第一章『早咲きの桜の下で』

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第一章『早咲きの桜の下で』

「うぅぉおらぁあああー!」  その女の子は叫びながら金属バットを振り回していた。夜の公園で彼女がそうする理由なんて分からない。だけど彼女が放つ叫びがクレイジーで本能的だってこと、そしてメチャクチャに振り回す金属バットがアナーキーで徹底的だってことは、肌ではっきりと分かった。『たぶん』よりも『きっと』の方がよく似合うパーセンテージで彼女はイカれてる。  僕は金属バットの彼女を、だいたい十メートルくらい離れた距離にあるベンチから眺めている。彼女の後ろに見える公園の時計塔の針は十時半を少し過ぎた頃を指してる。さっきまで僕は塾の帰りで自転車をこいで家に帰ってる途中だった。  それが、この公園に寄ったのは、三日前に開花宣言が出された桜でも眺めようかと思ったからだ。別にそんな花が好きわけでも、季節の変わり目に敏感なわけでもない。ただ今日は、なんとなく自分でも処理しきれない曖昧なままの感情ではあったけど、このまままっすぐに家に帰えりたくなかった。  僕は適当な場所に自転車を止めて、ベンチに座った。公園の灯りが照らす早咲きの桜をぼんやりと見上げた。天気もいいし、風も柔らかで、だから僕はちょっといい気分になって、軽く目を閉じ、深呼吸でもするみたいにゆっくり息を吐いた。  その時、叫び声が聞こえた。それで目を開けると、少し離れた場所で金属バットを振り回す女の子の姿を見つけた。 「だらぁああ!」 女の子は叫び声とともに飛び上がり、夜空でも切るみたい金属バットを一閃させる。  もちろんこの状況は確実に安全とは言い切れないけど、現在の彼女と僕の位置関係からするに、今すぐに逃げ出さなくてもよさそうな感じだったから、そのまま彼女の様子を眺めた。  完全に意味、分かんない。あの子は何をしてんの? あれ、あの水色のセーラー服、どこの学校だったかな……。  そんなことを僕が考えていたら突然、彼女が金属バットを振り上げて、こっちに走ってくるのが見えた。  マジで? ヤバいじゃん。こんなホラー映画みたいなことになるんなら桜なんて見に来るんじゃなかった。  僕は慌ててベンチから立ち上がり、逃げ出そうとした。しかし一瞬先は闇、僕は肝心の一歩目をあっさりと滑らせて転倒、ウソ? って思っても後の祭り。その間も金属バットを振り上げた少女は僕に迫ってくる。ほんの五分前には全然、予想もしなかった人生のピンチに心拍数は急上昇、僕は一瞬、最悪を覚悟した。  だけど待っていたのはうれしい予想外の展開で、彼女は倒れた僕を完全に無視して通り過ぎていった。 「がぁああ!」 そして彼女は何もない暗闇にむかって金属バットを振り下ろすと、また振りかぶり、そのままどこかに走り去っていってしまった。  よく分かんないけど、とりあえず助かったみたい。それにしてもコレって一体、どういう状況? まあ、とりあえず帰ろう。あっ、思い出した。あの水色のセーラー服は北高だ。  僕はベンチの横に停めてあった自転車にまたがる。まだつぼみの多い桜の枝をちょっと見上げた後で、僕は勢いよくペダルを踏みこんだ。  まだ春は浅くて、どこか冴えを残した空気を、頬に心地よく感じながら、僕を乗せた自転車は公園の中を進んでいく。  この小金井公園には五〇種類、一七〇〇本の桜の木が植えられていて、日本さくら名所百選にも選ばれている。でも桜の頃に限らず、家の近くにそういう大きな公園があるってのはラッキーなことだと思う。小さな頃は毎日、この公園で遊んでた。いつかこの街を離れた時がくれば、きっと懐かしく思い出すのだろう。  家に帰った僕は濃いめのコーヒーを片手に、机の上にノートと教科書を広げていた。少し眠いけど明日の英語の予習を済ませなくちゃいけない。でも気が付いたら教科書のページをめくる手が止まっていた。考えていたのは金属バットを振りまわすイカれた彼女のこと。