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【七】異形(いぎょう)
月が下へ傾き始めているが、夜はまだ明ける気配はない。
賊たちにまとわりついた蛇たちは眠りにつき、再びカーラの頭髪へと擬態した。血で髪を真っ赤に染めたカーラは、すっかり性も根も果てて、だらしなくプルートスと折り重ねるように眠っている。
案外お似合いかもしれないと、ティアはジト目になり、彼女を守るように後ろに立つファウストも、警視総監殿にもやっと春がやってきたと、腕を組んでうんうん頷いて見せる。なんのかんので、この二人は血の繋がりが濃い親戚同士、思考パターンは似通っているのかもしれない。
道路に転がる血まみれの賊たちが三十人ほど。
黒装束もマスクも肉ごと蛇たちに食われていた彼らは、ティアのユニークスキルのおかげで生還した。しかし、本来の血肉ではないパーツで無理やり治療したものであり、蘇生を果たして意識をとりもどしたものの、本来の肉体が拒絶反応を起こた。
命を救うことは摂理を捻じ曲げることだ。生き返った激痛から、賊たちは獣じみた悲鳴をあげて、蛆虫のようにピクピクと痙攣を繰り返している。
倒れている彼らの下には、乾いて飛び散った血肉が、先刻の酸鼻な光景を物語り、どこからともなく蠅が飛んでくるが、ティアの周囲に舞っている光の粒子が蠅の頭に取りついて、ボトボトと地面に落としていった。
賊たちが自分たちの動向を、虫を使って盗聴していたのだとしたら、蠅はもちろん、周囲に生息している虫たちにも警戒しなければならない。
「眠りなさい」
ティアが目を閉じて両手を広げると、周囲を漂っていた粒子が、花火のように弾けて降り注いだ。
まるで光の雨が降っているような状況を、神秘的な美しさの中でどのようなことが起こっていたのか、正しく理解できていたのはファウストはのみ。
【魔力菌糸体のネットワーク】を周囲に張り巡らせていたおかげで、夜行性の動物による野生の感覚が彼にとてつもない現実を告げてくる。
周囲を活動している虫たち――地面に潜むアリに至るまで、ティアの魔力をまとった菌糸たちが、虫たちの脳に寄生して彼ら思考を次々と奪っていったのだ。
しかし、これならば安心というわけではない。ペルセを襲ったテロリストたちが、いつ襲ってきてもおかしくないからだ。青バラを襲った別動隊が、なかなか帰ってこないことに気付けば、戦力を増強させて再び襲ってくる。
だが、ファウストは、いつか来るかもしれない脅威よりも、目の前の少女に恐怖を覚えた。
ティアには魔力はある。しかし、魔法を使うことができない。魔法を行使するために必要な臓器――マナ神経肝が、正常ではないからだ。
魔王が封印されて平和になった500年。魔法と共に医療技術も進化したことで、ユニークスキルを持つ個体の特徴が明らかになった。
それはマナ神経肝が生まれながらに存在しない、またはなんらかの理由でマナ神経肝に障害を負った場合、ユニークスキルが発現するのだという。
未だマナ神経肝と、ユニークスキルの因果は明らかになっていないが、ユニークスキルを発現させるために、マナ神経肝に干渉する実験が、第三国で行われていると噂されていた。
ユニークスキルを侮蔑視しているオルテにおいて、【尊き青バラの血】に生まれながら、マナ神経肝が異常を起こすなんてありえない。
生まれ落ちたら即、身体検査で生殖能力と共に有無を確認して、マナ神経肝がない個体は出生の秘密を秘されて里子に出されるものの、常に行動を監視されて自由に生きることが許されることはない。
出来損ないの青バラは貴族の義務を学ぶことなく、さりとて野に下ることも許されず、アステリアの思考に支配された、その当時の王によって人生を歪められる。
ティアがこうして自由に生きることが出来たのは、イーダスが娘のマナ神経肝の異常に、だれよりも早く気付いたのではないかとファウストは考える。考えて、イーダスの心情を考えて、羨望と共に苦い気持ちが黒雲のようにこみ上げて止まらない。
彼女は愛されている。とてつもなく、途方もなく。
「それでは、はじめましょうか」
