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雨の夜は好きじゃない。外で警備の仕事をしはじめてからだ。冬には体温を余計に奪われ、夏は蒸して汗だくになる。
七月下旬に入っても梅雨の明けない年だった。雨の工事現場で、俺は片側通行を行き交う自動車を誘導していた。深夜十二時をまわっても、自動車のヘッドライトがひっきりなしに俺を照らす。さすが、腐っても鯛、二十三区外でも東京だ。地元では、主幹の県道でさえ静寂に包まれている時間なのに。
ヘルメットやレインコートに、雨粒があたってうるさい。頰をつう、としずくが伝った。雨じゃない。汗だ。うつむき、ため息を吐く。顔の右半分を照らされ、顔を上げる瞬間、視界の端が地面の上できらりと光るものをとらえた。誘導棒を振って自動車を数台やり過ごしてから、手を止めた。なにか、光るものがあったと思しき場所でしゃがみこんだ。誘導棒の赤い、ほのかな光源で照らす。確かになにかが反射した。
拾い上げたものは、角の丸くなったガラスの破片だった。海辺では定番の、漂着ゴミだ。工事現場のアスファルトの上に落ちているなんて、どうも似つかわしくない。
しげしげ眺めていると、背中から「さぼってんじゃねえ!」と怒号がとんだ。慌てて背筋を伸ばした。角の丸いガラスの破片は警備服のズボンのポケットに押し込んだ。また別の自動車が俺を照らす。力任せに誘導棒を振った。
仕事終わり時分、日はすでに高かった。雨雲のせいで、太陽は顔を見せちゃいないけど。築四十年の木造アパート六畳一間で、そそくさと服を脱ぐ。汗と雨にむれた衣服の内側は、すえた、いやなにおいだ。
ああ、くさいくさい。ひとりごとでごまかして、それを床のゴミの一部にする。
かつん、と硬質な音が鳴った。ズボンのポケットをまさぐると、きらきら光るものが現れた。角の丸い、ガラスの破片だ。思いがけず持ち帰ってしまったのか。
足の踏み場のない床を爪先だちで歩く。敷きっぱなした布団の脇に備えた座卓も、スーパーの割引弁当の殻であふれている。そのうすい天板へガラスを放った。また、かつん、と硬い音が鳴る。
あのガラスを、どうこうしようってつもりはなかったし、これから先もどうこうするってつもりはない。捨てるのも面倒で、溜め込んでしまう。悪いクセだ。クセだけじゃない。俺には、悪いものしかない。そう生まれついたからなのだと思う。
ため息を吐き、立ち上がる。くさいくさい衣服を床からつかみあげ、アパートの慎ましやかな玄関に幅を利かせている、古い二層式洗濯機に放り込んだ。動かすとガタガタうるせぇんだよなぁ、なんて思いながら、今日は銭湯に行くかを考えた。
俺が生まれた島の浜辺には、角の丸くなったガラスが頻繁にうちあげられていた。夜になると人も車も、往来がほとんどない島だった。娯楽も、ろくな仕事もなかった。同級生たちはそろって、「大学は都会に出るんだ」「東京へ出て、金を稼ぐんだ」と語りながら、真っ暗な海辺でセックスをしていた。俺は、浜では嬌声よりもフェリーの汽笛を聞くのが好きだったから、そいつらをすこし軽蔑していた。
だけど、セックス以外はあいつらとおなじだった。瀬戸内海に沈む夕日を背景に、悠々と遠ざかっていくフェリーは、いつか俺を東京へ乗せて行くと信じていた。
あの島に、賑やかしさなど祭りの日以外になく、腰を振る以外の楽しみもなかった。だけど俺の家には風呂があって、小綺麗にかたづけられた床やテーブルがあって、滋養を考えた飯があった。
東京へ向かうフェリーボートに乗ったあの日、ずっと笑顔でいた母がこぼしたひとすじの涙を、いまでも時折思い出す。あのとき船上から眺めた海面は、陽の光を反射して、きらきらと光っていた。今でも気が塞ぐと、青空の広がっている日を選んで、横浜へフェリーボートを眺めにいく。ときどきは、乗ったりもする。誰とも連れ合わず、たったひとりで船体の揺れに身をまかせるのだ。都会の港は、俺の知るものと程遠く、騒がしくてきらびやかだった。だけど、きらきら光る水面だけは同じで、見ていればあの頃の自分に戻れるのじゃないかと、ほんの一瞬でも思えれば上出来だった。