一体、アレは何だったんだろうか。なんだか胸が落ち着かない。それは彼女が金属バットを振り上げながらこっちに向かって来た時に心に走った変な感覚のせいだ。あの感覚は今まで生きてきた十六年間で一度も感じたことのない人生で初めてのものだった。もちろん今までの人生の感覚の全部を覚えているわけじゃないけど、それでも、そんな気がした。まあ、単純に人生で初めてリアルに身の危険を感じたってだけなのかもしれない。  ひとつまみの苦笑いといっしょに、ため息は不思議なくらい優しくて、変な感じだった。  あぁ、もう朝か──頭に張り付く、毎朝午前七時の鈍くてぼんやりした失望感を感じながら、ベッドサイドのスマホに手を伸ばす。鳴り響くアラームは相も変わらず無責任で他人行儀。 後、五分だけ──そう思う気持ちをなんとか押さえて、ベッドを抜け出す、いつも通りの毎朝の葛藤。  着替えを済ませた僕は、あくびを噛み殺しながら部屋を出た。 「おはよう。朝ごはん、もうすぐ出来るから」 キッチンに向かう母親が、振り向きながら言う。 「あぁ、うん……」 僕が生返事をしたのは眠気のせいだけじゃなく(もちろん、それもあったけど)ダイニングテーブルに並べられたお皿の数を確認したからだ。今、母さんが作っている朝食は二人分で、つまり父さんは昨日の夜も帰ってこなかった。  僕はそのことに気がつきながら、気がつかないふりをして、眠そうに目をこすりながらトーストをかじる。母さんも母さんで、僕が気がつかないふりをしてることに気がつきながら、そのことに気がついてないふりをして、取りつくろわれた微笑みを浮かべながらサラダを口に運ぶ。  当たり前だったはずの日常は、もうささやかに歪んでしまって、でも別にいちいち傷ついたりはしない。だってもう慣れてるから。  ニューバランスのスニーカーの紐を結び終えた僕は、玄関のドアを開ける。 「いってきます」 「いってらっしゃい」 そんな当たり前の挨拶で、僕と母親が互いに演出し合う平和な日常感。見あげると、今日も空は、どっちつかずの透明と不透明の間の青色。  教室の自分の席に座ると、いつものように隣の席にダンス部の女子が三人集まっておしゃべりしてるのが聞こえてくる。毎日、代わり映えのしない惰性と夢中がハーフ&ハーフにブレンドされた彼女たちのテンション、でもそれぐらいが、きっとちょうどいいってこと、僕にだって分かる。  彼女たちが僕の隣の席に集まってくるのは、僕の隣が新山の席だからだ。新山はクラスカースト的に言えば最上位にランクされる。パラメーター的には、やや幼顔の可愛さと、それに似つかわしくない気の強さ、その二つがクラスの女子なかでも飛びぬけている。その新山に同じダンス部の竹内と楠木を加えた三人が、いわゆる女子のトップ・グループだ。僕のクラスカースト的な話をすれば、ミドルクラス、可もなく不可もなくだ──と一応、自分では思ってるが、他のクラスメイトに目にも、そう映っているかはあまり自信がない。  僕は、いつもすぐ隣でくりひろげられる女子トークに対して口を挟んだりしないで聞き流してる。それが賢明な選択だと感じていた。 「ねえねえ、そう言えば昨日、また出たんだってさ。知ってる?」 竹内が無意味に髪を触りながら言う。(本人すれば髪を触ることに意味があるのかもしれないけど、僕にはまったく分からない) 「出たって、何が?」 楠木が必要以上に高いテンションで食いついき、それを確認した竹内の顔に満足そうな表情が一瞬、浮かぶ。だけど竹内はその口角のほころびをすぐに隠す。そして不自然でないギリギリの時間間隔の置き、もったいぶって答えた。 「金属少女」 「ぉぉおおー!」楠木の確実にオーバーな声が響く。 「えぇ、今度はどこ?」新山がけだるそうに聞く。 「駅前の交差点。D組のイトちゃん分かる?」 「うん。なんとなくだけど……」そう答える楠木は、たぶんイトちゃんが誰か分かってない。 「帰りに見たんだって」 「でも駅前って、金属少女も、また人の多いところに現れたね」 「だね。