彼女なりに安全が確保できた確信を持ったのだろう。倒れている賊たちに近づくティアは、一番痙攣が激しい人間のもとに近づいた。
ビクビクと陸に上がった魚のように、激しい痙攣を繰り返す様子から、まともな情報が引き出せるかあやしい。
ファウストは、彼女を止めるべきかしばし考える。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
自分の内側から、無限に力がわきあがっていく感覚。周囲の全てを意のままに出来そうな万能感が今のティアにはあった。
この活きが良い人間が、自分の望みを叶えてくれるという直観。ティアは賊の中で、この人間だけは知っていた。
プルートスの魔導によって体内の水分を狂わされて、カーラの毛細サイズの蛇の群れに喰われながらも、自己を保つ意志の強さ、絶望的な事態でありながら、状況を判断していた冷静さは引き出せる情報に【質】を与える。
「……ぐっ、ふっ………ぃ」
ティアは自分を殺そうとした相手に近づき、近づくにつれて相手が男性であることに気付き、匂いから純血の人間であることを確信し、マスクが破れてあらわれた頭には、長めのライトブラウンの髪と顔には苦悶と憎悪が、さらに距離を詰めれば、堀の深い顔に複雑な感情を宿すアンバーの瞳が、夜闇に浮き上がる。
アンバーの瞳に映し出されたティアは、その時初めて、自分が嗤うっていることに気付いた。
「あなたの名前は?」
ティアはしゃがみこんで話しかける。が、男はティアを無視して全身を走る痛みに身をよじっている。
「わかりました。じゃあ、しかたがありません」
本当に仕方がなさそうに、ため息をついて右手を伸ばし、男の髪を思いっきり掴み上げた。
「――っ!!!」
掴み上げた瞬間、男はさらに身をよじって抵抗するが、ティアは手を離すことはなしい、解放するつもりも毛だけに毛頭ない。
「あなたのお名前は?」
「……だ、ま」
れ。を言おうとした口の端から、つーと細い涎が垂れた。
肉体が火照り、アンバーの瞳が潤みだして頬が赤く上気している。
「あなたの頭、ちょっとイジらせてもらいます。とても痛いから、麻酔的な脳内麻薬をドバドバ流しますのでご安心を」
「な……いっ、ひぃ」
ぐいっと乱暴に髪をひっぱられたタイミングで、ティアの手からユニークスキルとともに魔菌糸が毛穴に侵入する。毛穴だけではない、耳から、瞳の隙間から、鼻から、本来ならば侵入されることがない、繊細な器官にざらりとした異物感が走り、痙攣しっぱなしだった男の肉体が逆に石になったように硬直した。
「あ、がっ」
このときになって、ようやく男は相対している相手が、混血の化け物であることを思い出し、恐怖で顔を青ざめさせる。人間の形をしているが、中身は人間とは倫理も思考も尺度も、完全に違う異形そのものだと。
ティアは男の反応に構わず、侵入させた魔菌糸で脳を弄る。彼の脳が生み出す電気信号に、魔菌糸の神経伝達物質が反応する。神経が一本、また一本とつながる度に、頭の中が今まで感じたことのない喜びで満たされる。
「いっ……ひぎぃ……っ」
自分の意思とは関係なく、口からかすれた声が漏れた。
びりびりと音を立てて、全身に走る感覚が気持ち良かった。
分厚い口からだらしなく涎をだらだら垂らして、倒れている道路のアスファルトを涎で汚す男は、圧倒的な快楽の前になすすべもなく、年の離れた小娘によって、己が開発されている状況に媚びた悲鳴をあげるのだ。
「それじゃあ、改めて、あなたのお名前は?」
「コハク……っ」
ようやく名乗った男は、名乗った瞬間に背が反り白目をむいた。
ほぼ血まみれの肉体から大量の汗が噴き出し、つま先までピンと伸ばしている体勢は、極限まで引き延ばされている弓の弦を想起させる。
「答えてくれたご褒美ですよ。ふふふ……。気持ちいいでしょう?」
「あ……あ、ぃ、ふ……っ」
やさしい微笑みを浮かべるティアの紫の瞳には、サディスティックな光がちらついていた。
残虐な気性を持つ夜族の本性が目覚めた故なのか、彼女の中の倫理観は確実に変化しつつあった。眼前の男を貶めることも、尊厳を奪うこともためらわない。むしろ、そうすることこそが正しいことであり、自分の思うままに服従させたいという欲求が、甘く切なく胸を突き上げてくる。
