第1話 笑美恵美子はとっても不幸

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第1話 笑美恵美子はとっても不幸

「待って……。待ってください! 私のお財布を返してぇぇぇ!」  ()()恵美子(えみこ)は、銀座の街を疾走していた。  明治三十九年(一九〇六)生まれ。花も恥じらうお年頃の十八歳。道行く人の十人中八人はハッと振り返るほど可憐な少女である。十五歳の秋まで通っていた名古屋の女学校では「お姉様になって欲しい美人の先輩ナンバー1」として後輩の女学生たちにきゃあきゃあ騒がれていた。  そんな美少女が、今、着物の(えり)が乱れているのも気にせず、全力疾走していた。薔薇の花のように美しい顔を激しく歪めて――というか鬼のような形相で――暴走した荒馬のごとき勢いで走っている。人力車を追いぬかし、尾張町の交差点で危うく円太郎バスに()かれかけ、「こらー! 急に飛び出すなー!」と交通整理をしているお巡りさんに怒鳴られても、恵美子は止まらない。  通行人たちは、謎の疾走美少女に驚き、十人中十人が振り返っていた。よく見ると、彼女はいがぐり頭の大男を追いかけている。どうやら、スリに財布を盗まれたらしい。 「泥棒さん、私の全財産を返してくださぁーい! ……ああ、もう。故郷を出奔して憧れの東京にやって来た矢先にスリに遭うなんて、やっぱり私は三国一の不幸者だわ!」  そう、恵美子は家出娘である。聞くも涙、話すのも涙な、とっても不幸な経験を経て、我が人生を悲観して故郷を飛び出して来た。憧れの東京で胃袋が破けるほど飲み食いし、さんざん遊び尽くした後、糞ったれなこの世とおさらばしてしまおう。そういう腹積もりだった。  ところが、人生はやっぱり糞である。そんな自殺志願の少女の計画は、一人のスリのせいで(もろ)くも崩れ去った。  銀座一丁目の蓄音機(ちくおんき)屋で蓄音機から流れてくる『ゴンドラの唄』をぼへーっと聴いていた恵美子は、人相の悪い男にドンとぶつかられたのである。普通の女の子だったら恐がって何も文句を言えないだろうが、恵美子は違う。大人しそうな見た目に反して、めっぽう男勝りな性格。尋常小学校に通っていた頃は、男の子たちの喧嘩に混ざってガキ大将を泣かせ、鉄砲玉娘と呼ばれていた。 「痛いではないですか。謝ってください!」  恵美子が遠くまで響く大声で抗議すると、そのいがぐり頭の男は女に生意気な口を利かれたというのに何も言い返さず、脱兎のごとく走り出した。  もしや! と思って(ふところ)を探ると、案の定、財布がない。 「ええい、してやられた!」  恵美子は、江戸時代生まれの祖父みたいな口調で叫び、いがぐり頭を追いかけ始めたのであった。
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