受験勉強と甲子園は二者択一です。

1/1
前へ
/1ページ
次へ
ようやく事故区間を通過し通常走行に戻った。 高速の不便なところはひとたび事故が起きると迂回のしようがないところである。 既に到着予定時間から2時間以上過ぎており、試合開始時間は目前だった。 「あともう少し!急いで!」 青の車体に真っ白のラインが入った大型バスの車列が、まだ昨日の暑さの残る早朝の高速を駆け抜けていく。 高校のグラウンドを出発してから既に16時間が過ぎている。 疲労はピークに達しているはずだが、ほとんど疲れは感じていない。 車内を見渡しても、もう誰一人寝ている生徒はいない。 ローカル局とはいえ、テレビで生中継されていることもあり、皆、早朝とは思えないくらいハイテンションだった。 そして地元で見守る多くの市民も朝早くから、あるいは徹夜で、この地元テレビ局の緊急特番を食い入るように見ていた。 急遽、体育館に開設したパブリックビューイングにも多くの野球部関係者や地元の高校野球ファンが集まっており、お祭りスタート1時間前のような熱気が溢れていた。 昨日から学校に残って徹夜でサポートに当たっている先生たちも含め、街全体が今まで経験したことのない興奮に包まれていた。 高校野球の応援は野球に関心のない人にはどうでもいいことのはずだが、今回は野球以外の話題でマスコミに取り上げられていたせいもあり、誰もが無関心でいられなかった。 「試合開始時間か・・・」 担任の先生が音響の調整をしながら体育館の大きな丸い時計を見る。 長針がカタンと動いて8時ちょうどを指す。 ローカル局の映像はいまだ走行中のバスからの中継だったが、他局の中継では試合開始のサイレンが鳴り響いている。 「みんな頑張れ。もう少しだ!」 先頭のバスにちゃっかり同乗している地元ローカル局の女性レポーターも、刻一刻近づいてくる甲子園に、自分の頬を両手でパチンと叩いて気合いを入れ直す。 「さ~て、一丁ぶちかますわよ!」 なにをどうぶちかますのか誰も聞かなかったが、目一杯気合いが入っていることだけは伝わってくる。 昨日からのこの局の平均視聴率は、深夜も通して常時30%台をキープしており、瞬間最高視聴率に至っては75%超、まさに開局以来の快挙であった。 ドローンで上空から見た大型バスの車列はまるでクジラの群れのようで、その青い影が次々とインターを降りていく。 「見えた!」 最初の交差点で左折した瞬間、ついに甲子園球場がその勇姿を現した。 多くの市民で溢れかえっているパブリックビューイングでは、球場に向かう応援団たちへの声援で盛り上がっていたが、手元のモニターでNHKの放送をチェックしている先生は不思議そうにつぶやいた。 「定刻を過ぎたのに・・・なぜ試合が始まっていない?」 自校の選手は既に守備位置に付いており、主審のコールを待っている。 既に試合開始のサイレンも鳴り終わってしばらく経つが、いまだに試合は始まっていない。 「いったい何が起こっているんだ・・・?」 大型バスの車列が次々と球場の駐車場になだれ込んでいく。 球場の交通整理のおじさんたちが、僕たちの乗った大型バスを西側入り口脇に横付けするように誘導する。 バスのドアが開くと同時に、僕たちは駆け出した。 「あれれっ!」 一晩中バスに乗り続けていたせいか、バスのステップを降りた一歩目で隣の彼女の足がもつれて転びそうになる。 「危ない!」 とっさに腕を支えると、そのまま右手を取って走り続ける。 まるでキャラではなかったが、二人とも早くスタンドへという気持ちが一杯で照れてもじもじしている余裕はなかった。 走っていく先々で、昨日、テレビで見た女子高の生徒が手を大きく回して、僕らの進む方向を指し示している。 昨日の大応援も思い出し、また目頭が熱くなるが、ぎりぎり泣かなかった。 「ありがとう!」 言葉だけでは伝えきれない気持ちを残し、足音の響く通路を先へ先へと走る。 階段を駆け上がり、通路を駈け抜けると、大声援が聞こえてくるスタンドの入り口がトンネルの出口のように明るく見えてきた。 「うわっ!」 スタンドに飛び出した瞬間、一気に視界が開けた。 抜けるような青空と轟音のような大歓声で軽く眩暈がした。 昨日、教室のテレビで試合を見てから18時間余り、まさか自分たちが同じ場所に立つことになるとは夢にも思っていなかった。 「よしっ!」 「よくやった!」 「すごいっ!」 ずっとテレビで応援していた地元の人たちも、半ば泣きながら大声援を送る。 後続の生徒たちも次々とスタンドに飛び出してきた。 「本当に来てくれた・・・」 グラウンドからこの様子を見ていた野球部の皆も目を潤ましており、ピッチャーに至ってはちゃんとストライクが入るのか不安なくらい号泣している。 今、この瞬間が夢のようだった。 授業終了のチャイムで目が覚めるんじゃないかと不安になるが、とりあえずそんな気配はない。 夢だろうが何だろうが、とにかく甲子園に到着した。 あとはチームを全力で応援するというミッションをクリアするだけだ。 着いたばかりでほとんどぶっつけ本番だが、うだうだ泣き言なんて言っていられない。 車内で打ち合わせた通り、全力で思いっきりやるだけだ。 試合開始のサイレンが鳴ってから既に10分が過ぎていた。 球場の熱気はピークのまま、観客の注目がスタンドの応援団から主審へと向かう。 選手たちが改めて臨戦態勢に入る。 主審の右手がゆっくりと上がり、一瞬の静寂の後、球場に試合開始のコールが響いた。 「プレーボール!!!」 --- ただでさえ辛い夏の暑さに公園の蝉の声のウェーブが拍車を掛ける。 生徒のいない校庭では、校務員のおじさんが長いホースで水撒きをしている。 真夏に相応しい暑さに、窓だけでなく教室の入り口も全開にしているが、風がないので焼け石に水だった。 のどかな夏の昼下がり、決して小さくないこの街だが、いつもの喧騒は影を潜めている。 この教室も例外ではなく、まるで誰一人いないかのように静まり返っているが、それはこの暑さのせいではなく、かといって授業に没頭している訳でもなかった。 本来なら5時限目も終わる午後2時、黒板の横にある古いテレビから高校野球中継が流れている。 僕は元々野球には興味はないし、高校野球も全く見ていない。 ひたすらガリガリと勉強するだけの面白みのない受験生だ。 しかし、そんな僕が昼間から野球観戦をしているのには、それなりの理由がある。 一時間半前から始まっている試合は、夏の甲子園7日目の第3試合。 マウンドに立っているのは、紛れもなく我が校の野球部のエース。 細かい試合展開はわからないが、8回まで0対0、接戦のようだ。 本来なら甲子園初出場ともなれば学校中、街中で大声援を送っているのが普通である。 それどころか甲子園のスタンドで全校応援していても不思議ではない。 にもかかわらず、ただ静かに、ひっそり観戦しているこの状況・・・ 繰り返すが僕は野球に興味がないし、どちらかと言うと高校野球にも否定的である。 先月、2時間近くかけて全校応援に行って甲子園出場が決まった瞬間も、ただただ熱くて疲れたという気持ちが先に立ち「よくやった!感動をありがとう!」というありがちな感想は全く出てこなかった。 もっとも、そんな不埒な輩は僕くらいなもので、甲子園が決まってからのクラス、学校、地域の盛り上がりはけっこう、いや、メチャクチャすごかった。 チームが練習するグラウンドは連日黒山の人だかりで、地元ローカル局のレポーターもその様子を伝えていた。 