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【ニ】現状(げんじょう)
「おおぉっと、すいません」
まるでティアが、名刺を見たタイミングを見計らって、プルートス警視総監が上体をよろけさせた。自分の前に置かれた紙コップが太い腕に薙ぎ払われて、白いテーブルに勢いよく、渋茶色の飛沫と液体が放射状に広がる。
飛沫がティアたちにかかろうとした瞬間だった。
「いま、テーブルをふきますからね―――――……っ」
声とは別の大気を震わせる低い音が聞こえた。
ティアたちにかかろうとしていた飛沫が、他にも空中を舞う飛沫がぴたりと止まって、軌道を変え、テーブルに出来た渋茶色の小さな池に集合する。
水音を立てずに静かに集まっていく水滴たち。集合して動き、やがてリボンのように滑らに流れる水は渋茶色のメッセージとなった。
『盗聴の可能性あり。話を合わせていただけると助かります』
水属性の魔導だった。
この世界――デーロスにおいて大気中のマナと己の属性魔力をかけ合わせて、火や水などを出力する技法を【魔法】とし、対して対象に自身の魔力振動数と属性をシンクロさせて操る技法を【魔導】と定義されている。
魔導は魔法よりも扱いが難しく、飛沫に至るまで緻密にコントロールできる芸当は、さすが警視総監といったところだろう。
「あの、二階建てのバスを見かけたのですが、どういった内容のツアーなんですか?」
『監視の可能性がないと確信したから、このような方法をとっているのですよね?』
ティアも意識を集中して水の流れに含まれる魔力を読み取り、プルートスの魔法に干渉する形で新たな水文字を作る。
「あぁ、あのバスを見かけたのですね」
ティアの見せた芸当に、プルートスはわずかに青灰の目を見開いた。だが次の瞬間に余裕をもった笑顔で頷いて見せる。
「あのバスは海岸沿いを走らせて、イルカとクジラの群れを観るんですよ。あと、王家の丘に行く途中で果樹園に寄りますし、秋になりますとコリオス諸島を訪れる海鳥たちへのバードウォッチングが大人気でございます。ホレ、ファウスト。なに見習いの分際でボーとしとんだ」
『監視はこちらのファウストが、町中に【目】を張り巡らせておりますのでご安心を。不審者が近くにいれば、こいつが一番に気付きます』
プルートスは隣に座る部下を肘で小突きつつ、流麗な茶水の文字をテーブルにつづる。器用に演技と伝達を使い分けて、ティアとカーラに対して安心して欲しいとやんわりとした圧をかける手法に、ティアはプルートスの意図を理解した。そしてプルートスもティアの意図を理解した。
わざと紙コップを零して、飛沫に至るまでコントロールできるデモンストレーションには二つの意味がある。一つは自分の手の内を見せて安心させること、もう一つは下手に抵抗したらただでは済まされないという脅し。プルートスがその気になったら、全身の水分を暴走させて脱水症状を引き起こし、身柄を拘束することが可能なのだ。
だが、ティアの方も負けてはいない。相手の魔力に干渉して意のままに操る能力――ユニークスキル【月の女神の手】により、プルートスが自分に害をなす場合はカウンターパンチを叩き入れることが出来る。プルートスの手の内を明かしたからこそ、ティアも信頼と牽制を兼ねて自分の手の内を開示して見せたのだ。特にこのオルテュギアーで、ユニークスキルを開示することは大きな意味を持つのだから。
「え……と、この時期はウニですかね。魚ならコイオススズキのアクアパッツアが美味しいです。けど一番のおすすめは普通の牡蠣なんですが、牡蠣は……その、時期が過ぎてしまって味がちょっと落ちてますね。あ、その生牡蠣に酢と塩レモンをかけて一緒に食べると美味しいし、疲れが取れますよ。そこのお連れさんは、お酒が好きですか? うちの国では牡蠣にシングルモルトのウィスキーをかけて食べるのが通なんです。とてもおすすめですよ」
小突かれたファウストは青白い顔ながら、必死に観光業者の見習いとして、それらしいことを話して見せた。あとどうやら、牡蠣が好きらしい。話していて少し翠色の目が輝いている。
「そうなんですか、王位継承の儀式を観てみたい野次馬根性と、シーズンオフの半額旅行を選んで少し後悔してしまいました」
『町で不穏な雰囲気を感じました。なにかあったのですか?』
声を落として残念そうに話すティアは、水文字を操作させて、到着時に感じた町の違和感を問いかけてみる。