不自然に太ももを曲げて股間を隠そうとしているコハクに、成り行きを見守っていたファウストは、この男に生じた生理現象を察して痛ましげな表情を作り目を逸らした。
壮絶な拷問を加えられて、助かったと思ったら肉体が拒絶反応を起こし、あげくの果てに脳みそを弄られて、目に見えない菌に脳を犯されつつ、脳内麻薬を垂れ流される。
壮絶な激痛からの圧倒的なご褒美の快楽。恐怖の解放からの暴力的な快楽の流れは、どんな強靭な精神の持ち主だろうとも膝を屈し、尊厳を砕いて自らの理性を溶かしてしまう。
生存本能と防衛本能のなせる技とはいえ、今まで自分を支えていたであろう精神的支柱を、自らの手で叩き壊させる手法。それをティアが夜族の本能のみで行っているのだとしたら末恐ろしいことだ。
「では、コハク殿。次の質問です」
「……ぃ」
ティアの艶やかな唇から「次の質問」が紡がれた時、コハクの表情は憎しみと喜びで濁り、アンバーの瞳が焦点を結ばず不気味にぎらついている。ティアはその時、自分の勝利を確信していた。
「コハク殿、あなたはどこの誰なのですか? 裏を引いている首謀者は?」
人の心がないティアにはわからない。
問いかける愉悦と自信に満た声が、闇に沈んだ男の心に怒りの意思を灯した。
――ふざけるな。と。
赤々と燃えあがる意思は、未熟な暴君にありったけの口撃を叩きつける。
「こた、え、るかっ。……この【ブラネッツ】がっ!」
精一杯の理性をかき集めて、嘔吐物を吐き捨てるように声を荒げるコハク。ここまで来て、抵抗の意思を見せる精神力は大したものである。が、彼の尊厳を奪わせまいとした抵抗は、ティアとファウストの顔から表情を奪った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「【ブラネッツ】……ですか。久しぶりに聞きましたね。その単語」
ティアの発した言葉の端には、隠し切れない怒りとやるせなさがあった。
「つまり、あなたは【混血排除主義者】ですか。驕り高ぶった人類種の、もっとも下劣で品勢を疑う思想ですね」
ファウストの方もティアに同意する。先刻まで感じていたコハクに対する同情心が失せて、厳しい表情を作り腕を組む。
【ブラネッツ】――正確には【ブラッドネストゥール】。
根拠のなき血統。穢された種と失われた純血を意味する、混血種に対する侮蔑の言葉――分かりやすく言うと【薄汚い化け物】という意味だ。
25年前にオルテによって滅ぼされたライラは、【混血排除主義】を掲げて混血種を【ブラネッツ】という造語を作って差別し、【世界は一度、原点回帰すべきである。種族の純血性をいま一度見つめ直すべき】と声明を発表した。
「いい気にならないでください。なんの取り柄もない人間風情がっ!」
「――ッ」
声を荒げてティアは男の腹部を蹴り上げた。ブーツのつま先をえぐり込むかのように蹴り上げて、次にむきだしの股間を執拗に何度も踏みつける。
それだけではない、同時に男の痛覚を魔菌糸で快楽神経につなげて、コハクが今感じている激痛を、圧倒的な快楽にするように改造した。
「あなたがた人間の純血種は、遺伝子の箱舟。世界を支えし担い手でありながら嘆かわしい。あなたの偏った思想を、わたしが矯正してさしあげます」「ハッ、やれるものなら……」
「雷光網」
低くつぶやいたファウストの手から、緑色の電流がほとばしり、コハクの肉体を投網のように包み込んだ。
「あああああああっ、ひいいいいいぃいいいいいぃいいっ……」
ぷすぷすと音を立てて火花が散る体。焼けこげる髪から白い煙が立ち上り、トーストを焦がした時の匂いが周囲に広がった。
「見てくださいファウスト殿。電撃を浴びているのに、この男、喜んでいますよ?」
「姫様、悪趣味ですよ。ですが、こんなに喜んでいる顔を見せられると微妙な気分になりますね」
「このっ、好き勝手に言いやがって……っ、いぃ」
苦痛に耐えることが、快楽に変わる。
矜持と尊厳を痛みをもって保っていた理性が、どろどろと溶けて、まるで、麻薬中毒者の禁断症状を味わっているような感覚だった。
痛みと快楽と強烈な飢餓感が頭の中でぶつかりあい、思考がぐちゃぐちゃになる。
