【五】血縁(けつえん)

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【五】血縁(けつえん)

「う……ふっ」  か、硬い。噛み切ることできない。  純血の夜族(ナイトメア)ではないから、ティアには吸血するための犬歯も、肉体を噛みちぎる(あご)の力もない。首筋に歯を突きたてていても、うっすらと歯形がつくだけで飢餓と焦りが胸を焦がす。 「どうしよう、わたし、わたし」 「……あぁ、すいません。自分が浅慮(せんりょ)でした。ちょっと失礼します」  苦戦するティアの気配に、ファウストが頭をあげた。彼女をいたわる翠色(すいしょく)の瞳が切なくて、自分をいたわるような優しい視線が、彼女の不安と恐怖を和らげる。疲労を滲ませた白い顔にはやさしい笑みが浮かび、ファウストのティアの脳の一部が疼いた。 「見苦しいですが、どうかご辛抱を」  そう言って……。  ガリっと自分の右(てのひら)を噛みちぎり、(みずから)らの血肉を咀嚼(そしゃく)し始めた。 「!」  ファウストの右掌に赤い花が咲き、紫の目が見開かれる。  ティアの前で平然と行われた自傷行為に、夜族としての渇きと喜びがせめぎ合った。  長い指がティアの顎をなぞり、ゆっくりと持ち上げる。迫ってくる血にまみれた唇。吸血が出来ないティアのために、ファウストが取ろうとしている行為に、愛おしさと悍ましさと罪悪感で頭がおかしくなりそうになる。  わたしの、はじめて……。  まるで雛に餌をやる親鳥のように、咀嚼した血肉をティアの口にゆっくりと流し込まれていく。血肉の味と舌触り、そして異物感を感じるティアは、自分が人体の一部を食べていることに戸惑いつつも、その甘い味に興奮していた。 ……どうしよう、おいしい。甘い。  鉄錆の味とぶつぶつとした肉の感触。舌に感じた絡みつく異物感は、毛穴から生えている無数の産毛だろう。自分が今食べているのが、体の一部だというのに全身が喜んでいる。  これが夜族の(さが)だとするなら、多種族とよく諍いを起こす理由がよくわかる。  血肉に酔い、残虐な行為に喜びを感じ、背徳を肯定する。  自分の身体とは思えないほどの、煮えたぎるような高ぶりに、ティアの初心(うぶ)な心が悲鳴をあげた。  くちゅりと音を立ててファウストの舌が、ティアの口内に入っていき、器用に自らの舌でティアの舌を自分の口内へ導いていく。 「う……あ、はっ」  息を吸う間がもったいない。  柔らかな舌と糸を引く唾液の感触、血肉の味が脳内に極上のハーモニーを奏でた。  もっと血を味わいたくて、ティアは貪婪にファウストの口内を貪り始めた。唾液に混じる微かな血の味が蜜のように甘く感じ、口内にわずかに残るつぶつぶとした肉のカスを執拗に何度も舐めとろうとする。  欲しい、血、肉、だけど、ちがう、これだけじゃない。これだけじゃ、足りないの……。  柔らかな頬を赤らめて、とろんと潤んだ紫の瞳が妖しい熱を帯び始めている。向こうからカーラの媚声が波音と共に聞こえてきて、ファウストの下腹部あたりが反応しているのが分かった。  あぁ……これだ。  もはやティアは、自分が何をしているのか分かっていない。  斜面の護岸に背中をあずけた状態で、胡坐をかいているファウストの腰にゆるゆると腰を下ろして、スカートからのぞく細い足を蔓のように絡める。布越しでもわかる異性の欲望の熱に、体の芯がじわりと蕩けそうになった。 「ファウスト殿、どうか……」  切実さをにじませながら、ティアの声には明らかな期待が潜んでいる。  ファウストの迸る熱によって渇きが満たされて、全身を支配する寂しさから解放される期待。火照る未熟な身体が、夜族特有の甘い香りを放ち、ティアは無意識にファウストを誘った。 「承知しております、姫様。我が国の青バラの為なら、自分はなにも惜しくありません」    この時、夜族そのものと化していたティアは、初めて間近でファウストの顔を見た。  昼のように明るい深夜。月明かりの下でぼんやりとした顔が、はっきりとした焦点を結ぶ。 「姫様……では」  ファウストの手がスカートに潜り込んで太ももにかかる。ショーツを脱がすために、ゆっくりと太ももからショーツを撫で上げて、くびれた腰のあたりで手を止めた。このまま一気にショーツを脱がされるのかと思うと、それだけで甘い痺れに襲われるのに……。 『ティア、お前は自分のために生きるんだ』  お父さま!  ティアは快楽ではなく、驚きと恐怖で身をすくませた。  確かめるために、身をよじってファウストの顔を注視すると、見知った造形に戦慄が走る。  