スチール軸が錆び、骨がいくつか折れているビニール傘を閉じて、のれんをくぐった。アパートから歩いて五分のところにあるその銭湯は、八十をすぎた爺さんがひとりで営んでいる。昔ながらのたたずまいで、番台がある。むっつりとした面構えの老主人に一礼し、入湯料の小銭を差し出そうとした。小銭は指からこぼれ、音を立てて番台に転がる。感じの悪い態度に映っただろうかと爺さんの顔色を伺ったが、彼は怒りも、また反対に笑いもしなかった。むっつりとしたまま、ひどく事務的に小銭を拾い上げた。ばつが悪くなって、そそくさと男湯ののれんをくぐった。
脱衣所には数名の客がいた。たぶん、全員が六十五歳以上だろう。適当に着てきたシャツの裾をたくし上げ、品なく脱衣カゴに脱ぎ捨てる。去年まで爺さんと交代で番台に立っていた、愛想のいい女主人を思い出した。爺さんよりもやや年下で、歳の割に高い声と早口だった。彼女のいたころ、爺さんにももうすこし表情があった。笑い声は、いっそう高かった。田舎の母親に、すこし似ていた。去年の夏、銭湯は張り紙を残して半月の間休業した。再開後、番台は無愛想な爺さんひとりだけになっていた。爺さんが、ここをたたんでしまったらどうしようか。次に近い風呂屋はスーパー銭湯で、入浴にはここの倍以上の金がかかる。さらにその次にはバスを使う必要がある。この銭湯の休業中、仕方なしにかよったが、帰り道で汗だくになった。六畳一間に備え付けの洗面所で身体を洗えないわけでもないが、毎日はしんどい。爺さんが一日でも長くここを開けていてくれることを、祈るほかなかった。
木のロッカーに衣服を丸め入れ、持参した固形石鹸ひとつを、よれよれのコンビニ袋から取り出す。穿孔穴にゴムのついた鍵を抜き取り、足首につけた。引き戸を開けると、そこにも五、六の、しわくちゃになった身体があった。手触りの悪そうな手ぬぐいで身体をごしごしこすったり、頭にタオルをのせ肩まで浴槽につかっていたり。開店して間もない時間に、よく来るよなあなんて思う。俺だって、ひとのことは言えないけど
浴場奥の壁には富士山が描かれている。風呂桶と椅子を取り、浴場の入口左側、手前から二番目のシャワー前に腰掛けた。富士山が一番見えにくい場所が、俺の定位置だった。
ボタンを押し、シャワーを出す。一定量が出たら止まる仕組みで、伸びに伸びて耳にまでかかる、うねった髪をじゅうぶん濡らすためには、三回も四回も押さなくてはならない。なんだか間抜けだ。俺のような髪の長さでは、みんなそうなのだろうか。それとも俺だけが、ことさら要領を得ないだけなのだろうか。前髪からしずくが滴り落ちて、持ってきた石鹸に手を伸ばした。
「使います?」
右隣から、声をかけられた。艶とハリがある、若い男の声だ。なるべくゆっくり、時間をかけて顔を上げ、そちらを見る。思ったとおりのやつが腰掛けて、思ったとおりにシャンプーの720mlボトルを差し出していた。
「どうも」
「2プッシュまで」
「はいはい」
薄い皮膚の下に骨が存在を主張するその手から、でかくて重いボトルを受け取る。言われたとおり二回だけポンプのてっぺんを押した。鏡の下の、台になっている部分から滑らせて、借りたものを返す。隣のやつは、やはり骨ばった手のひらで受け止めた。
髪の毛に絡めシャンプーを泡立てる。花や果実のあまったるいかおりが、ぷんと漂った。ほんの十日前までは、メントールのきつい安物だったずなのに。隣は髪を濡らしはじめた。髪の長さは俺よりもさらに長くて、耳が隠完全に覆われている。だけど、そいつがシャワーのボタンを押したのは二回だけだった。ハタチそこそこだと、手際がいい。髪の毛だって、真っ黒で、声と同じで艶とハリがある。切らぬままただ伸びてしまった俺と違って、意図的に伸ばしているんだろう。
「じろじろ見ないでください。恥ずかしい」