ケガ人とかは大丈夫なの?」 「それは大丈夫だったみたい」 「私も一回見てみたいな、金属少女。いきなり奇声をあげながら金属バット振り回すって、めっちゃヤバいよね」 「ヤバい、ヤバい」 そして三人の女子の笑い声が上がる。もちろん、その中で一番大きな笑い声は楠木のものだ。あくまで僕個人の感覚であるという前提で、僕は楠木の笑い声が嫌いだ。媚を売るような、それでいて人を見下すような、消すことのできない人間の卑劣を端的に、そして象徴のように僕の心に浮かび上がらせてしまう。だけど今この時に限れば、僕は楠木の笑い声なんて全然、気にならなかった。だって圧倒的に金属少女ってキーワードの方が気になってしかたがない。迷いやためらいは、もちろんあった。彼女たちの会話にいきなり僕が口を挟むことの不自然さは否定しようもない。でもだからって、このまま黙って、金属少女ってキーワードを聞き流すことは出来なかった。 「金属少女って何?」 自分でも意外な僕の声の大きさに「えっ?」三人のおしゃべりは止まり『なにコイツ? 今まで私たちの話、聞いてたのかよ』的な視線が一斉に僕に注がれる。分かりやすく気まずい空白の時間に僕は焦る。 「ゴメン。いきなり口挟んだりして、あの……でも……ただ昨日の夜、僕もいきなり叫びながら金属バットを振り回す女の子を見たから」 「永瀬も!?」 「そう。昨日、塾の帰りに見たんだ。小金井公園で」 「マジで? ヤバいじゃん。えぇ、どんな感じだった? 教えてよ」 いつも鬱陶しいと思っていた楠木の食いつき過ぎのリアクションなのに、今は、それに救われた気持ちの僕がいた。相変らずの自分勝手とご都合主義だ。ぐるぐると回るメリーゴーランドみたいな僕の思想と感情は、つまりどこか別の場所にたどり着くことは永遠にない。まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく僕は昨日、出会った金属バットをムチャクチャに振り回す女の子について三人に話した。 「それ、もう間違いないわ。100%金属少女だ」 僕の話を聞いた楠木が間髪いれずに答える。その後、彼女たちは、僕の知らなかった金属少女に関する情報を教えてくれた。  金属少女が、一体いつからこの街に出没するようになったのか、正確なことは分からない。新山が初めて彼女に会ったのは二週間ほど前のことらしいが、それ以前から、彼女がこの街に出没していた可能性も否定できない。  ちなみに新山の遭遇した金属少女とのファースト・コンタクトは、彼氏とデートしている時だった。駅前の通りを南へと歩く二人の目的地はカフェ・ノエル。フレンチ・トーストが有名で楠木曰く、そのフレンチ・トーストは耳なしでふわふわとろとろ、プリンのような食感がもう天国ってか、とにかくたまらないらしい。  とにかくカフェ・ノエルへと続く道を、新谷は彼氏と手を繋ぎながら歩いていた。すると突然、後ろから「おぉぉらあぁあ!」と言う声が聞こえて来た。振り返えった新山の目に飛び込んできたのは、金属バットを振り上げる女の子の姿だった。その距離一メートルほどで新山も「マジで、ビビった」ということだが、次の瞬間バットは新山とは無関係な方向へとふりおろされる。新山としては一安心、そして当然のダッシュで危険地帯からの脱出に成功。 少女はその後も叫び声をあげながらメチャクチャにバットを振り回し続けたと言う。  そして翌日、他のダンス部員も、金属バットを振り回す少女を見たと言う話になり、さらに目撃情報が集められる間に彼女に対して『金属少女』という、まるで新しい都市伝説か何かみたいな呼び名がつけられた。 「そうだったんだ。二週間まえから……」新山たちから金属少女の発見から、今日までの歴史を聞かされた僕が言う。 「マジで知らなかった?」楠木が、相変らずの大げさな感じで僕に聞き返す。 「うん……」 「まあ、永瀬って、なんかキャラ的に、そういう学校とかクラスの噂話とか疎い感じだもんね」竹内が相変らず髪を触りながら、そう言って、楠木と二人で笑い合った時だった。 