市内初の甲子園出場ということもあり、初戦から全校応援の予定が組まれていた。 チームの滞在費用も含め、結構な予算が必要だったらしいが、寄付金の申し込みも順調で、あっという間に必要額が集まった。 生徒の応援練習も毎日のようにあり、それほど長い時間でもなかったが、野球に関心のない受験生にとってはまあまあ苦痛だった。 そんなこんなで順風満帆に見えた甲子園騒動だったが、ひとつの事件で、盛り上がりは何事もなかったかのように消え失せた。 こともあろうに、応援団が暴力事件を起こして警察沙汰に・・・絵に描いたような不祥事だった。 甲子園出場自体もともと興味がなかったので事件の詳細は聞いていなかったが、どこかの誰かにはめられたみたいな噂は流れていた気がする。 最終的に出場停止にならなかったのはその辺の事情だったのかどうかも知らないが、とりあえず全校応援は中止、吹奏楽部、応援団のスタンド応援も中止、結果として父兄の応援さえも自粛することになった。 応援する側以上に野球部のテンションも、これ以上ないくらい下がっていた。 もし間違って勝ち上ったりしたら、きっと心無い言葉が雨あられと降り注ぎ、非難され、やり玉に挙げられるのが明らかだったからだ。 「もういっそ、テレビも消した方が・・・」 そう思ったのは決して野球に興味がないからではない。 こんな酷い状況で試合をしている野球部の皆を見るのが可哀想だったからだ。 野球部にはクラスメイトが二人いる。 7番と8番バッターで、二人とも真面目だし練習熱心だった。 せっかく頑張って掴んだ甲子園なのだから、彼らには最高の状態で大舞台に臨んで欲しかったと思う。 ふと見ると、ガラガラのアルプススタンドの端っこに一人、声援を送る小さな子が映っている。 クラスメイト情報だと、その子はピッチャーの妹とのことだった。 父兄の応援は自粛だが、小学生の妹は父兄じゃないから?という訳でもないのだろうが、一生懸命に声援を送っている。 そんな、やり切れない状況で初戦を戦っている野球部に、最悪のタイミングで最低の事実が明らかになった。 試合開始から一時間くらい経過した頃、僕らの学校の野球部を出場辞退寸前まで追い込んだ事件関係者のネット画像が拡散されていた。 「せっかく手間暇かけて準備したのに、代金半額ってどういうこと?出場停止にならなかったのは俺たちのせいじゃないからな!」 どうやら幾何かのお金で暴力事件をでっちあげて、次点の高校の甲子園出場を画策していたようだが、当てが外れたらしい。 約束していた金がもらえなくなり自棄になったのかは知らないが、自白映像がだだ洩れって・・・最低過ぎる。 学校や地域の期待を汚い方法で踏みにじった連中には心底腹が立った。 そして謀略の犠牲になった野球部の皆にも同情を禁じ得なかった。 しかし僕たちが野球部のためにできることは・・・なにひとつなかった。 試合も残り1イニング、今となっては何をするにも手遅れだった。 せめて応援団だけでも球場近くに待機させていれば・・・ 間近でテレビを見ていた先生が呟いた。 「・・・1点取られた。」 9回の表、2アウトから連続フォアボール、次の打者に甘くなった初球を痛打され、ついに相手校に先制点が入った。 ・・・そして気が付けば、さらに1点 四面楚歌の状況で孤軍奮闘していた野球部もついに力尽きた。 繰り返すが僕は野球に興味はないし、高校野球も見ないし、そもそもスポーツ全般が得意ではない。苦手である。 そんな僕でも今の野球部の状況にはそこそこ、いや相当、同情するものがある。 今まで一生懸命やって来て、やっと掴んだ大舞台が、こんな結末で終わるなんて・・・残念過ぎる。 あれこれ考えながら見ているテレビ画面に、絶望的な3点目の白い文字が大きく映った・・・ 「ちょっとみんな、いいかな?」 甲子園球場近くの大型車専用駐車場に停まっていたバスのドアが突然開いて、外の熱気とともに入ってきたのは、今日の第4試合に出場する北校野球部のキャプテンだった。 「え~!」「どうしたんですか~!?」 その第4試合の友情応援のためにバスで待機していた一団は、予期しないスペシャルゲストに悲鳴のような歓声を上げた。 大騒ぎを制しながらキャプテンが話す。 「とても大変だと思うけど、ぜひ協力してほしいことがあるんだ。これは、今、僕らにしか出来ない事なんだ!」 9回の表に一挙3点が入り、なおも2アウト満塁 なおも西高のピンチは続いていた。 キャッチャーがマウンドに走り寄り、ピッチャーを元気づける。 「とりあえず腕を振って、ど真ん中、あとは野球の神様が何とかしてくれるから!」 「本当かよ・・・」 もし本当に野球の神様がいるのなら、なぜこんな苦難を与え給うのか問い詰めてみたい。 まあしかし、今ここで色々細かいことを考えたところで、確かにどうしようもない。 「わかった!ど真ん中、行くぞ!」 「あれっ、何かスタンドで動きがあるようですね・・・?」 実況のアナウンサーがふと気付いた先には、試合中にもかかわらず大勢の人の動きがあった。 空席だらけのアルプススタンドに、どこかの高校の生徒らしき一団が移動、次々に整列し始めている。 「ん~、次の第4試合の友情応援の生徒さんのようですね。」 解説者が資料を見ながら解説する。 白を基調にした制服は、甲子園で夏春連覇中の高校の友情応援をしている、けっこう有名なお嬢様女子高のものだった。 「ん~、ちょっといけませんね。一応、まだ試合中ですし・・・」 解説者の一応の苦言もよそに、生徒たちは次々とスタンドに整列している。 8回まで均衡していた試合だったが、土壇場の9回表に一挙3点が入った。 さらに2アウト満塁とピンチが続いたが、ど真ん中に投げ続けた球がいい感じに散らばって3球3振、ようやくチェンジになった。 フォアボールの時の主審の判定が少し厳しすぎるような気もしたが、野球の審判は神様らしく、日頃よくしゃべる解説者も判定についてはずっと無言のままだった。 9回の裏、高校野球最後のバッターボックスに向かう7番バッターの足取りは、素人目にも重そうに見えた。 ベンチからの声援もほとんど出ておらず、「もういいから早く帰ってこい。」という諦めにも似た空気が感じられた。 教室でもあちこちでため息が溢れ、女生徒のすすり泣く声まで聞こえてきた。 なにも泣くほどのことでも・・・そう思ったが、ずっと応援してきた人にしてもみれば悲しくてたまらないんだろう。 多分、選手の家族や親戚一同も同じような気持ちだろう。 そしてもう、どうにもならないこと、何もできないことも、皆、分かっている。 僕は両手で頬杖をつくと、せめて最後の攻撃を見届ける準備をした。 アルプススタンドで一人奮戦していた小学生応援団も、さすがに意気消沈していた。 真夏の暑さと応援疲れも相まって半べそ状態だったが、その頭を優しくポンポンとたたく学ラン姿の男性がいた。 「ひとりでよく頑張ったね。」 その言葉に、ちびっこ応援団長は涙ぐんでいた顔を上げた。 逆光で顔はよく見えなかったが、学ランの下に野球のユニフォームが見えた。 「あとは僕らに任せて。」 彼はそう告げると、スタンドに整列した応援チームの前にトントンと軽いフットワークで降りて行く。 「それじゃあみんな、行くよ!」 すっと上げた両手を左右に開いた瞬間、応援団が起動した。 何が起こったのか、きちんと理解できた人はおそらく誰一人いなかった。 今までのよどんだ空気が一瞬で吹き飛び、真夏の熱い風が吹きあがるように、球場に応援チームの大声援が響き渡る! 呼応して吹奏楽チームも演奏を開始、スタンドを揺らすような大応援が始まった! 