。閉店3分前。
店内はすでに半分くらいの照明が落とされていて、少し暗くなっている。
「困りますね、お客様」
さっき陽太に押しのけられた男が、店内に入って来た。眼鏡をかけ、あごひげをすっきりと整えた、洒落た感じの中年の男だった。男は渋い低音の声で言った。
「閉店時間が来ております。明日にでも、また改めてお来しください」
「閉店は9時だろ? まだ3分あるじゃないか、ほら」
陽太は自分の腕時計を示した。
「『まだ3分ある』のではなく、『もう3分しかない』のでございます」
男は慇懃無礼な口調で答えた。
「いいだろ、それくらい。金なら持ってんだよ」
ここへ来る前に銀行のATMで引き出して来た金が、財布に入っている。そういえば、ATMコーナーもいつもより混んでいたように思う。行列が出来ていた。
「お客様、店にはすべからく閉店作業というものがございます。レジの中のお金をすべて数え、出入りした金額を合わせなければなりません。また、店内の清掃や明日の準備などの作業もございます。それらの作業の数々がお客様一人のために大幅に遅れ、時にはやり直さねばならなくなるのでございます」
「いや、でもさ、こうやってわざわざ客が来てんだから。融通利かせてくれたっていいだろ。俺だって今日は仕事で遅くなったんだよ」
陽太は食い下がった。ここで引くわけには行かない。
「ご自分がブラック企業にお勤めだからと言って、他の者にもその働き方を強要するのはいかがかと存じますが」
「ブラック企業じゃないよ(多分)! たまたま遅くなっただけだよ!」
続いて陽太は泣き落としにかかった。
「俺、明日の花火大会で告白する予定なんだよ。ここのアクセサリーをプレゼントしたら、間違いないって聞いてさ。俺の明日のために、頼むよ」
そう、陽太にとっての決戦は明日だった。祭りのクライマックス、花火大会。経理の由美さんに一年アプローチをかけ、ようやく一緒に行く約束を取り付けたのだ。ここでしくじるわけには行かない。
「そんなに大切なお買い物でしたら、閉店間際に飛び込んで来られるよりは、前もって予約なさった方がよろしかったのでは」
「したよ! 予約! いくら俺でも、そこまでいきあたりばったりじゃないよ! 台帳でもお客様データでも何でも見てくれよ」
「さようでございますか。しかし、予約情報を記録したパソコンは、すでに電源を落としてしまいました。再度立ち上げ直すにはお時間がかかります」
「パソコン立ち上げるくらい、そんなに手間はかからないだろ。うちの事務ならやってくれるぞ」
「なるほど、やはりブラック企業にお勤めで」
「だから違うって!」
「ブラック企業にお勤めでしたら、お相手の方にもさぞやご負担がかかるものと存じましたが、違うのであれば何よりでございます」
嫌がらせだ。絶対嫌がらせだこれ。陽太はいきり立った。
「お客の要望を聞くのが店員だろ! お客様は神様だぞ!」
「『お客様は神様』ですか。よく聞く言葉ではありますが、これはそもそも歌手の三波春夫様の言葉でございます。本来は、ステージを見にいらっしゃるお客様を神様と思い、神に捧げるつもりで自らの芸を見せるという、芸能人としての覚悟の言葉でございます。決して、お客様だから何をしても良い、どんなわがままを言っても良いという意味ではございません」
男は縦板に水のごとくしゃべった。聞きながら、陽太のイライラは頂点に達しようとしていた。仕事のクライアントも、上司も、祭りの人ごみも、渋滞も、ATMに並んだ列も、そしてこの目の前の店員も、みんな俺の邪魔をしようとしている。
「ごたくはいいんだよ! とにかく俺が予約したもん出せよ!」
陽太は店の奥に突進しようとした。男がその前に立ちふさがる。つかみかかろうとした陽太の手を、男は素早い動きでひょいとよけた。陽太は思わずつんのめりかけた。
「さて、そろそろ閉店の時間でございます」
男の言葉とタイミングを合わせるように、後ろから誰かが陽太の肩をぽんぽんと叩いた。陽太は反射的に振り向いた。
ぷしゅ。
軽い音と共に、ミストかスプレーのようなものが陽太の顔にかけられた。と、強烈な眠気が陽太を襲った。
なすすべもなく、陽太はその場に倒れ込んだ。
「やっぱよく効くっスねぇ、リーダー特製の瞬間睡眠ガス」
スプレー缶のようなものを手にした金髪の青年が、陽気な口調で言った。
「遅かったな」
眼鏡の男は金髪の青年をじろり、と睨んだ。
「すんませんリーダー、祭りの交通規制で渋滞に捕まっちまったんスよ」
あまり反省してなさそうに謝りながら、金髪は手際良く意識のない陽太を拘束して行った。
「しっかし、何スかねこいつ。閉店間際に駆け込んで来といて、ぐだぐだゴネまくって。せっかくリーダーが遠回しに『帰れ』って言ってやってんのに、帰んねーからこんなことになるんスよねぇ。おめーの事情なんか知るかっつーの」
金髪は縛り上げた陽太を、奥の部屋に押し込んだ。そこには、同じように眠らされて拘束された、この店の本物の店員達が閉じ込められている。睡眠ガスの効力からすると、少なくとも三時間くらいは目覚めないだろう。
「俺、ぜってー接客業とか出来ねーっス。こういう奴来たら、イライラしてぶん殴っちまいそうで」
「おしゃべりは後にしろ。仕事にかかるぞ」
リーダーと呼ばれた男は慣れた手つきで店の金庫を開け、中の金や特に貴重な商品を取り出した。金髪は店内の目ぼしい宝飾品を運び出し、外に停めてある車に積み込む。
警官達が、祭りの人ごみの警備に手を取られている隙をついた犯行だ。彼らはプロの窃盗団だった。
「逃走路は大丈夫なんだろうな。渋滞のせいでこちらが捕まっては、洒落にならんぞ」
「そこはバッチリっスよ。逃げ道はちゃんと頭に入ってるっス」
眼鏡と精巧な付け髭を外したリーダーの言葉に、金髪はニヤリと笑って答えた。
車は、祭りの喧騒を避けるように、夜道の向こうへ消えて行った。
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