「おらぁっ! ファウスト。なに季節外れの牡蠣をすすめとんじゃあああぁ。今はウニの季節だって言ってんだろうが。このボケッ! こんなんだから、お前はまだ半人前なんだぁっ! ったく、この業界で何年働いているんだっ。おらぁ!」
『駅の中にある売店には、寄らなかったのですか?』
突如、怒声をあげてプルートス警視総監は、隣に座っているファウスト警視総監補佐の顔をペチペチ叩く。叱責のビンタというよりも雪山の遭難者を起こすような往復ビンタだ。
ビンタをうけているファウストの顔色がさらに悪く、唇も若干黒ずんで見える。町中に監視の目を光らせているということから、脳にかなりの負荷がかかっているのかもしれない。
「今月は水火の六と一月! 旬はアラババ・たらこウニとコリオススズキにクエル港の菜花ロブスターだろうがっ、このバカ野郎がああぁ!!!」
「は、は……、けいし、ちが、おやっさん、すいません、すいま……」
半分本気、半分演技であるが部下を往復ビンタをするプルートスの悲壮な表情からは「うおおおぉぉっ! 死ぬなぁあっ!!!」という心の声が聞こえてきそうだ。
『事前に出迎えが来ていると思っていましたから、ロータリーに直行しました。売店の朝刊に、なにか事件が載っていたのですか?』
売店で分かる情報と言えば、今朝の朝刊だろうとティアは考えた。
『その通りでございます。クラウディア殿下』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
本名の方を呼ばれて、ティアは直感的にプルートスが紡ぐ先の言葉に恐怖を覚えた。自分を睨み据えるプルートスの青灰色の瞳が剃刀のごとく冴えわたり、無意識のうちに細い腰が浮く。
そんなティアの恐怖心を感じ取り、今まで静かになりゆきを見守っていたカーラは、彼女の恐怖を和らげようと、二人の男に見つからないように机の下で、ティアの手を優しく握った。緊張の汗で濡れている小さな手を包み込んで、どうか彼女の負担が少しでも軽くなるように天にいまします神に祈る。
『殿下にとって、いえ、我が国にとってとてもショッキング且つ忌まわしい出来事です。どうか心してお聞きください』
カーラとティアはプルートスの前置きが長いことに気付いた。二人を気遣う以前に、彼が伝えようとしている出来事が、この男にとっても衝撃的だったのだろうと察して、気持ちが鉛のように鈍く重く、逆に心臓は暴れ馬のように悲鳴をあげて暴走する。
『先週、身元不明の死体が埠頭で発見されまして。かなり、その、いたましい状態でしたので、身元を確認するために、魔導での死体の復元に時間がかかりました。そして、三日前の夜に身元が判明したのですが……』
聞きたくない。だが、聞かなくてはならないのだろう。
学生の身とはいえティアは王族であるのだから。
『死体の正体は――貴女のお姉上様である【レオナール】殿下でございました』
『――っ』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
違和感があった。
魔導王国オルテュギアー 王立警察 警視総監 プルートス・オケアノスが、なぜあんなにも粗暴なふるまいをするのか。
魔導王国オルテュギアー 王立警察 警視総監補佐 ファウスト・メレアグロスが、なぜ上司の暴言と暴力を甘んじて受けているのか。
「やめて、ください。大声出さないで、くだ、さい」
この二人の気遣いを知ったからこそ、素直にぐちゃぐちゃになった感情が溢れ出して、紫の瞳に涙をあふれさせた。長いまつ毛に涙を湿らせて、小さな唇をわなわなと震わせるティアは、ありったけの正の感情をかき集めて理性を精一杯稼働させる。
「この国では許される振る舞いかもしれませんが、カルティゴではパワハラ、モラハラとして処罰の対象となります」
『姉の死は自殺・事故・殺人のどちらですか?』
レオナ姉さん、姉さん、姉さんっ。
世界が遠のく感覚と共に、視界全体に広がる金色の海。長い金髪を獅子のようにたなびかせて、威風堂々と魔力の剣を繰り出す第二王女――世界格闘大会【混血晶総合格闘技世界大会】に咲く常勝の黄色いバラ。
彼女との姉妹仲は良好であり、ティアがカルティゴへ留学していた時も、年に数回は交流があった。もしかしたら、自国にいた時よりも濃密に交流を重ねていたのかもしれない。
魔導王国オルテュギアー 現女王である【カーリア・ヴィレ・オルテュギアー】は、父親の違う子供を三人産んだ。
長女は賢者の国を統治するエルフの王を父に。
次女は東国の半巨人族を父に。
