巣立ち

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フローリングに寝転ぶと、背中がひんやりとして心地いい。真夏に自力で引っ越しなんて無謀な計画に付き合ってくれた幼馴染の令太は、レモンの香りがする水をペットボトルからがぶ飲みしている。滴り落ちる汗と口の端からこぼれ落ちた水が、カーテンの無い窓から入る日差しを受けてキラキラしている。 引っ越し前は祖母が所有している築30年のマンションに住んでいた。夜中に『パンパン』っとラップ音が鳴ったり、閉めたはずの窓がいつのまにか開いていたりして気味が悪かったが、就職したばかりで引っ越すお金もなく、家賃を払わなくてもいいと言われていたので我慢していた。しかし、ついに初賞与が出たので引っ越すことにした。角部屋で気に入っていたから名残惜しが、気味の悪さの方が勝った。 「さぁ玲奈、掃除して家具を運び入れてから休憩」 成績はいつも上位、小学生サッカークラブから大学のラグビー部までどのスポーツ部でもキャプテンをつとめていた令太には有無を言わせない爽やかなリーダーシップがある。成績は中の下、スポーツとは無縁の帰宅部で、アニメ好きという真逆の私と交流が続いているのは、私たちの両親四人が高校の同級生という環境がなせる技だろう。令太と私の両親は、それぞれ高校から付き合い始め、結婚も、妊娠も同じ時期。その上家も隣同士という親戚以上の仲だ。そのせいで、同じ年で一人子の私たちは兄弟のような、双子のような関係が今でも続いている。 「もうちょっと。あと5分したら」 朝から『何でまだ荷作りしてないの⁉』と令太に叱られながらノロノロと荷作りし、借りてきてくれた軽トラックに荷物を運び込み、やっと新居までたどり着いた。体力が無く、少し動くと休憩したくなる私に『はい、これが終わったらかき氷食べよ』と令太がエサをチラつかせて誘導する。私の操り方をよく分かっている。かき氷は私の夏の好物だ。スイカも大好きだったが、子供の頃食べ過ぎてお腹を壊してからは、夏はもっぱらかき氷だ。 「水木のかき氷行こう」 私は飛び起きた。実家近くに昔からある駄菓子屋の水木屋は、夏になるとかき氷を販売する。ミゾレ、イチゴ、ブルーハワイ、レモンなど定番のかき氷はひんやりとして、優しく甘い。私は急にやる気が出てきた。 引っ越しは、夕方ごろには一応片付いた。冷蔵庫や洗濯機は単身者用のコンパクトな物とはいえ重かったが、幸い新居は一階だったのでどうにか運び込めた。ほとんど令太が一人で運んだようなものなのだが。あとは、梱包した段ボールの荷ほどきだけとなり、私は我慢できず 「明日一人でできるから、かき氷行こう」 と令太の背中を押した。引き締まった背中の筋肉に、汗で濡れたTシャツがくっついている。 「うわーびちゃびちゃぁ。触っちゃったわ」 と令太の汗で濡れた手を振ると、キラキラと水しぶきが飛んだ。 「俺が頑張った証拠だろ。ありがたく思ってよ」 私たちは、笑いながら水木屋へ歩いた。私の引っ越し先は、実家からわりと近い。親離れできていないと令太は笑うが、これでも頑張った方なのだ。前のマンションはもっと実家に近い。 こうやって並んで歩くと、令太の肩がちょうど私の目線辺りにくる。小学生の頃は、私の方が背が高かったのにいつのまにか抜かれていた。 「懐かしい。この公園でセミ取りしたね」 「あぁ、玲奈虫籠にいっぱい入れてたよな。セミも蛙もバッタもなんでも全部」 懐かしそうに令太が笑う。 「そうなの。いっぱい入れすぎて、帰る頃には全部ぐったりしてた」 「そうそう、それで玲奈、大泣きしてたっけ」 令太の思いだし笑いが止まらない。私の欲張りは昔から変わらない。令太が取ってくれたのは全部もって帰りたかった。セミでも、蛙でも。 水木屋は、以前と変わらずそこにあった。店のおじさんは以前より少し年を取っていたが、相変わらず口数少なく私たちを歓迎した。 「いらっしゃい……久しぶりだね」 特別自分から話かけたりはしない人だが、子供たちの顔は全員覚えていた。 「お久しぶりです。玲奈の引っ越し手伝ってて、かき氷食べたくなったから」 と令太が笑顔で言うと 「そうそれはありがたいね。ブルーハワイとイチゴすぐ作るね」 と言って大きな冷蔵庫の中から氷を出した。中学生以来だから10年以上たつのに二人の『いつもの』注文を覚えていてくれていた。私たちは顔を見合わせ目を丸くした。 店の前にあるちょっと傾いた木のベンチに腰を掛けて待つ。シャカシャカシャカ。氷を削る音が心地いい。 「もうすぐだね。令太の引っ越し」 「まだ、3ヶ月あるよ」 と令太が店の向い側にある公園を見ながら言った。3ヶ月後令太は転勤でドイツへ行く。社内でも期待されている令太は、技術者として最先端の技術を学ぶ為に渡独する数名の一人に選ばれた、と母から聞いた。 「私も一人立ちしないとなぁ、親からも、令太からも」 背伸びをして空を見上げた。ソフトクリームみたいな縦に大きな夏の雲が、私たちを見下ろしている。 引っ越しは一人立ちの儀式のつもりだった。前のマンションが気味悪かったのもあるが、怠け者で人に頼りがちな自分を少しでも奮起させたいと思ったのが本当の理由だ。アニメの制作に携わりたいと入った工房でも、自分の才能の無さをまざまざと思い知らされていた。幼馴染みでいつも一緒だった令太が、外国へ行ってしまう。私は焦りを感じていた。いつも私の一歩先を歩く彼の背中が眩しかった。追い付きたいのに、追い付けない。自分の不甲斐なさに何度も打ちのめされた。彼は私の兄であり、友達であり、 目標であり、ライバルだった。そしていつも側にいてくれる人だった。 「玲奈は大丈夫だよ。自分の好きなことちゃんと分かってるだろ。俺なんか誰かの期待に応えることで前に進んでるだけだから」 始めて聞いた令太の弱音が、私の心にひんやり響いた。いつも、冷静で、真っ直ぐで、迷いが無いと思っていた彼もまた、何かにぶつかりながら前に進んでいるかと思うと、胸が締め付けられる思いがした。 「お待たせ、引っ越し祝いにぴったりなの乗せといたよ」 と渡されかき氷には、輪切りのスダチが一つずつ乗せられていた。私たちは顔を見合わせた。何でスダチ? 「引っ越しってことは、巣立ちだろ」 一瞬二人で顔を見合わせて吹き出した。 「もしかして、ダジヤレ⁉」 と私たちに突っ込まれて、おじさんは白髪頭を撫でながら裏に下がっていった。 「あっ、ありがとうごさます」 律儀な令太が大声でお礼を言ったのを聞いて、おじさんは背中で手を振った。 ブルーハワイの蜜が付いたスダチをかじると、酸っぱい甘さが私の頬をひんやりさせた。
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