俯いた彼の前髪から湯が滴り、その黒と黒の合間から神経質そうな一重がぎょろりとこちらを覗いていた。
「いまさら?」
「セクハラですよ、それ」
「そうなの?」
これだから、と言われそうな気がした。シャワーのボタンを押して、髪の泡を流した。
「昨日、こなかったですね」
シャワーのむこうから、声が聞こえる。
「番台に立つ日だっただろ、お前」
「そういう日はいつもこない」
「番台で会いたくないんでね」
「ここで会うのに」
「番台でお前と金のやりとりすんのが、なんかいや」
理解できないな、呟き、そいつーー理央(りお)はシャンプーボトルのてっぺんを三回プッシュした。あまったるいかおりが、わずか俺の鼻にまで届いた。
二年前の同じ季節、同じ場所、同じ時間に、はじめて理央を見かけた。まゆが薄くて、一重で切れ長の瞳で、すこし幼い顔つきの男だった。俺と同じく骨の浮き出た、だけどしわやたるみ、火傷や怪我のあとなんて一切ない、端正な肉体だった。俺よりも少し低いから、背丈は175センチくらいだろうか。爺さんたちのなか、水を弾く白い肌が印象的で、何度見かけてもそのたびに息を呑んだ。
声をかけてきたのは理央のほうだ。石鹸で洗髪しようとしていた俺の隣から、「使います?」と誘われた。なんで、と俺は尋ね返した。
「なんで、俺に?」
「いつも石鹸だから」
「石鹸が好きだとか、思わないわけ?」
見知らぬ青年は二度、三度、ゆっくりとまばたきをした。彼の髪の毛は短くて、額が出ていたころだ。だから、まぶたの動きが見てとれた。
「石鹸が好きなら、使わなくていいです」
おだやかで、はっきりとした口調だった。俺は思わず目を細めた。青年の、骨の形が浮き出てた右手は、シャンプーの200mlボトルを引っ込めようとした。その指先から腹にかけて、あざやかな赤や黄色がついていた。濡れているのに、どうしてだろうと思った。
「ありがとう。つかうよ」
手を差し出した。青年はまた、ゆっくりと瞬きをした。ちいさなシャンプーを、俺は受け取った。
「あんまり出さないでください。十円玉くらいまでです」
「ケチくさ」
「おれ、貧乏なんです」
皮肉でも茶化すでもなく、彼はひどく真剣だった。だから、「はいはい」と受け入れた。絞り出したシャンプーからは、安っぽい、だけど懐かしいにおいがした。島で、家族と一緒に使っていたにおいだった。
「いつ来ても汚い」
部屋にふみ入るなり、ゆっくりとした口調で理央は言う。いつものたらとでかいトートバッグを、今日も脇にかかえている。雨粒が今も、アパートの屋根や壁を叩きつけていた。
「掃除してってくれていいよ?」
「絶対いやです。触りたくもない」
まったく真剣に、理央は顔をしかめる。伸びた前髪からは目の表情がほとんど見えないけど、口元だけでじゅうぶんすぎるほど嫌悪感が伝わる。
洗濯機に放りこんだ仕事着はすすぎまで終えられていた。ぐっしょりと濡れて重くなったそれを持ち上げ、脱水槽に投げ入れた。
「また夜から仕事?」
「ああ。いやんなっちゃうね」
「仕事が?雨が?」
「両方」
「片方だけ朗報。三時からの降水確率三十パーセント」
「ありがてえ。ついでに、もう片方にも朗報ない?」
「自分で見つけて」
「むりむり。人相悪いし、学歴も資格もないし。アパートに風呂もない」
「風呂は関係ないでしょ」
「43歳独身童貞、非正規雇用年収250万円。履歴書に書けるのは、そんなとこだもん。俺」
床に散らばった弁当の空やペットボトルを蹴りやって、六畳一間を先導する。理央は大人しく俺に連れ立った。
「大卒って言ってたよね?」
背後から声がする。意外なことを覚えているもんだと、肩をすくめた。
「二十年も前に卒業した三流の文系私大は、学歴にならないの」
俺は、万年床のせんべい布団に腰をおろす。
「童貞?」
「なにか?」
「書かなくていいと思う。書かれた方も困るから。たぶん」
理央はやたらとでっかいトートバッグを、心底不本意げに床へ下ろして、薄い敷き布団の上、俺の正面に座り込んだ。ふたりして、あぐらをかいた。