「何!?何事!?」 冷たく固まっていたクラスの空気が動いた。 僕は思わず頬杖をついていた手を離して顔を上げた。 まさに自分の眼を疑った。 クラス全員、地元の街の人々、そして今、高校野球を見ている全ての人が、何が起こっているのか理解できなかった。 応援が始まったのは見ればわかる。 でもいったい誰が?どうして? 総勢300人程度の応援だが、応援チームの声量と吹奏楽チームの見事な演奏は一気に球場を呑み込んだ。 空気が一変した。 今までずっと静寂の中で行われていた僕たちの野球部の攻撃が、初めて大声援を受けている。 突如始まった応援に、スタンドの観衆も放送関係者もあっけにとられていた。 「あれって次の試合の野球部のメンバーだよね?」 応援チームの先頭に立ち、学ラン姿で右手を回しているのは・・・なんと次の試合に出場する北校野球部の主力メンバーだった。 いよいよもって状況が理解できなくなっている僕らは、ただただテレビ画面に釘付けになっていた。 鳥肌が立った。 突然のサプライズということもあるが、応援のクオリティが半端ない。 いつもの僕なら、やらせ?とかドッキリ?とか、何か適当な理由をこじつけて斜めに構えて見るはずだが、そんな余裕さえなかった。 小さい子供が買い物に行く番組を見て泣いているおばさんのように、涙がこぼれ、身体が震えた。 本当に瞬きもできないくらいテレビ画面に集中していた。 「先生!ボリューム上げて!」 今までひっそりと試合を見ていた教室も大騒ぎになっている。 そしてそれはこの教室だけではなかった。 学校中、市内中、地元の地域全体が、突然スイッチが入ったように、今までの鬱憤を吹き飛ばすような大騒ぎになっていた。 「よし、行っけ~!、かっ飛ばせ~!」 今まで横目でテレビを見ていた市内の野球好きの中高年たちも、完全に仕事の手を止め、テレビの真ん前に陣取って声援を送る。 半ば生気を失っていたベンチの選手たちも、全員、息を吹き返した。 ずっとベンチの奥に隠れていた監督も、今日初めてサインを出す。 (とにかく打て!何としても塁に出ろ!) 応援チームの応援曲には歌詞も入っていた。 歌詞は急遽、差し替えられたのか、最前列に横断幕のように書かれている。 「GOGO西高!ファイトだ西高!GOGO西高!ファイトだ西高! 君たちにも聞こえているだろう?遠くで見守る仲間たちの声が!立ち上がれ西高!燃え上がれ西高!立ち上がれ西高!燃え上がれ西高!」 応援が始まってまだ数分だったが、彼女たちから大粒の汗が流れている。 その全力応援を受けてバッターボックスに立つ7番バッターの背中からは、まるで湯気が立ち上っているかのような熱気が感じられた。 これまでの野球人生の全てを一点に集中するように、全神経を研ぎ澄ませる。 ピッチャーから投じられた白球がスローモーションのように近づいてくる。 キャッチャーミットに収まる1メートル前、白球は鋭く振り抜かれたバットに圧し潰される。 次の瞬間、時間の流れが戻り、球場に快音が響いた。 あっという間に低い弾道の打球が三遊間を抜けていった。 1塁ベースを回り、大きくガッツポーズを見せた瞬間、応援している全ての人々から大歓声が上がった。 「よ~しっ!続け~っ!」 ベンチから応援している選手のテンションは上がりっ放しだったが、今日2安打を放っている8番バッターは冷静だった。 下がっていたサードの守備位置を見て3塁線にセーフティバントを放つ。 サードがファーストヘ送球しようとする間に、バッターは一塁ベースを駆け抜けていた。 ノーアウト1、2塁 勝負時と判断した監督は、エースに代えて代打の切り札を送り出した。 およそ野球選手には見えない、ずんぐりむっくりとした体形。 定位置のフライも取れないという、有り得ないくらいの守備下手だが、バッティングは地区大会で10打数9安打、打率9割というど派手な結果を残している。 影の4番打者は、冷静に初球をライト前に流し打ち、しっかりと結果を出す。 ノーアウト満塁。 今まで街中静まり返っていたのが、まるで嘘だったように、ありとあらゆる場所で大声援が飛び交っている。 そしてスタンドに突如現れた応援チームも、ここぞとばかりにさらにピッチを上げる。 その見事な応援は全国に響き渡った。 時間はまだ10分程度しか経っていないと思う。 しかし、とてつもなく長い時間が過ぎたような気がしていた。 さっきまでの応援が、まだ頭の中でぐるぐる回っている。 本当に「目に焼き付いている」状態だった。 「・・・すごかったよね。」 「いったいなんだったんだろうね?」 「友情応援の又貸し・・・?」 「誰か家で録画してたらDVD焼いて欲しい」 誰も状況が分からず、何も考えがまとまらないまま、大騒ぎした後の疲労感だけが残っていた。 テレビでは我が校の監督、選手のインタビューが始まっている。 試合は3点差を追いついてなおもワンアウト1、3塁という場面で、表の4番バッターがノースリーから強打、犠牲フライでサヨナラ勝ちという絵に描いたような逆転勝利だった。 西高ナインの見慣れた顔がテレビで話をしているのは、なかなか新鮮な感覚だった。 きっと親御さんや親戚の皆さんもしっかり録画しているのだろう。 なんだかんだですっかり疲れ切った僕たちは、何も余計なことは考えず、ひたすら幸せな気持ちでテレビに見入っていた。 しかし・・・休む間もなく、すぐに現実に引き戻されることになる。 インタビューの後、2回戦の組み合わせ抽選結果が発表された。 その一番上に、見たことのある、いや、いつも見ている学校名があった。 「・・・明日の第一試合って、何時から?」 「確か、朝8時試合開始のはず・・・」 「それで甲子園で応援・・・?」 「遠いし・・・無理だよね?」 「だって何の準備もしていないし・・・テレビで応援するしか・・・」 教室の意見が「明日もテレビ観戦」案に収束されつつあった時、校内放送のチャイムが鳴った。 いつも冷静な校長先生から滅多に聞かないうわずった声で連絡があった。 「え~、こ、校長です。皆さん、と、突然ですが、大至急、テレビのチャンネルを地元の民放に替えてください!」 「へ?」 「なんで?」 クラス全員がそう思っている中、とりあえず「どれどれ~?」と立ち上がってチャンネルを替える先生の背中を見守る。 先生がテレビの隣に座り、画面に映っていたのは、甲子園球場からの中継だった。 「7チャンネルの中継班、甲子園にも行ってたんだ・・・」 そしてローカル局の中継レポーターと一緒に映っていたのは・・・なんと、ついさっきまで見ていた大応援の応援団長、次の試合に出場する北校野球部のキャプテンだった! 教室のざわめきが一瞬で消えた。 笑顔でキャプテンが話し出す。 「西高の皆さん、見てくれてますか?」 キャプテンの話を要約すると、 ~明日の試合、甲子園まで応援に来てほしい。 移動手段は手配できている。 到着時間を考えると午後4時までに全員グラウンドに集合。 とてもシンプルだがメチャクチャハードな内容だった。 一旦、静まりかえった教室がまた大騒ぎになる。 「いや、無理無理無理無理、絶対無理だから!」 「俺は家近いからすぐ準備できるけど?」 「うちは校区外だから、多分間に合わないな・・・」 「実際問題、行ったとしても、その後は?」 教室は一気に重要案件を協議する会議室になった。 不安要素と問題点の確認作業が着々と進んでいく。 「気持ちとしては行きたいけど、いろいろ考えるとちょっと・・・だよね。」 