ファウストと父は、残酷なまでに似ていたのだ。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  どうして気づかなかったの?  日よけの帽子は燃えた車内に取り残されて、あらわになった頭髪は少しクセのある短い黒髪。鼻筋が通って、少しやつれ気味な端正な顔が父の面差しと重なった。なによりも、ティアを打ちのめしたのは、ファウストの双眸――父と同じ翠色(すいしょく)の瞳に気付けなかったことだ。 『お父さま、お父さまのおめめの色、キレイ! もっと近くで見たい』 『はははは。いいよ、こんな目でよかったら存分に見るといいさ』  ティアは父の瞳の色が好きだった。ただの緑色じゃない、カワセミの煌めくような緑の羽根の色。森の妖精のように神秘的で鮮やかな、その美しい緑を独り占めしたくて、父の愛情を確かめたくて、幼いティアは父に抱きしめられながら父の瞳の色を堪能し、父の視界が自分にのみ注がれていることに喜びを感じていた。 ……背後で姉二人が、妹に対して嫉妬している気配を感じながら。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 「ご、ごめんない、やっぱりダメ! ダメです」  ティアは慌てて、ファウストの胸板を両手で押して拒絶の意思をしめす。  ファウストの雰囲気と疲労感が、自身の認知のバイアスを狂わせていたとはいえ、あやうく自分は取り返しのつかないことをしようとした。  夜族の血なんて言い訳でしかない。自分の血の半分は、父の血である人間のものなのだから。 「あ、あなたは、何者なのですか? まるで死んだ父とそっくりです」  必死に言葉を紡ぐティアは、自分の為に自傷し血肉を捧げた青年を見た。  国を救った以外――父は過去を多くを語らない。もし、カーリア()との青いバラを咲かせる(結婚する)前に、別の家族がいたのだとしたら。もし、腹違いの兄がいたとしたら……。  最悪の想像に、吐き気と奇妙な愉悦が腹の底に赤黒く渦巻いた。目覚めたばかりの夜族の血が、近親相姦を(そそのか)していることに気付いて気分が重くなり、別の意味で顔が赤くなる。 「あぁ、なるほど。そういうことですか」  対して、ファウストの方はティアの変心に納得がいった様子だ。  そして幾分、困った様子を見せながら、真っすぐにティアを見て尋ねる。 「確かに自分の親に似ていると気づいたら、ヤる気が失せますね。……そんなに似ていますか?」 「は、はい。若返ったら、ちょうどあなたの顔になると思います」 「そうですか。参ったなぁ」  仕方がなさそうにゆるく笑うファウストは、そっとティアから身を離して恭しくその場で跪いた。 「改めて、ご挨拶を。自分の名前はファウスト・メレアグロス……貴女の父、宮廷魔導師(ロイヤルウィザード)のイーダス・ウェルギリウスとは伯父と甥の関係になります。メレアグロスは母親の(せい)で、姫様とは従兄妹(いとこ)にあたります」 「……え?」  最悪の事態が避けられたのが分かったが、突然あらわれた父親に似た親戚の登場。思わぬ事態の発生に、丸眼鏡の奥の紫の瞳が限界まで見開かれる。 「そんなの知らない。聞いてない」 「そうでしょうとも、自分の父であるユリウスは、あなたの御父上を嫌っていましたからね。父とイーダス様は一卵性の双子なのですが、兄弟仲(きょうだいなか)がよろしくなく」  「へ? ちょっと待って一卵性の双子って、そうなるとファウスト殿とわたしは、遺伝子的には腹違いの兄妹(きょうだい)になるのでは?」 「まぁ、そうなりますが。今まで交流らしい交流がなかったですし」  あまりにもあっさりとしたファウストの返事と態度に、ティアは閉口した。意識すればするほど、ファウストと父との類似点が見つかって、彼の顔をまともに見られない。  わたしって、こんなにファザコンだったの?  確かに異常な家庭環境だった。半分しか血のつながっていない姉二人、父は二人の姉たちの教育係兼養父のポジションで、母はいないも同然だった。王宮の近くにある北の離宮だけが幼いティアの世界であり、主治医と使用人たちは必要最低限しかおらず、その小さな世界の中心に父がいた。 「姫様、具合でも悪いのですか?」  心配そうにのぞき込んでくるファウストに、思わず身体ごと視線を外す。ばつが悪いどころの騒ぎではなかった上に、この男の飄々とした態度が解せなかった。  父だったら、こんなふうに接しはしない。  この男は明らかに父とは別人なのに。 ――父と似ていることで、こんなにも動揺するなんて思わなかった。  