「それ以外にセールスポイントないよ、俺」
理央の骨ばった右手の指がぴんと広がり、俺の膝を掴んだ。その先端に、黒い汚れが沈着している。
「あんたがやると、虚偽表示になりません?」
「そう?」
「だってあんた、処女じゃない」
おどろくほど滑らかに、理央の口角が上がった。前髪がつくる影の中で、彼の瞳が光っていた。
布団で仰向けになると、ちいさなから窓からさかさまの空が見える。どんよりと曇って、三時間後の降水確率なんて、信じられなかった。雨と、まわる脱衣槽と、理央の吐息が、混ざって聞こていた。セックスは嫌いじゃなかったけど、理央とするのは居心地が悪い。とても優しくされるからだ。髪をひっぱられたり、腹や顔を殴られたり、ほぐしもせずに突然貫かれたり、そんなことが、ひとつもなかった。かならず愛撫からはじまって、正常位で挿入する。俺が何も言わなくてもゴムをつけ、確かめるように入ってくる。少しでも顔を歪めると、「大丈夫?」とか、「いい?」とか、腰を進めるのと同じくらいゆっくりと声をかけてくる。今日はことさら、やけにしつこい。理央の熱がからっぽの内側を満たすころには、居たたまれなさが最高潮になる。俺に、ここまで丁寧にされるほどの価値があるとは思えなかったから。殴られて、罵倒され傷つけられて、痛みとともに消えてしまいたくなるのが俺にふさわしいセックスだと思うのだ。理央にこうされるようになってから二年が経つ、今になっても。
一度果てた理央からゴムを取り去り、萎えたものに吸い付いた。薄くついた理央の腹筋がちいさく痙攣して、それはすぐさま立ち上がった。
「若いねえ」
撫でながら茶化す。「それしかないんで」と、理央は俺をふたたび組み伏せた。
はじめてこうなったあのときも、アパートの屋根や天井に雨粒が当たっては弾ける音が聞こえていた。終わったあとで、理央が美術大学の一年生であることを知った。
「どうしよう、きみと、きみの親御さんに申し訳が」
「親は関係ないでしょ」
「関係ないってことはないんだなあ未成年の場合は。ああもう、チクショウ」
「未成年じゃないし」
「おん?」
「あなた、勘違いしてるよ。おれ、大学へ入るのに二浪したんです。だから、今年で二十一。酒もタバコもたしなめる」
布団に横たわる理央の右手が、Vサインをした。数字か勝利か、どちらの意味だったのかは教えてくれなかった。その代わりに、彼の指先についた赤や黄色が、おとしそびれた油彩絵の具であることを、俺は知った。美大ってものがどういうところかしらないが、いつか理央は絵描きになるんだろう。
はじめてそうしたころから、理央は優しかった。半年が経っても、一年が経っても優しかった。経験がなかったせいかと考えていたけれど、もっと単純で、そう生まれついたからなのだと思う。だから、話したこともない俺にシャンプーを貸してくれたし、妻を亡くした銭湯の店主に、店を手伝わせてくれなんて言える。恐れなしに、優しさをふりまいて歩く。俺が知る由もない二十年間、理央はきっと、とても愛されて育ったのだ。
「ちゃんと見て」
俺の腰を抑えながら、理央が言う。ちゃんと見てたよ。だから、お前のことばかり考えてる。考えたことは声にならず、喉からひゅーひゅー言う息になって抜けていく。やってらんねえな。理央の前髪を、右手で掻きあげた。意表をつかれたように、理央がいちど、ゆっくりまばたく。本当は、額が出ているほうが好きだった。理央の右手は俺の背にまわりこみ、肩甲骨から背骨をきつく抱いた。
「ね、なかでいって」
あまったれた声に、前髪をぐしゃぐしゃと乱してやった。理央の髪はみどりがかった黒だったけど、陽に透かすと金に近い茶色に見えた。いまもそうだった。ああ、そうか。背後の窓から、日が差し込んでいる。雨が上がったのだ。
両足の間で、理央がせわしなく動いている。吐息が耳にかかって、眉間に皺がよっている。下りた一重まぶたの際(きわ)で、まつげが小刻みに震えている。この表情が好きで、だから額を出している理央が好きだった。しっとりと汗の滲む、きめ細かな二の腕の皮膚に手を這わせて、俺は理央の望むとおりにしてやった。