「私は別に、いいと思うけどね。噂話なんて疎くて、だいたいが噂なんて誰が誰を好きだとか、先生の悪口とか、そんなことばかりだからさ。私も永瀬みたいにクラスの噂に疎くなろうかな」 新山の見た目とは裏腹な少しハスキーな声が、不意の柔らかさを持って響いた。  放課後を告げるチャイムが鳴る。シュワシュワとソーダから炭酸が抜けていくように、僕らは教室を出ていく。部活だったり、塾だったり、駅前のファーストフードだったりだ。出て行き方も人それぞれだ。新山のように、ダラダラとみんなで楽しそうにしゃべりながら教室を出て行く人もいれば、僕のように、さっさと一人で疲れた顔を浮かべながら、教室を出ていく人もいる。  僕は学校の図書室に向かう。塾が始まるまで、まだ時間あった。そういう時、僕は図書室で自習して時間をつぶすことにしてた。だけどその日は一応ノートを広げてみたものの、どうにも集中できなかった。僕は立ち上がり、ぼんやりと書架を眺めて歩いたりした。何か小説でも借りようかと思って、何冊か手に取ってみたけど結局、何も借りずにまたノートの前に戻って来てしまった。僕は腕時計に視線を走らせると、一グラムちょっとのため息と一緒に立ち上がった。  その夜、塾からの帰り道、僕は自転車で小金井公園の中をゆっくりと走っていた。その僕の行動自体は昨日と同じだ。でも、その行動の目的は同じじゃなかった。僕は昨日、座っていたのと同じベンチの前までくると自転車を止めた。  昨夜は早咲きの桜を見るためにこの場所に、じゃあ今夜は何のために──ベンチに座った僕の視線は当てなくフラフラと暗闇の中を揺れる──僕は一体、何をしてるんだろう? 僕は10分ほどベンチに座っていた。何も起こらない。当たり前だ。それが当然のいつも通りの逃れられないガチガチな日常だ。今夜、金属少女は現れなかった。  放課後の図書室の窓から、僕はグラウンドを眺めている。視線の先ではサッカー部が練習していた。 ──あれが青木だな。遠目から見ても一人だけボールタッチの質感が完全に違ってた。青木がサッカー部の天才肌のエースであることは素人の僕にもすぐに分かった。  でも別にサッカーに興味のない僕が、何故一度も話をしたこともない青木のことを見ていたかと言えば、それはやはり金属少女が関係していた。  現在までのところの金属少女による直接の被害者は出ていなかった。しかし、あえて被害者の名前として青木武史(サッカー部、高2)の名前をあげることが出来る。  青木は、新山が金属少女と初めて遭遇した時、一緒に手を繋いで歩いていた彼氏だった。ここで『だった』と明確な過去形を取る理由は一つだけだ。 ──青木のヤツ、マジありない。繋いでた手を放して自分だけ逃げるなんて。 そう言った時の新山の声はハリネズミみたいに尖りまくりだった。金属少女が初めてこの街に現れたその日は同時に青木とって新山というカノジョを失なうことになった日でもある。  だけど突然、知らない誰かに金属バットを振り回して近づいてこられたらと想像すると、青木のとっさの行動にも同情の余地はある。  それから二週間がたった現在も青木は、当然のようにまだ新山に未練タラタラで何とかヨリを戻そうとしているらしい。もちろん新山の方には、その気は全くない。  あの日、金属少女と出会わなければ、たぶん今も新山は青木の彼女だったはずだ。そういう意味で青木は金属少女の被害者第一号だった。  今日もこの街のどこかであの子は叫び声をあげ、金属バットを振り回してるのかな。まあ、でも僕には関係ない。それよりも、そろそろ時間だ。さあ、僕は塾に行かなくちゃ。  僕は視線をサッカー部が練習するグラウンドから、そのまま上へとスライドさせた。目に映る花曇りの空に覗くのは、ずいぶんと控えめな青色だった。
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