思い入れが深ければ深いほど、胸に深く沈めた想いが、理不尽な現実に反発して怒りに近い苛立ちを連れてくるのだ。  勇者(マンダリンオレンジ)の髪と勇者(むらさき)の瞳――カルティゴの国民たちが、ティアに対して感じているわだかまりを、今の彼女は十二分(じゅうにぶん)に理解できた。  しかも緊急時とはいえキスを許し、自傷をさせてこの男の血肉をすすってしまったこと、夜族の血のせいとはいえファウストに欲情した自分自身の罪深さに頭を抱えたくなる。 「あ、そうだ。あなたの手当てをしないと」  一連のことを思い出していたティアは、ファウストが自分を救うために自らの掌を噛みちぎったことを思い出した。  慌てて彼の右手をとって傷口を確認しようとすると、血はすでに止まっており、ピンクの肉がごぼごぼと盛り上がり始めてる。治り始めた傷跡をながめる紫の瞳は、痛みと罪悪感よりも好奇と欲望でぎらついた。  おいしそう……。  目に飛び込んできた健康的な肉の色に、盛り上がっていくピンクの塊に、唾液があふれてきて止まらない。口の中に蘇る極上の味を思い出して、血肉を催促する浅ましさに奥歯を噛みながら、ティアは努めて王族らしい態度をとろうとする。 「その、ファウスト殿は回復魔法が使えたのですか。血が止まっているのに、気が付きませんでした」  ティアは会話に集中することで、湧き上がる衝動から逃れそうとした。ただでさえ濃厚な血臭(けっしゅう)が漂い、すぐ近くでカーラとプルートスが睦み会っている。夜族の血を刺激するには十分すぎる要素の中で、果たしてティアは自分を保てるかどうか……あまり自信がない。 「いいえ、ちがいますよ。自分の血には、妖植族(トレントぞく)鬼菌糸種(マタンゴしゅ)の血が入っています。体内で薬草を作ったり、肉体が損傷したら魔力と菌糸で疑似的な部品を作り、損傷した部分を治療することもできるのです。この技術を応用して、姫様の父君であるイーダス様は、新たな検死方法と治療法を王立警察と医療院に提供いたしました」 「……それは、損傷の激しかったレオナ姉さんの、死体を復元することも含まれているのですか?」 「そうです」  ティアの問いかけに、ファウストは静かに応えた。どこか寂しげに見える表情で、懐かしむように細める翠色(すいしょく)の瞳には、ここではないどこかが映っているようだ。 「あなたのお父様はすごいですよ。一卵性の双子なのに、うちの父とどこで差がついたのか」  涙のように本音を零れ落として、遠くを見つめる従兄(いこと)の瞳は、冬のへどろ沼のように冷たく淀んでいる。答えが分かりきっているからこそ、答えられない問いかけ。自分の知らない場所で、父は、伯父は、ファウストは、お互いを傷つけあいながらも、ある種の連帯感を持って生きてきたのだろう。  わたしは、、どんな存在だったのだろう。  自分が愛されていたのは間違いない。  娘が我が道を進めるように、宮廷魔導士の権限で王家の回顧録を見せたこともある、ユニークスキルに目覚めたティアのために同窓(どうそう)であるヘルメス教授を説得し、カルティゴのネイリス学院に編入させたのも。護衛として、当時は傭兵崩れだったカーラを連れてきたのも――全部。  父が娘のためにしてくれたことを想像し、成長するごとに父がしてくれた献身が、どんなに周囲の顰蹙(ひんしゅく)を買い、実行に移すことが至難であるのか思い知った。言葉少なくとも伝わる愛情は、現実の厳しさが我が身にかえって初めて実感できるのだ。  だからそこ父の愛情は疑う余地がないのに、ファウストを見ていると自分の知らない父の姿が垣間見えて、それが無性に不安をかきたてる。 ――娘への愛情が美しすぎて、うすら寒さを覚えるほどに。 「ところで姫様、大分落ち着いたご様子ですが、どうでしょう、儀式を棄権いたしますか?」 「え?」  不意をつくファウストの提案に、暗く沈んだ意識が現実に引き戻された。 「姫様は寝ていらして、存じることが出来ませんでしたが、自分がはり巡らせている【目】が、襲撃をかけられている【ペルセ】の映像をとらえました。そこで、安全を確保しようと来た道を引き返して、私達は一度、首都へ戻ろうとしたのです。ですが、その短期間で、来た道にステルス地雷を二個仕掛けて多数で襲撃。統制が取れていることから、彼奴等(きゃつら)はただの烏合の衆(うごうのしゅう)ではないでしょう」 「……その【目】というのは、あなたの固有スキルですか?」 「はい。スキルの【ビーストテイマー】に種族スキルの【魔力菌糸(マナマイ)】を組み合わせ、疑似契約した動物に自分の菌糸を寄生させて、魔力を通じて五感を共有させるのです。