いつもは腰から脳から広がる淫蕩にぼんやりしているうち、理央が射精しておしまいになる。なのに今日の理央は、やっぱりしつこかった。だらしなくなった俺を扱いて、さらに激しく抜き差しを繰り返した。「いったばかりだから、やめろ」と懇願しても、理央はとまらなかった。理央に抱きつき、背中に爪を立てて、肩口を噛んだ。正直、おそろしくて仕方がなった。こんなふうになっても、理央から感じる一番大きなものは、優しさだったからだ。忘れたふりをするけど、とんでもないことをいくつも言わされて、ようやく理央の動きは止まった。理央はゆっくりと抜け出て、俺の左の脇腹を、音が立つくらいきつく吸った。そんなことを理央にされたのも、はじめてだった。
終わると、理央はタバコを吸った。わかばとかエコーとか、安いやつを、いつもトートバッグに入れている。ついでに携帯灰皿も。理央は窓を開け、膝立ちになって、顔と煙を外に出す。煙を俺にかけたりしないし、火がついたままの吸い殻を、俺の身体に押し付けたりもしない。
「あとになってんじゃん」
布団の上であぐらをかき、左の脇腹をしてそう告げた。
「だめだった?」
重い前髪はまた、理央の表情を隠している。タバコを携帯灰皿に押し付けて、理央は俺に寄った。
「めずらしいことされたと、思っただけだよ」
理央は座ったまま、でかいトートバッグを引き寄せた。理央のトートバッグには、シャンプー、コンディショナー、タオルに石鹸と、タバコと携帯灰皿、スケッチブック、絵筆とそれを洗うちいさなバケツ、それから二十四色の水彩色鉛筆。そんなものが、ぎっしり入っている。その窮屈さが、いつもうらやましかった。理央はそこからコンビニのプラスチック袋にはいったカップ麺ふたつと、500mlの水筒を取り出した。この部屋へ来るとき、理央は二回に一回、コンビニでこれを買ってきて、電気ポットのお湯をわけてもらう。二回にもう一回は俺が買い置くが、湯はいつも理央が持ってきた。この部屋じゃ、湯を沸かせないからだ。
カップ麺に湯を注ぎ、出来上がるまでのあいだに服を着て、ふたりで食べる。湯量の少ないカップ麺は味が濃かった。「雨、止んだね」とか、あたりさわりのないことを、途切れがちに話した。
「これ、ガラス?」
食べ終えたカップ麺の器を座卓に置く拍子、理央はあの角の丸まったガラスの破片に気づいたようだ。
「ああ、そうだった。昨日の現場で拾って、持ってきちまったんだ」
ふうん、と生返事にちかい声で、理央は応えた。こんなゴミをどうするんだと言われそうで、身構えた。天板の上の破片を、骨が目立つ理央の右手が動かす。窓から入り込む日差しに反射して、天井にまだらな光が投影された。その光景に、ひどく安堵した。
「今夜も九時から?」
理央はガラスから手を遠ざけ、スープまで飲み干し空っぽになった器を、俺のぶんともどももとのプラスチック袋に収めた。
「ああ」
「ちょっとは寝てくださいね」
「おまえが寝かせなかったくせに?」
いつもは、そういうと笑ってくれるはずだった。だけど、今日の口を真一文字に結んだまま、表情をくずさなかった。
「どうかしたか?」
理央はトートバッグにプラスチック袋をおさめ、入れ違いに、なにかを取り出した。理央の右手に収まるものは、ハガキほどの大きさだった。俺から見えている側は真っ白だ。いぶかしみ、しげしげと見つめるそれを、理央は勢いよくひっくり返し、自分の側に伏せていた面を俺にむけて差し出した。
そこには、青い空と、海と、白いフェリーボートが描かれていた。小学生の頃に描いた絵に色の滲みが似ていた。横浜の絵だと直感した。
「おまえが描いたの?」
理央は頷く。なぜだかわからないまま、一秒ごとに鼓動が速まる。
「あげます、あなたに」
「どうして」
「航さん、好きでしょう?」
胸が弾んだ。わたる、と、名前で誰かに呼ばれたのは、いつ以来だろう。