確かに、何の準備もない状況で、十分な準備時間もなく、半日以上かけて移動した直後に大舞台での応援、そして試合後の予定は未定・・・ とにかく物理的時間的な問題、多くの不確定要素など、解決できない問題が多過ぎる。 ちょっと冷静に考えれば、受験生の僕たちには既に結論は出ているも同然だった。 一時の勢いで軽々に行動するようなバカではない。 教室内の会話から誰もがそう思っていることは明らかだった。 まあ僕は野球には興味がない。 高校野球も同様だし、応援に行くとか行かないとかそれ以前の問題である。 しかし・・・ 徐々に冷静さを取り戻していく教室の空気に反比例するように、ゆっくりと自分のテンションが上がっていくのが分かる。 いろんなことを考え過ぎて思考がグルグル回っているが、徐々に自分の考えの輪郭がはっきりと見えてきた。 行きたいけど行けないという答えは誰が見ても当然すぎるくらい当然で、 それを責めることなど誰にもできやしない。 だけど僕はリアルタイムであの応援を見てしまった。 絶望的な状況の野球部に手を差し伸べてくれた人たちのことはもう一生忘れない。 もし可能ならシンプルにありがとうという気持ちを伝えたい。 可能ならば・・・ 物理的には・・・可能? 可能ではある。 そう、これから甲子園に行くことが一番ストレートな結論だ。 皆が思っているようにこれから応援に行くには多少・・・いや多大なリスクなり負担なりはある。 でも今の僕はもうノーリアクションでいることはできなかった。 ついさっき見た光景は、ある種、僕が持っていなかったものそのもの、まさに決断力や行動力が具現化したものであり、目が眩む眩しさだった。 もし少しでも近づけるなら・・・一歩でも二歩でも近づきたい。 だったら・・・結論は出ているだろ? たとえ自分一人でも、どれだけダメージがあるとしても、何があっても行かなくてはならない。 改めて心の中で確認する。 いつだって自分の意見は持っている。 ただ、結果として言葉にしないことがほとんどだった。 そしてその時を過ぎれば、発言しなくてよかったと思うケースがほとんどだった。 集団の中での発言はそれなりに責任が付いて回る。 面倒ごとになるのが嫌だった。 今日も無難にいつものパターンという考えはずっと頭の片隅にある。 しかし、あえてその考えを打ち消すように、大きく息を吸い込んで、自分の気持ちを声に出した。 「確かにリスクはあります!でも行くべきだと思います!」 勢い続ける。 「今、この状況で、甲子園に行かないという選択肢は僕にはありません!」 そう言い切ってからおよそ0.5秒 まじ静まり返る教室 ある程度予想していたことだが、じわじわ自制モードに切り替わる。 ああ…やっぱりこのタイミングでの発言は自粛すべきだった・・・? 教室中の注目を浴びて皆の視線に耐えている僕に、いつも温和な先生がいつもの通り、にこやかに質問した。 「今、このクラスでどうしようか迷っている人も多いと思う。そこで君が行きたい、行くべきだと思うその理由を、簡潔に分かり易く説明してくれるかな?」 当然のことながら、僕は人前であれこれ意見を言うタイプではない。 自分の気持ちは胸の奥底に秘めたまま、場合によっては墓まで持っていくタイプである。 しかし、今日の応援を見て何か変なスイッチが入ってしまった僕は、普段なら決して他人には話さない心のうちの話を始めた。 「行きたいと思う理由はふたつあります。ひとつはさっきの応援に応えたいという自分自身の率直な気持ちです。いつもの自分なら「ピンチの野球部を救う友情応援という美談」などと他人事の作り話のように感じていましたが、今日はそんな考えも浮かんでこないほど圧倒されました。鳥肌が立ちました。10年ぶりくらいに泣きました。そこまでの応援をしてくれた彼らにしても、実際に応援してくれるまでには多くのハードルがあったはずです。それを乗り越えて、僕らの野球部に逆転勝ちまでさせてくれたことは、例えて言えば、僕たちが見つけることのできなかった次のステージに進むためのバトンを僕たちに代わって探してくれたようなものです。 そして明日の応援という彼らからのクエストは、そのバトンを、他の誰でもない、僕たち西高生に手渡そうと手を伸ばしてくれている、そんな気がしています。 正直、これから何日も受験勉強が遅れてしまうことは相当な痛手です。 でも、このまま希望の大学に行けたとしても、必ず悔いが残る。確信があります。 彼らが差し出してくれたバトンは、決して軽いものではありません。 気楽に受け取れるものではないし、たとえ受け取っても目指すゴールにたどり着けるかどうかも分かりません。 それでも、一歩でも二歩でも前に進まなくてはいけない、僕たちには、その義務があると思います。」 一気に話したところで大きく一息つく。 こんなに長々と人前で話すことなんて生まれてこの方一度もなかったので、どうにも息が続かない。 なぜか自分の声がやたら大きく響いているような気がするし、テンション上がりすぎているせいか気圧差で鼓膜が押されてクラクラするような感じになっている。 ちょっとひと休み中の僕を見て、また先生が笑顔で聞いてくる。 「なるほど、よくわかった。それではせっかくなので、もうひとつの理由についても聞かせてもらっていいかな?」 その言葉でちょっとホッとした。 二つ目の理由は比較的簡単なことだったからである。 「それはもう言うまでもないことです。やっとの思いで逆転勝ちした野球部の皆が、もし今の僕たちの様子を見ていたら・・・絶対に応援に来てほしいと思っていますよね?だったらその期待に応えないわけにはいかないでしょう?」 深く頷いて、先生が応える。 「よくわかった。全体的な説明も要点を押さえており、かつ分かり易い。これが模試だったら高得点が期待できたな。」 「どうも・・・」 まだ言いたいことの半分も話せていないことは黙っておこう。 一人で盛り上がって何かを熱く語るなんてのは、自分のキャラではない。 平常心が戻って来るにつれ、何を熱く語っているんだといういたたまれない気持ちでじっとり気が滅入ってくる。 とりあえず「自分の出番は終わったからまあよしとしよう・・・」と自分を慰める。 先生が他の皆の意見も聞こうとしたその時、ほぼ一斉にクラスの皆に動きがあった。 どうやらスマホに着信が入ったようだ。 自分にもラインの着信が・・・誰? 授業中に? もぞもぞとポケットからスマホを取り出して画面をのぞき込む。 母親からだった。 画面を開く。 (よく言った!出発準備しておくから早く帰って来なさい!) えっ? なんで? 帰って来いって話は分からなくもないが、なんで「よく言った」というワードが出てくる??? 突然始まった即興弁論大会で、今の僕には冷静に考える力がほとんど残されていなかった。 ・・・まあいいか もし何か理由があったところで、今日見た応援くらい驚かされることはないだろう。 とりあえず、帰り支度を始めるべく、のろのろと教科書とノートを重ねてカバンに詰め込み始める。 床に落ちた消しゴムを拾おうとして身体を曲げた瞬間、右後ろの教室の入り口が視界に入った。 ・・・テレビカメラと目が合った。 今日いちでびっくりした。 表情が固まった。 0.5秒後、残されていたありったけの思考力を総動員した結果、全ての謎が解けた。 校内で取材していたテレビクルーがたまたま僕らの教室の前にいて、これまでの一部始終を県内に生中継していた。 なんとなく自分の声が響いていたのは、先生の後ろにあるテレビで自分の声が時間差で流れていたせいだ。 