座標を割り出したり、複数の映像を確認したりできる自分が編み出した【オリジナルの魔導】――それが、【魔力菌糸体(マナ・マイスィーリアム)のネットワーク】です」  ファウストは簡単に説明しているが、オリジナルの魔導を編み出せるのは、魔力のテクニックだけではなく、自身のスキルとポテンシャルを最大限に生かす必要がある。  肉体的にも精神的にもかかる負担は尋常ではなく、中途半端に手を出せば廃人になる危険性があるのだ。  そのことを踏まえると【王立警察 警視総監補佐】の肩書は伊達ではない。若く実力もあり、将来有望の上で宮廷魔導士(ロイヤルウィザード)であるイーダスの甥。血統、実力、精神性――もしも、彼の能力値(ステータス)を円グラフに描いたのなら、月のように大きくて美しい黄金の真円が描かれることだろう。 「【オリジナルの魔導】って、すごい。理論上はわかりますが、実際にそんなことができるなんて」  ティアの称賛の声に、ファウストは翠色(すいしょく)の瞳の目を細めて照れたように笑った。  その笑顔は、父とはまったく違う、普通の青年らしいあどけないものだった。 「えぇ、その、ありがとうございます。この魔導の欠点は、脳の負荷が多大であることでして、自分の場合は自らの肉体の中で育てた薬草で、そのまま回復薬(ポーション)を精製して、直接血液にポーションを流して脳細胞を回復させているんです。……が、襲撃者の方は、蠅の脳みそに直接、魔力のネットワークを編み込んで、こちらを盗聴していたわけです。こんな対象が小さいうえに、虫の脳みそを壊さないように魔力で紐づけるなんて、上には上がいるモノです。正直、ちょっとへこみました」 「そ、そんな、あなたは十分すごいですよっ!」  ティアの言葉を聞いて、ファウストはどこか寂しそうに微笑んだ。  複雑な感情を滲ませて、無理して唇を釣り上げている顔。優しい言葉よりも自分を責める言葉を望んでいる瞳に、ティアはいいようのない息苦しさを覚える。  彼を責める言葉なら無限に吐くことが出来た。  仲の良かった姉の死、殉職した姉の護衛たち、公務中に襲撃に遭った一番上の姉と母、犠牲になった青バラ(親戚)たち……。  肉体の制限を無視すれば、ファウストが気づいて防ぐことができた悲劇が多すぎた。それでも彼がこの場にいることを許されて、ティアたちを前線で守る立場にいる。プルートスが必死に彼を、此岸(しがん)につなぎとめようとしている優しさを観たからこそ(知らない人からいたら、死体蹴りの往復ビンタだが)、罪悪感を軽くするための辛い言葉を望む、彼の甘えを許すわけにはいかない。 「わたしも安心しました。ファウスト殿も、顔色がだいぶ良くなったようで」  だから知らない振りをして、見えない傷口にわざと塩をすりこんで、彼自身に責任を自覚してもらう。  彼はティアの従兄妹(いとこ)である以前に【魔導王国オルテュギアー 王立警察 警視総監補佐 ファウスト・メレアグロス】なのだから。  ファウストは一瞬だけ目を見開いたあと、少し困ったような顔をして、翠色(すいしょく)の瞳を伏せた。まるで自嘲と羞恥を織り交ぜた顔で絞り出すように言う。 「その、姫様の口づけをした際に、回復に必要な唾液をいただきました。おかげで、次の日に死体になることは免れましたよ」  確か彼は妖植族(トレントぞく)の血を引いていた。他者の体液がないと生きることができない点において、妖植族は夜族と少し似ている。大きな違いは妖植族の方が、単体生殖も可能な点だろうか。彼らは正確には両性であり、体内には生殖に必要な、生殖胚(せいしょくはい)が埋まっているらしい。 「それって、かなりギリギリだったってことですよね。あなた以外に、代わりはいないってこと?」 「えぇ。残念なことですが仕方がありませんでした。自分の編み出した魔導を、他の捜査官に共有させるには、技術を確立させなければいけません。それには宮廷魔導士の協力を仰いで、年単位の研究時間が必要です。イーダス様なら、一年で済ますでしょうが。我が父と比べて……惜しい才能を亡くしました」  この時、ティアはファウストの言葉に引っ掛かった。ファウストは自分の父をあまり語らない。ティアの父に対する評価はかなりの良好であるのに対して、自分の父親には、批判的で仄暗い嫌悪感がこめられている。 「そう。回復したのなら護衛は継続できるかしら。わたしは儀式を棄権する意思はない。この世界を救うためにも、アステリアの知識が必要なのよ」 【つづく】
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