三女は、25年前のテロを収束させた救国の英雄であり、オルテュギアーに在中する宮廷魔導士を父に。
参加資格が自由である王位継承の儀式がある時点で、世襲制の意味はないものの、勇者の血を引く王族の存在は世界平和のシンボルでもある【尊き青バラの血】。
魔王の封印がいつ解けるか分からない現状の上で、勇者の血を引く王家――魔導王国オルテュギアーは世界の守り手として重責を担う立場であるのだ。
勇者の血統を維持するために、最低でも王族の子は一人を残して儀式に参加し、国のため、世界のための礎になる。
今回の儀式で公になってないが、レオナールは今回の儀式に参加しない予定だった。アステリアの思想に支配されて、意志も感情もなく、ただたんたんと正しいことのみを実行し国を統治する姿は、人間ではなく、人形もない、ただの取り換えが効く消耗品だ。
自分がそんな存在に成り下がることは、レオナールの矜持に反した。
「ティアも逃げちゃえば? うちの姉様は確定的にやる気みたいだし、こんな茶番はやりたい奴がやればいいのよ。けどムリ、本当にムリ。あたしはごめんだわ。強制されるのなら舌噛んで死んでやる」
苛烈な光を宿す黄色の瞳。父親譲りのチョコレート色の肌。溢れんばかりの長い金髪と二メートル近い体躯は戦乙女そのものの出で立ちで、明朗快活かつ豪放磊落の性格は国民に愛されていた。
年齢は今年で20。このまま成人を迎えるのならば、優れたフィジカルと気性を活かして、王立警察に就職することが内定していた次姫。もし、彼女が儀式へ参加しないと公に表明していたら、王立警察はもろ手を挙げて彼女を歓迎していたことだろう。
けど、レオナ姉さんは、わたしにしか打ち明けていない。いいえ、わたしにしか打ち明けられなかった。
次女の性格、国民に愛されている性格は自分の身を守る盾であり、三姉妹の中で一番女性らしく繊細な感性を持っていることを、ティアはよく知っている。
「あぁ、申し訳ございません。異国から来たレディに涙を流させてしまうとはコリオス観光の名折れ。どうか挽回を機会をっ!」
『これは面妖な。事故か殺人かの二択を訊かれるかと思われましたが、まさか自殺の可能性があるとは』
つづられているのは文字だというのに、ティアに問いかける文字からはプルートスの低い声が聞こえた気がした。
いつの間にか日が傾き始めて、西日が差し込む室内で埃がきらきらと舞う一方で、テーブルに渋茶で綴られている水文字が、まるで血文字のように西日の中で禍々しく輝いている。
ティアは手の甲で涙を乱暴にぬぐい、必死に声を絞り出した。
「わたしの望みは普通の旅行です。今日はもう疲れましたので、どこにもいかずに宿に行きたいと思っています」
もどかしいと思ってしまった。
おおっぴらに自分が第三王女のクラウディアとして、仲の良かった姉のために悲しむことが出来なないことに。さらに同時進行として、カルティゴから来た旅行者の演技をすることに。
『姉は以前、儀式に参加しないとわたしに打ち明けていました。儀式を強制されたら、自ら命を絶つとも』
「たしかに日が暮れてしまいましたね。【ペルセ】にある宿屋までお二人を送りましょう。ささやかな償いですが、宿の支配人に口を利きしまして、旬の海産物と果実を使った一番いい料理コースをご用意いたします。ご予約を入れてくださった宿のバスはコリオス諸島の塩を使った最上級のソルトバスと、この時期に咲くヘスティアオレンジの白い花を散らしたものでして、女性に大人気なんですよ」
『残念ですが、自殺の可能性はありません。腕に無数の防御創がありました。恐らく、死体を隠す意図もあって海に捨てたのでしょうが、海上列車が出来てから潮の流れが変わりましてね。埠頭から死体が発見されたのは、ある意味、幸いだったわけですよ。ぁ、……失礼、幸いという言葉は不適切でしたね』
『いえ、お心遣いに感謝します』
プルートスが開示する情報から、姉が溺死ではないことにティアは安心した。溺死は辛い死に方の一つだと、一番上の姉が言っていたことを思い出したからだ。
『そうだ。女王陛下とアマーリエ……アメリーお姉さまは、無事ですか? レオナ姉さんの護衛の安否は?』
女王陛下、お姉さま、姉さん……こうして文字にすると、家族間の距離感がこんなにも明確であることに、ティアは心の中で笑いたくなる。いっそ泣き崩れずに、狂人のごとく腹を抱えて笑えば、どんなに気分がよくなるのだろう。
【つづく】
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