うちの親もクラスの家族も皆、その放送を見ていて、それで一斉に連絡が来たのだろう。 謎は全て解けた。 自分の名推理に満足して「ふっ」と小さな笑が出る。 そしてこのあと訪れるであろう相当に面倒な事態を考えると、すーっと血の気が引いていくのが手に取るように分かった。 [これはこれで最悪かも・・・] 案の定、街中大騒ぎになっていた。 何だかんだでずっと静まり返っていた反動が一気に溢れていた。 もし上空から日本列島を赤外線モニターで見たらこの街一帯が突然赤くなっていたに違いない。 職員室の電話は支援の申し込みで鳴りっ放しになっている。 テレビ局の中継は、次々と学校から飛び出していく生徒たちの姿を捉えている。 「これから甲子園に向かうべく、生徒たちは一斉に学校を飛び出しました!」 今までひっそり大人しくしていたレポーターもようやく水を得た魚のように状況説明に奔走している。 学校の前は既に迎えの車やタクシーでごった返している。 「3人乗せたいんだけど迎えに来れる?」 「大丈夫!もう向かってる!」 あちこちで家に連絡する声が錯綜している中、中継画面は市内のタクシー会社の指令室に切り替わった。 社長が無線で檄を飛ばしている。 「全車、西高に向かえ!生徒たちを4時までに学校に送り届けろ!」 指示を受ける前から既に集まっている運転手のおじさんたちが叫ぶ。 「遠くの子は乗って!無料だから!」 画面が変わり、市内の高級レストラン 営業終了の表示を出していた厨房では、オーナー命令によりスタッフ総動員で生徒のお弁当作りを開始していた。 「急げ!4時までに1500個、間に合わせるぞ!」 さらに中継画面が替わると、隣の市の大型観光バスの組み立て工場前になった。 少しお水っぽいレポーターのお姉さんがくねくねしながら説明する。 「有名ホテルチェーンから発注のあった最新鋭の大型バス30台が、今から納車のために発進しようとしていま~す!」 指さした先の工場内では、それぞれのバスに乗り込んだ運転手らが発進準備のためコントロールルームと通信を開始していた。 かなり昔のロボットアニメのオープニングのように目前の操作モニターが次々と点灯する。 ナビ画面に走行ルートが転送され、途中の交代時間も含めたタイムスケジュールが表示される。 「ナンバーセブン、発進してください!」 まだ会社名も描かれていないスカイブルーに白のラインの入った真新しい車体が、特撮映画の大型メカの発進シーンのようにゆっくりと工場から現れる。 「このバスは、北校野球部の同級生の親御さんが社長を務める会社が発注した特注の観光バスで、納車前のテスト走行のため、このあと西高から甲子園までのルートを走行する予定で~す。完成したばかりの真新しい車体が、甲子園への冒険という最初のクエストに挑みま~す!」 いやそれはちょっと違うだろ?という視聴者のツッコミも気にせず、中継班はそのうちの一台に乗り込んだ。 「私たちもこのまま約束のグラウンドに向かいま~す!果たして西高の皆は、全員無事に出発することができるのでしょうか~?」 大型バスの車列が悠然と進んでいく様子の空撮は、市民のテンションとローカル局の視聴率をどんどん押し上げていく。 レポーターからの質問攻めからやっとの思いで逃げ出した僕は、駐輪場に辿り着くと自分の自転車をひっぱり出した。 90度向きを変えて、通路に出ようとした時、あまり聞き慣れない声に呼び止められた。 「ごめん、家まで乗せていってくれると助かるんだけど・・・?」 クラスメイトではあるが彼女とはあまり話すことはなかった。 確か中学が一緒で、家も向かいのマンションだったはず・・・ 「OK、乗って。」 校則では二人乗りは禁止されていたと思うが、ここで同志の女の子を見捨てていくことなんてできない。 人生初の二人乗りというクエストに挑戦する。 非常にバランスが取りづらい・・・物理的にも精神的にも。 いつもなら一人乗りでも息の切れる距離だったが、変なスイッチパワーで不思議と疲れは感じなかった。 途中、今日の出来事の感想を背中越しに聞いていた。 彼女自身も普通に考えたら、突然甲子園なんて行ける訳ないと思っていたらしい。 でも、僕の話を聞いていたら、知らないうちに行く気になっていたそうで、だから、帰り道に自転車の後ろに乗せてもらうくらい当然だよね?という責任論になった辺りで、自転車は彼女のマンション前に到着した。 「20分後に出るから!」 送り届けた以上、行くときも乗せていかざるを得ず、集合時間を告げて自分の家に向かう。 マンションの駐輪場から玄関に辿り着くまでの間にも、あちこちから応援の言葉や道中のおやつをもらった。 部屋に入ると、既に母親が荷物をまとめてくれていた。 「ほら、確認、急ぎなさいよ。」 ポンポンに丸くなったリュックと、テーブルの上に封筒があった。 「これは?」 「それはお父さんから。必要と思ったら遠慮しないで遣いなさいって。」 封筒の中を見ると、絶対持ち歩くことのないボリュームの1万円札が入っていた。 「もし、準備が間に合わなくて、おなかを空かせているような子がいたら、それで食べさせてあげなさいって。」 「分かった。そうする。」 むこうに着いてから空いている時間に使う勉強道具を取りまとめる。 いつ帰れるか分からないので、朝ごはんで食べきれなかったヨーグルトを食べていると、あっという間に19分が過ぎた。 「じゃあ行ってくる!」 玄関から出ると、さらに多くのご近所さんから激励が飛んでくる。 応援に行くだけなのにこれだけ期待されてしまうと、もう複雑骨折でもしない限り、応援しないわけにはいかないな・・・ 周りがめちゃめちゃ盛り上がっている時にこのマイナス思考! ・・・ようやく自分のペースが戻ってきたようだ。 生徒が一斉にいなくなった学校では、残った先生方が移動のサポートと応援の準備を開始していた。 徹夜で学校に残る先生は、買い物袋に溢れんばかりの食べ物と飲み物を買ってきた。 明日、学校に応援に駆けつけたいという人も大勢いたため、急遽、体育館にパブリックビューイングを設置することになり、電気屋さんが大型プロジェクターをセッティングしている。 手の空いている先生が教室からイスを運び入れる。 まさに体育祭と文化祭と入学式が一斉に来たような慌ただしさだった。 二人乗りの自転車が通りを走り抜ける。 僕らに気付いた人たちから声援が飛んでくる。 ローカル局とはいえ、テレビの影響力は絶大だった。 後ろの彼女はというと、声援に応えて愛想全開で手を振っている。 「今日一日で街の人との距離が一気に縮まった感じだよね?」 おバカな感想だったが彼女の言う通りだった。 「何もなかったら一生接点のなかったかも知れない人たちだけど、ほんの少しの時空の歪みで、まるで違う世界に転生したみたいだよね?」 いや、時空の歪みも歪もないからと言おうとした時、グラウンドに並んでいるバスの車列が見えた。 「・・・きれいだね」 僕らを甲子園まで運んでくれるであろうピカピカの青い車体は夏の陽を受けてキラキラと輝いている。 屋根の中央に展望席のある特注の大型バスは、遠目には背びれの大きなイルカか潜水艦のように見えた。 3時20分 まだ集まっている生徒は少なかったが、先頭車両には既に多くの生徒が乗り込んでいた。 家が近くの生徒と、家に帰るのを諦めて直行することにした生徒たちだった。 グラウンドで乗車整理をしている先生の話によると、クラスごとに集合している時間がないので、集まった順からバスに乗り込んで順次発進するとのことだった。 