気持ち良すぎて、ものたりなくて、せつなくて、苦しくて頭がおかしくなりそうだ。
「もう、やめてくれ。なんでも話す、話すからっ」
脳みそが溶けそうなほどの強烈な刺激に、情けない言葉を出しながら、コハクはついに絶頂を迎えて降参した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「じゃあ。まず、あなたは誰? あなたのバックに誰がいるの? 目的は王位継承の儀式の阻止なの?」
半眼でコハクを睨みつけるティア。早口で問いかける言葉は嫌悪感を隠さず、男への強い怒りで満ちていた。出来ればこの手で八つ裂きしたいほどの怒りを律して奥歯を噛むめば、口内に鉄錆の味が広がっていく。
「あ……ぁっ」
だが、今のコハクにとっては彼女の殺意に近い怒りが心地よく、甘美なスパイスとして頭の中を満たした。
「はい。私は25年前に滅ぼされたライラの生き残りです」
ライラ……。と、聞いてティアは、父が関わった25年前のテロを思い出す。そう、父がテロの主犯を捕まえなかったら、もしかしたら【ライラ】は滅ぼされることはなかった……かもしれない。
「流浪の民となり、化け物たちから追われる日々で、クロノス商会に保護されました。そこで世界の真理を教えられた我らは、志をともにする純血主義の同志たちと共に勇士を募り、世界を救うために蜂起したのです」
ティアの曇る表情に反比例して、コハクの改まる口調と歪んだ媚瞼。全身から媚びるような空気に、この男の尊厳が完全に破壊されたことが伺えた。アンバーの瞳に狂おしい影を浮かべて、餌をねだる犬のようにだらしなく顔を弛緩させている姿は、哀れさを通り越して滑稽だった。
「蜂起……つまり、英雄気取りの反乱ですか」
テロリストの御大層な言い回しに、ティアは丸眼鏡をかけ直しながら眉をしかめて、ファウストは翠色の瞳を険しくさせる。
もしかしたらヘルメス教授を殺したのも、レオナ姉さんを殺したのも。
ティアの胸中にどす黒い感情が生まれ、頭の中で猟奇的な狂気が咲き乱れる。復讐、報復、雪辱、復仇……あぁ、これでは永遠に終わらない。オルテにテロを行ったライラは滅ぼされて、亡国の民が復讐心を胸に長い時を経て牙をむいた。
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魔王が活動していた500年の暗黒期。
魔王と魔物たちは全世界を蹂躙し、断種の呪詛【ブロークンチェーン】をばらまいたことで各種族の存続を脅かした。血脈の断絶と絶滅を防ぐために彼らが縋ったのが、純血の人間種。
寿命が100年以下で能力も平均的であり、なんの取り柄もない種族に思えた彼らは、生理的衝動もない代わりに、生殖に異様に特化していた。どんな環境にも順応する生命力と、個体差があるものの365日24時間も続く途方もない発情期。十月十日程度で出産し、生まれてたった三年で物心がつくとされ、特筆すべきは繁殖と世代交代が頻繁である故か、英雄や傑物が生まれやすい点にある。
勇者アレンも、魔導姫アステリアも純血の人類種。
魔王が真っ先に滅ぼしたユピテルも、純血の人間が住んでいた都市であり、ティアやファウストにとっても父親が純血の人間であることから、一定の尊重と友好があり、そして、どんな思想であろうとも歩み寄るべきだと考えていた。……のだが、今回の一件で考えを改めた方が良いのだろう。
純血の人間は劣等種。視野が極端に狭く、寿命が短いゆえに無責任で、英雄や傑物が生まれやすいことで自分たちを優性種だと思い込み、平気で多種族を差別して弾圧する。
そんなどうしようもない種族に、今も尚、世界は依存しているのだ。人間の並外れた繁殖力があるかぎり人手不足は無縁の問題であり、血筋が断絶されることはない。
人間種の唯一の欠点は、平和になり生活が安定すると一気に出生率が下がることだ。だから出生数を維持するために、他種族の人喰いが黙認されている。
純血の人間は遺伝子の箱舟、そして人外たちにとって最高の食料である。つまり彼らは世界を支える担い手なのだ。
【つづく】
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