忌まわしき門出

1/61
76人が本棚に入れています
本棚に追加
/61
 ガス漏れ騒ぎがあったじゃん? あれってなんか灯油を誰かが流したかもしんないんだってさあ。隣で一緒に黒板の文字を消している雅也の話題は、尽きることがなかった。適当な相づちを打っておくだけで、勝手に話が展開されていく。下手に話題を考える必要がなくて楽な相手だった。  今消している黒板の文字は、担任の宮坂先生が書いた今日一日の流れだった。一度教室でいつも通りの朝のショートホームルームを行い、続いて掃除をする。終わったら一時間程度の自由時間を挟み、廊下で番号順に並んで体育館に向かう。授業はない。今日は、卒業式だ。  それにしてもさあ。隣ではやや感慨深げな口調に切り替わった。今までは愚痴のオンパレードだったため、不満がにじみ出ていたのだ。うん。反応する。黒板が少しもきれいにならない。何度同じところを消しても薄汚れた線が残ってしまう。黒板消しを裏返す。 「今日卒業とか、考えらんねーよな」 「そうだね、思えば三年間早かったよ」  黒板消しは真っ白になっていた。感傷的になり始めた同級生の後ろを通って、教室の隅で机の上に乗せられている黒板消しクリーナーにチョークまみれのスポンジを押しあてる。台代わりの机もうっすらと全体が白粉に覆われていた。あとで水ぞうきんでふき取っておこう。  電源をいれた。ひと際うるさい音が機械から鳴り響く。一瞬眉をひそめかけて抑える。クリーナー上の黒板消しを前後に動かす。 「聡太郎はどうだった?」騒音に負けない大声。手を休めている。「高校生活、楽しかったん?」 「楽しかったよ。使う?」うなずきが返ってきたので、場所を替わる。よく見れば、雅也が務めていた右側も掃除されているとは言いがたかった。黒板の一番左端に移動し、黒板消しを横にする。力を込めて上から下に流す。 「俺は小中よりもすげー楽しかった気がすんよ」電源を切って満面の笑みを浮かべる。使う前よりも静まった気がする。背後で床掃除をしている人々の話し声は少しも静まってはいなかったが。笑い返した。別に小中高とどれを取っても、思い出の密度としては同じくらいだ。かくだんに高校生活が楽しかったことはない。  三年二組の教室の前半分の掃除が終わったらしい。机が一台ずつこちらに向かって運ばれてくる。生徒たちは一様に、胸元にピンク色の造花をつけていた。ご卒業おめでとうございます、とプリントされた縦に長い布が花から垂れ下がっている。ショートホームルームで宮坂先生から配られた。  しかし花以上にクラス中の注目は、担任の着物姿に向かった。普段は元不良とうわさされている通り、口調も素行もやや荒っぽい。それが女性らしい見事な晴れ着で教室に現れたのだ。褒めたり茶化したりで、制服のジャケットに花をつけるどころではなかった。 「聡太郎はこれから一人暮らしっしょ? 別荘で」 「うん、まあ、別荘っていってもたいしたものじゃないけれど」苦笑する。たいしたものでないことは本当だ。卒業記念品として祖父から譲り受けることになった別荘は、市内にある。合格した大学まで、片道約二時間。立地が悪い名ばかりの建物は、両親の妥協のあかしだ。どうしても一人暮らしがしたいという息子を、放置ぎみの空き部屋に押し込んで意味を持たせただけ。へきえきする。 「でも俺からしたら、すげえよ。別荘に住んでますって、やべえじゃん。寮ですって言うより全然かっけえよ」  吹き出して笑っておく。文字数多いしね。的外れな返しをしておくと、そっちじゃねえって、響きだよ。つっ込まれて笑われた。彼は、東京の私立大学の学生寮ぐらしの予定だ。家庭の金銭面を考慮して都会行きを断念した身にとっては、できることなら寮ぐらしだと言ってみたかった。  でも俺はもうちょっと、高校生やってたかった感あんな。雅也がぼやく。機械から離れて、黒板の右端に黒板消しをあてがった。まだちゃんと形を残している文字を、雑に消す。ああ、確かにそうだね。適当に肯定しておこうと口を開こうとした刹那だった。空間を震わせるような音に、黒板の近くにある前扉を見る。 「ああっ、雅也と聡太郎っ」新之助が、片手でドアを押さえつけて立っていた。息を切らせて声をかけてくる。「やばい、やばいぞっ」  雅也が黒板消しを置く。ちょっ、やばいじゃわかんないって。楽しそうに言う。背がこちらを向いたので、表情は見えない。何かあったの? 同じように黒板消しを手放し、問いかける。かすかに口元に笑みを浮かべようとしたがやめた。あまりにも新之助の顔色がよくなかった。蒼白だ。何か、あったの? 今度は慎重に問う。  血の気のない顔を引きつらせたクラスメイトは、親指で背後を指す。しっかりとしたがたいと、堀の深い顔には似つかわしくないあまりにも小さな声で言った。少し間があってから訊き返す。聞こえなかったのではない。新之助は一度深呼吸してから、半ば叫ぶように同じ言葉を口にした。 「遠野が、死んでたんだよっ」
/61

最初のコメントを投稿しよう!