僕らはちょうど一台目の最後の乗客だったようで、入り口のステップを登って満席の車内に目を向けると、突然車内の同級生や後輩たちから拍手と歓声が沸き上がった。 彼女が気を利かせたつもりなのか、突然僕の右手を持ち上げて勝手に声援に応える。 「やめて・・・」 隠れるように最前列の席に滑り込む。 視界の上には大型のテレビが設置されており、いま発進しようとしているこのバスが生中継で映し出されていた。 アナウンサーがバスの走行ルートを説明している。 渋滞が予想される市内中心部は、これから1時間、交通規制が行われ、バスをノンストップで通過させるとのことだった。 普通、そういう手続きって何週間も前に申請するような気がしたが、今日は特別らしい。 もしかしたら、署長さんが野球部OBなのかも知れないとか考えていたら、中継は甲子園近くの旅館に切り替わった。 そこには今日の試合で活躍した我が校のエースと小学生の妹がいた。 インタビューの最後に彼女から、僕たちに向けて「明日の応援、一緒にがんばりましょう。」というコメントを引き出したレポーターのドヤ顔がちょっと鼻に付いて残念だった。 なぜ、地方のローカル局でこれほどあちこちに中継班が出せるのか不思議だったが、聞くと社内の全ての人員をこの甲子園中継に充てているとのことだった。 ・・・きっとここにも野球部OBが潜んでいるに違いない。 1500個のお弁当を作り終えて一息ついているスタッフに「よくやった!」と声を掛けたオーナーは自室に戻ると、とある自分の後輩に電話を掛ける。 「あれ?先輩、どうしたんですか?」 「ちょっと頼みがあるんだが、いいか?」 「まあ先輩の頼みなら・・・で、何なんです?」 その頼みを聞かされた後輩は一瞬耳を疑った。 「それはいくらなんでも無理ですよ。勝手に番組を差し替えたりしたら、提供会社からクレームが・・・」 慌てふためく後輩に、先輩はさらっと一言言うと電話を切った。 「もし文句のある奴がいたら、俺のところに連絡しろと言っとけ!」 地元ローカル局の会議室で緊急会議が開かれる。 「・・・という訳で、このあと夜通しで緊急特番を組むことになった。」 「という訳で、と言われましても・・・スポンサーの皆さんは何と?」 「意外にも全くクレームは出ていない。むしろ、後押ししてくれるところばかりだ。」 「なら決まりですね。やりましょう!」 一視聴者の希望で、全ての番組を差し替えて、甲子園に応援に行く生徒たちを全力で生中継するという、開局以来初の無茶苦茶な試みであった。 「全スタッフ総動員だ!これから忙しくなるぞ!」 「レストランの中継を見ていたらおなかすいてきたよ。」 その時、会議室の入り口がノックされ、一人の女性が入ってきた。 「会議中、失礼いたします。社長の命令でお伺いしました。」 「ああ、放送の件なら、社長の意向に沿えるように・・・」 「いえ、それはもう既にそうなるものと理解しております。今日は突然の無理なお願いに対するお礼ということで、これをお預けに参りました。」 社長秘書はそう言うとバックからタブレット端末を取り出した。 「これは・・・?」 電源を入れると、画面にいろいろな料理が表示される。 よくファミレスなどで注文に使われる「あれ」だった。 「ただいまこの時間から西高応援団が帰還するまでの間、貴社の皆様にはこのタブレットにより24時間、好きな時に好きな料理をご注文いただけます。種類、数量についての制限は一切ございません。」 「それって・・・もしかして24時間食べ放題ってこと?」 一番大食いしそうなスタッフがキラキラと目を輝かせながら聞く。 「確かにその通りですが、あまり大人げない注文は恥ずかしいので控えてくださいますようお願いいたします。」 大型バスの車列が街の中心部に差し掛かる。 沿道は黒山の人だかりになっていた。 甲子園に応援に向かう僕たちを大勢の人が大声援で見送ってくれている。 きっと皆、今まで応援できないストレスが溜まっていたに違いない。 以前、プロ野球の優勝パレードは見たことがあるが、その時の声援とは明らかに質が異なり、本当に自分たちの気持ちを伝えたいという必死さが心に響く。 それを知ってか知らずか隣の席の彼女は、窓越しに両手を大きく手を振って声援に応えている。 自分にもこんな大らかさがあれば・・・と思ったが、自分のキャラはそんな感じではない、そういう自覚がぐっと思いとどまらせる。 今日の自分は今までの人生から180度方向転換、もうブレブレだったが、ぐるっと一周して元の自分に戻ったようだ。 中心街を抜けてしばらくして高速に乗ると、バスは一気にスピードを上げた。 さすがに特注の大型バスは、乗り心地も素晴らしい。 揺れは感じないし、ロードノイズも全く入ってこない。 後続の車両はどうなっているんだろうか。 テレビ中継と学校からの情報だと、僕らが出発してから40分後に最後の一台が発進したということだった。 そして驚いたことに・・・ ただの1名も欠けず、全校生徒がバスに乗り込み甲子園に向かっていた。 暴力事件に巻き込まれた応援団員は最後まで学校に残るつもりだったようだが、そこに甲子園からローカル局の生中継が入った。 ぜひ応援に来てほしいという野球部全員、一人一人からの言葉を聞かされると、ひとたまりもなかった。 彼が泣きながら頷いて最後のバスに乗り込んだ映像で、ローカル局の視聴率がまたドーンと跳ね上がった。 さて ここまではとりあえず順調だ。 あとはやや体力不足の自分が明日の応援をどう乗り切るか、地元有名レストランのお弁当を食べながら考える。 甲子園は明日も30度超えの猛暑日らしい。 スタンドの暑さはさらに過酷だろう。 もしローカル局の生中継で、応援している時に声が裏返ったりしたら・・・それはちょっと恥ずかしい。 もし暑さで倒れたり、搬送されたりしたら・・・もう夏休み中、部屋に引きこもるしかない・・・ 「何を考えているの?」 隣の席の彼女に聞かれたので、明日の天気が心配と答えておいた。 その後、30台のバス全体で連絡を取り合いながら、明日の打ち合わせが行われ、とても緻密とは言えない、ざっくりとしたプランが策定、周知された。 キーワードは「もうやるしかない!」 不安と期待と僕たちを乗せたバスは夜の高速をひた走り、一路甲子園に向かう。 途中、隣の彼女から件の北校野球部にまつわる数々の伝説を教えてもらった。 にわかには信じ難い話だったのでスマホで確認してみたが、決して嘘ではなく大袈裟に盛った話でもなかった。 そもそも今の野球部のメンバーは去年の夏の大会まで野球部に在籍していなかった。 急遽、助っ人として出場した1年生がそのまま勝ち進み、あろうことか夏の大会を制してしまったというほぼほぼ奇跡という話である。 そんなチームがそのまま今年の春も優勝、今大会の出場も決め、夏春夏3連覇を狙っているというからもう訳が分からない。 昨年、夏の甲子園出場を決めたのは当時の3年生主体のチームだった。 しかし選手全員が大会直前にウィルス性の食中毒に罹り、北校の大会出場はもう不可能と思われた。 そんな中、1年生マネージャーの呼び掛けで急遽、他の運動部や同好会、さらには文化部からも人材が集まり、今や高校野球史上最強と言われるチームが誕生したのであった。 一人一人の特徴を説明してもらったが、野球漫画だってそこまでキャラは立っていないだろと思うくらい個性的な面々だった。 もし彼女の説明通りの実力だとしたら・・・多分、プロのチームでも勝てるかどうかというレベルであり、事実、高校生相手では負け知らずの状況だった。 