「名前、知ってたの?」
「最初に名乗ってたよ。こういうときに、呼ぶ名前がないと不便だからって」
そうだった。だから俺は、理央の名前を知っている。
「海と船は」
「それも言ってた。覚えてるんです、おれ。あんたが言ったことを忘れても、そういうことは、ぜんぶ」
めずらしく、理央は早口だった。俺は、ポストカードを受け取った。そうする以外になかった。
「でも、どうして」
おなじふうに、もういちど問いかけた。今度は、どうして絵なんかくれるんだと、そういう意味で。理央はうつむき、小さく首を振った。
「おれ、就職するから」
就職、と、俺はおうむ返しにした。
「絵描きになるんじゃないのか?」
「おれ、才能ないから」
手元のポストカードをみつめた。透き通る青に、白い船体映えて、わずかに見える水面が光っている。きらきら、いつかの海みたいに。掴めそうで、厚紙のきらめきを指でなぞった。
「俺は好きだよ」
理央の口角が、ようやくわずかに持ち上がる。
「ありがとう。でも、二浪したときには気づいてたんです。おれは、自分の絵じゃ食べていけない。この二年間、そんなこと認めたくなくて、将来のこと、考えたくなくて。親とは折り合い悪くなっちゃったけど。でも、もう認めないといけない。才能で食べていけないなら、別の方法を探さないといけない」
「だから、就職するのか?」
「うん。デザイン会社とか、アニメの背景画とか」
「そうか」
理央が絵を描く職業を羅列したことに、幾ばくか安堵した。
「それで、おれ、引っ越したんです。一ヶ月くらい前。新宿にちかくて、こんどは、風呂のあるところ」
その言葉で、俺は俯いた。
「番台には、これからも立ちます。でも、その日に、あんた来ないでしょ?俺が立つ日に、航さん、来ないでしょう?」
だから、と理央が続ける。その先を聞きたくなかった。左手で、理央の前髪を掻き上げた。薄い眉と、一重のまぶたが持ち上がって、長い睫毛がゆっくりまばたく。目尻がすこし、赤かった。
「わらえ」
睨みつけながら、俺は言う。
「できない」
理央の唇が、ちいさく、早く動いた。
「いいから。わらってくれ。理央」
理央はしばらく、唇をもごもごと動かして、それからまぶたを閉じた。ふう、と大きく息を吐く。
「おれの名前、覚えてたんだ」
そうしてようやく、目を開けて、理央は笑った。
航さん、はじめて会ったとき、おれのシャンプー受け取ってくれたでしょ?大学に入った頃、見ず知らずだけどハンカチ忘れたようなひとに、つかう?って差し出したら、変な顔されて。銭湯でも、航さん以外の何人かにそういうことしました。でも、みんな変な顔をして、いちどはひどく怒られた。おれ、変なのかなって思ってた。でも、航さんが受け取ってくれて、うれしかったんです。これでいいんだって、思えた。美大生だっていっても、絵のひとつもねだられなかったね。だから、それあげます。ありがとう。ときどきは食べて、ちゃんと寝てくださいね。
ちいさな窓から、赤く染まりはじめた空が見える。寝ろと言われたが、眠れるわけないだろバーカと、二時間前まで部屋にいたやつに内心毒づく。何度も寝返りをうち、そのうちに脱水槽にいれたままの仕事着を思い出して、ため息を吐いた。
もうすこし、胸を張れる人生を送れていたらよかったのだろうか。それとも、もうすこし俺が若ければよかったのだろうか。そうすれば、あの子の優しさに、素直に身をまかせていられたのだろうか。フェリーボートに揺られる、あのときみたいに。
どうしていたら良かったのか、わからない。どうなりたかったのかを、俺はわかっていなかった。
今ばかりは雨の夜を望むけど、叶いそうもない。
座卓の上の、角が丸くなったガラスは日光を反射して、天井を照らしている。となりに、絵の描かれたポストカードがある。俺を取り囲むものは、いま、すべてがきらきら光っている。
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