そんな無茶苦茶な強さの彼らだが、昨年の夏の大会は初戦敗退のピンチを乗り越えての優勝だった。 球場までタクシーで移動中、主力の3人が乗った車がとある女子高の火災現場に遭遇、逃げ遅れた生徒を無事救助して球場に着いた時には既に8回表、1対8という敗色濃厚なスコアになっていた。 だが、ベストメンバーになって8回裏に4点、さらに9回裏にも4点取り、サヨナラ勝ちを収めることができたのである。 ちなみにその時の救助が縁で火事になった女子高の生徒が友情応援のチームを編成してくれていることは有名な話だそうだ。 そんな野球漫画を地で行くような物語に急遽参加することが決まった僕たちには、まだ台本は届いていない・・・ どんな展開になるのか、楽しみより不安が大渦を巻いているのは僕だけだろうか・・・・ 車内の照明は常夜灯に切り替わっていた。 出発してから7時間、身体も気持ちも疲れていたが、いろいろなことがありすぎてなかなか熟睡できない。 浅い眠りと覚醒を繰り返し、目が覚める度に、今、この状況が夢?じゃないかと思った。 その度に、今日の出来事を最初から思い返し、夢じゃないことを再認識する。 5回目に目が覚めた時だった。 バスの時計が視線の先にあった。 AM3:33 3の3並びでよかった。 4:44だとちょっと不吉だし・・・ なんか寝ぼけてるなと思いつつ、視線を左に移すと・・・左肩に彼女の顔が・・・ 思わず息が止まった。 照明を落とした薄暗いバスの車内、遠くに街の灯りが見える 彼女の髪の匂い、そして小さな寝息・・・ デジタル時計の表示も止まったまま動かない。 もう夢でいいか・・・ 普段ならドキドキして眠れないはずだが、昨日からの出来事が夢のようだったせいか今も夢の続きを見ているかのようで、そのままゆっくり目補閉じる。 一瞬目まぐるしく動き出した思考回路もまたスリープモードになり、明日の応援に備えるべく深い眠りについた。 AM5:55 ふと目が覚めると、外はすっかり明るくなっていた。 そして、バスは停車していた。 目的地に着くような時間でもないし、パーキングエリアでもない。 隣の彼女を起こして回りの景色を見る。 まだバスは高速道路上で、前方には果てしなく渋滞の車列が続いていた。 バス内でもあちこちと連絡を取っており、学校に残った先生からの情報によると、この先のインター降口の手前で追突事故があり、上り車線は全線通行止めになっているとのことだった。 「これって、まずいかも・・・」 「なんとかならないの!?」 当初の計画では試合開始1時間前には球場に着いて最終打ち合わせと応援練習を行う予定だったが、このまま、あと30分以内に復旧しなければ、試合開始時間に間に合わない。 関係者全員に、焦りと不安が湧きあがっていた。 AM6:30 目が覚めてから今まで、車体は1ミリも動いていなかった。 「もうだめか・・・」 「今までついてなかった分、やっとここまで挽回したのに・・・」 「最後の最後で事故で足止めなんて・・・やっぱり、ついてない・・・」 こればかりは僕らではどうしようもなかった。 地元でローカル局の生中継を見ている人たちも、一様に諦めムードで静かにうつむいていた。 その時、上の展望室から前方を見ていた第二運転手さんの声が運転席のスピーカーから車内に響いた。 「遥か前方の車・・・少しずつ動いてるんじゃないか?」 「えっ?」 皆、諦めかけていたその時、確かに前方の渋滞の列が少しずつ動き出しているように見えた。 「何かおかしくない?」 「・・・車が真横に、動いている?」 車の前に少しずつ空きスペースができているようだが、そのまま前進するのではなく、片側に寄るように斜めに前進していた。 遠くに見えた道路中央のすき間が、徐々に大型バスの車列に近づいてくる。 中継班がドローンを飛ばし、その模様を空撮する。 「これって通路を作ってくれているの?」 地元でローカル局を見ていた人たちも、これまでの状況に半ば諦めかけていたが、一転、歓喜と感動の渦が巻き起った。 「もしかして、この呼び掛けが届いたんじゃない?」 スマホを見ると「チーム十戒」というハッシュタグで、高速道路上で動けなくなったバスの救援を呼び掛けるメッセージが拡散されていた。 いったい誰が呼び掛けてくれたのか、海が割れていくように渋滞の車列に1本の細い道ができ、徐々にバスに向かって延びてきている。 信じられなかった。 皆、渋滞で動けなくて大変なはずなのに、自分たちの車を両サイドに寄せて、ぎりぎり大型バスが通れるすき間を作ってくれている! 中継レポーターがその奇跡のような光景を地元の視聴者に伝える。 小康状態だった視聴率が、また一気に跳ね上がった。 奇跡の道がバスに届いた。 ゆっくりと動き出すバスの両サイドの車の窓から声援が届く。 大興奮のパブリックビューイングの脇では、この様子を確認していた担任の先生がスマホを握りながら小さくガッツポーズをした。 AM8:00 両校の選手がダッグアウト前に並んでいる。審判がグラウンドに現れると同時にホームベース前に勢いよく整列して挨拶を交わすと、西高ナインは守備位置に散った。 選手名がアナウンスされる。 甲子園球場に試合開始を告げるサイレン鳴り響いた。 試合が開始される・・・誰もがそう思ったが、まだ、選手たちにその動きはなかった。 そうしてる間にサイレンがゆっくり鳴り止んだ。 しかし、なぜか試合は始まらない。 主審が試合開始をコールする前に、サイレンがフライングしてしまった? いや、それにしても試合を始めない理由にはならない。 「ん~、どうしたんでしょうね・・・?」 「何かトラブルでもあった・・・ようには見えませんが?」 解説者もアナウンサーも、首をかしげてグラウンドを見つめていた。 観客も何が起きているのか分からず、球場全体がざわついていた。 しかし、NHKとローカル局を、二台のテレビで同時に見ている西高の地元、そして全力で甲子園に向かっている大型バスの車内では、この状況に「もしかしたら・・・」という推測があった。 そしてその推測がじわじわと確信に変わっていくとともに、ゆっくりと皆のテンションも上がっていく。 ざわつきがピークになった甲子園球場のバックスクリーンに、突然、外の景色が映し出された。 そこには・・・ まだ朝早い時間にもかかわらず、アスファルトの熱気で陽炎のように揺らめく空気の中を、真新しいスカイブルーの大型バスの車列がゆっくりと近づいてきている。 中継を見ている担任の先生が呟く。 「行ってください・・・!」 地元でローカル局のテレビ中継を見ている人たちも両手を握りしめて呟く。 「行ける・・・」 球場の観客も、ようやく状況を把握しつつあった。 「・・・西高の応援団!」 「・・・来たんだ!」 バスの映像がアップになった次の瞬間、甲子園球場は雷が落ちたのではないかと思うくらいの大歓声が上がった。 体育館のパブリックビューイングに集まった人たちや、家のテレビでずっと見守っていた人たちからも、絶叫のような大声援が沸き起こった。 「よーし!行っけー!」 すかさず、バスに同乗しているレポーターから中継が入る。 「どういう理由かわかりませんが、まだ試合は始まっていません!おそらく高校野球の神様が私たちの願いを、高校野球ファンの願いを聞き届けてくれたに違いありません!ありがとうございます!」 もう無茶苦茶だが、言わんとしていることは分からなくもない。 確かに野球では審判は神様と言われているらしいが、ここまではっきり祀り上げられた主審は初めてだろう。 ついさっきまで、いよいよ甲子園かという緊張で両膝が小刻みに震えていたが、レポーターのお姉さんの舞い上がったレポートを目の当たりにして、嘘のように緊張が解けた。 甲子園球場がすぐ前に見えてきた。 いい感じでテンションも上がっている。 無意識に隣の彼女と手を取り合い、お互い、目で合図する。 さあ、いよいよだ! しまっていこう! 「随分待たせてしまったね。本当に申し訳ない。」 大歓声の中、ホームベースの後ろから主審が右バッターボックスの先頭打者に声を掛けた。 しかし先頭打者は何も気に掛けている様子もなく、逆にハイテンションで楽しそうでさえあった。 「こんなに盛り上がってる試合って、今まで見たことないっす!自分がその試合の1番バッターなんて、皆に自慢できるっす!」 球場全体に大歓声が響く中、多くの人の夢を乗せてやって来た応援団が、ついにアルプススタンドにその全貌を現した。 人の動きが落ち着くのを見定めて、キャッチャーとバッターに合図する。 二人が構えに入ったのを見てグラウンドの野手も臨戦態勢に入る。 大歓声がさざ波のように引いて行き、観客の視線があらためて主審に向けられる。 主審が正面を向き、そして、ゆっくりと右手を上げてコールする。 「プレーボール!!!」 --- 夏休み最後の金曜日 いつもの通り、自転車をゆっくり走らせて学校に向かう。 朝方の涼しい風が心地いい。 公園の脇では、ほんの数週間前まで大合唱していた蝉も大人しくなり、もうオニヤンマがスイスイと涼しげに飛んでいく。 今日もまた模試だが、まだ、希望の結果を出せる自信はない。 でも、少しずつ、実力は付いていると信じたい。 この街の歴史に残るであろう大騒動も終わり、ようやく落ち着きを取り戻した街は、祭りの後のようにどこか寂しげで、それでもいつもの喧騒の中、人も車もせわしなく動き回っている。 「やあ、おはよう。」「おはようございます。」 途中、コンビニの前でオーナーと挨拶を交わし、次の交差点では花屋のお姉さんからラベンダーの生花を3本もらった。 胸ポケットに差したラベンダーが香る中、校舎手前を左折して駐輪場に向かう。 「オ~ッス!おは~っす!」 駐輪場前のグラウンド脇の道に差し掛かると、野球部の1,2年生たちが、やたら大きな声で挨拶してくる。 右手を軽く上げて応えるが、恥ずかしいやら照れるやらで、ついペダルを踏む力が強くなる。 その後、甲子園での野球部はというと・・・見事に準決勝まで勝ち進み、惜しくもベスト4という結果に終わった。 試合後のインタビューでキャプテンは「決勝で北校と当たりたかったです。」と言っていたが、とにもかくにも快挙、文句なしの大快挙だった。 「おそらく、何のトラブルもなく大会に臨んでいたら、2回戦で敗退していたでしょう。」 そう話していたのは、特設パブリックビューイングで試合解説をしていた野球部OBの酒屋のおやじさんだった。 「厳しい試練を乗り越えていろいろ経験したことが、彼らの野球に対する意識や情熱を急成長させたんですよ。僕はそう思います。うん。」 そんなベタベタなコメントがNHKのスポーツニュースで流れていたのには、ちょっとだけびっくりした。 ちなみに僕たち素人応援団は、2試合目から準決勝まで、毎試合、ペース配分も何もない全力応援だったので、準決勝では僕を含め、皆ほとんど声が出なくなっていたが、気力と変なスイッチパワーで、最後まで選手たちを鼓舞することができた・・・と思う。 地元に帰るときには、なんと、乗ってきたバスで野球部の皆と一緒に帰ることができた。 発注元の要望で、バスの横に何か会社のロゴマークみたいなのを入れるから一旦工場に戻すという理由らしかったけど、誰が見ても僕たちへの厚意そのものだった。 いつになるかは分からないけど、いつかこのご恩はしっかりお返ししたい。 僕たちを乗せたバスが高校前の大通りに入ると、出発した時の倍はあろうかと思うくらい沿道に人が溢れ返っていた。 これは優勝パレードか、いや優勝したとしてもこれほど熱狂的にはならないだろうという盛り上がりだった。 本当に高校野球が、甲子園が、人々に与える熱量や影響力はこんなすごいのかと思い知らされた。 皆が皆、同じ方向に、持てる力を向けて行動できる不思議なパワーは、ある種お祭りであり、もはや信仰と言っても大げさではなかった。 嘘か本当か、初戦から僕たちが帰ってくるまでの2週間、市内では犯罪はおろか1件の交通違反、果てはケンカ騒ぎまでなかったというから驚きである。 地元に帰ってからの野球部の人気もすさまじかった。 今回の遠征でお世話になったところに挨拶に行く先々で記念写真をせがまれ、その数は100枚を軽く超えていた。 レストランやタクシー会社、建設会社など、市内の主だった会社の社長室には、社長を中心にした野球部の写真が飾ってあり、普段は忙しい社長連中も、ついつい写真を眺めてはほっこりしている。 そして、写真と言えば、僕の部屋にも一枚飾ってある。 応援の際の写真や野球部の皆との写真、宿泊先での写真とかは何十枚となくあるが、それらはアルバムの中にしまってあり、A4サイズに引き延ばしたその写真は・・・北校野球部とそのスーパー応援団との写真だった。 なんと、準決勝で負けたあとのスタンドに、次の試合に出場する北校野球部のメンバーと応援団が突然現れ、僕らの健闘を讃えてくれたのだった。 よくもまあ試合直前に、緊張もせず・・・本当にサプライズが好きなんだなと、つい笑ってしまった。 彼らの活躍は間違いなくメインストーリーで、僕らの熱血ドタバタ劇はスピンオフ作品だったけど、本当に出演出来てよかったと思える、そんな写真だった。 そしてその時の甲子園の主役たちをちゃっかり生中継してしまう地元テレビ局のフレキシブルっぷりも見事だった。 素早いフットワークで地元の視聴者の期待する映像を提供し続けた中継班は、最後の最後で瞬間最高視聴率85%を叩き出した。 「今回の中継で、局の知名度も一気にアップして、番組のスポンサーも倍増したのよ?」 このあいだ、非番の日にアイスを持って学校に顔を出したお水っぽいレポーターのお姉さんがそんなことを言っていた。 そして「県内はどこでも顔パスになったし~」とも話していた。 嘘か本当かローカル放送局恐るべしである。 駐輪場に自転車を停めると、先に来ていた彼女が木陰で小さく手を振る。 「ごめん、コンビニのおじさんたちと話してたら遅くなって・・・」 彼女が笑いながら言う。 「もうすっかり有名人ね。」 「やめて・・・」 ラベンダーを彼女に渡してゆっくり教室に向かう。 人前では絶対に無理だけど、あの日以来、手を繋ぐことに違和感がなくなっている。 今年の夏休みは特別だった。 そして、あっという間に終わった気がする。 これでもかと言うくらいいろいろあった日々の記憶も、これから少しずつ写真が色褪せるように薄らいでいくと思う。 でも、彼女といれば、いつだってこの夏の日々は鮮やかに蘇る、そんな気がしている。 通い慣れたはずの道も最近は目新しいことばかりだ。 決して浮かれている訳でも、うんざりしている訳でもないが、いずれにせよ急激な環境の変化は身体によくない。 とりあえず、こつこつとやるべきことをこなしつつ、少しずつ新しい夢を探しに行こう。 いつか、この夏休みが、夢のようだったと思える日が来る前に。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加