Bring Me The Horizon―3

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Bring Me The Horizon―3

(くだん)のモーテルはすぐに見つかった。『デヴィルズ・モーテル』と書かれた看板は、長年の雨風に侵食されてすっかり色あせており、お世辞にも歓迎ムードとは言い難い雰囲気を醸し出していた。エントランスにはカビと埃の匂いが立ち込め、下品な赤褐色をしたフローリングは歩を進めるたびに、みしみしと(けん)(のん)な音を立てた。 俺たちはチェックインを済ませると、それぞれの部屋へ向かった。俺の部屋は北側にあって、ジェニファーの部屋とは真逆に位置していた。別れ際に何か声をかけようとしたけれど、言葉が喉の奥でつっかえたので結局なにも言わなかった。いや、言えなかった。本当は『行き先』について、彼女を問いただしたかったのに、今の俺にはその勇気がなかったのだ。俺は次第に遠のいていく彼女の背中を、ただじっと、見つめるほかなかった。 俺はシャワーを浴びてバスローブに着替え、あてもなくテレビをつけた。韓国製のちっぽけなテレビ画面に、往年の映画が映し出された。モノトーンのザラザラとした映像を眺めながら、俺はジェニファーのことを考えた。彼女と、彼女の「行き先」のことを。その時、ふと電話が鳴った。受話器を耳に押し当てると、しばらく沈黙が続いた後に女のむせび泣く声が聴こえてきた。 「ジェニファー、あんたなのか?」 俺は、おそるおそる口火を切った。だが、受話器の向こう側からは、すすり泣く声しか聴こえてこなかった。俺は苛立ちを紛らわせようと、受話器のコードを何重にも指に巻きつけた。暗褐色の指に絡まる白いコードは、まるでアスファルトに刻まれた白線のようだった。指先に痺れを感じ始めた頃、ようやく沈黙が破られた。 「…行き先についてなんだけど……」 泣き(かす)れた喉から絞り出すようにして、ジェニファーは言った。彼女が弱っているところに付け込むのは少々気が(とが)めたけれど、今なら言えるような気がした。ずっと目を逸してきた何か――彼女の(しん)(えん)に横たわる、触れてはならない真実に。 「あんた、死にたいんだろ?」 彼女の(ろう)(ばい)する様子が、受話器越しに伝わった。 「何があったのか知らないが、死んじゃダメだ。俺たちは生まれる時はひとつの入り口からこの世界に入るけど、退場する出口は選べるんだ。ほら、シェイクスピアも言ってたろ? この世はすべて舞台だってな。与えられた役を必死に演じて、それから退場すればいい。あんたはまだ、舞台の端にいるだけなんだ、きっと」 思考よりも感情が先走って、俺の口から言葉が押し出された。 「あんたに何が分かるっていうのよ…… 私なんて、(しよ)(せん)はカンザスの片田舎に転がってるのがお似合いの(いも)(おんな)。ちょっと演技の才能があるとか何とか(おだ)てられて、ニューヨークに出てきたお(のぼ)りさん。地元の同級生たちは大学を卒業して手に職を得てるってのに、私はいまだに場末のダイナーで(くすぶ)ってる(らく)()(もの)。こんな仕打ちってあると思う? 一六の時は尻軽女(ビツチ)だった地元の友人が、今や二児の母親ですって? ふざけんじゃないわよ! 誰も私のことなんか見向きもしないんだから。たかが女一匹、死んだくらいで――」 怒声に混じって、どすどすと歩き回る音が聴こえてきた。俺は自販機で買ったハイネケンを飲み干して、 「あんたには夢がある。なぁ、そうなんだろ? 舞台役者として成功する夢が」 「夢じゃないわ。目標よ」 はねつけるように、彼女は言った。 「俺にだって夢はあるさ。時折、魔が差して今の職を一生続けていこうかって思うこともある。でもな、その(たび)にバスキアの絵を見て、なんとか踏みとどまるんだ。その繰り返しさ、人生なんて。だけど、俺は絶対にプロの絵描きになってみせる。そう信じていれば、いつかは現実になると思うんだ」 自分の夢を赤の他人に打ち明けたのは、これが初めてだった。気がつくと、飲み干した空き缶を握り潰していた。首筋にうっすらと汗が滲んだ。 「デボラと同じね。負け犬の遠吠えだわ」 「デボラってのは、あんたの友達なのか?」 「ルームメイトの一人よ。モラトリアムをこじらせた大学生と、写真家希望のパリジェンヌ。一方は生きることに匙を投げだして、もう片方は自分で描いた夢に愛想を尽かしてる」 自分の中で基盤となっている、その揺るぎない信条を、他人に踏みつけられるのがこんなにも苦しいことなのだと、俺はこの時初めて知った。自分の夢を踏み(にじ)られるというのは、取りも直さず、その人自身を否定するのと同義だった。 「それも一つの生き方なんじゃないのか? なにも、あんたの生き方を押し付ける筋はないと思うぜ」 気落ちした様子を悟られないように、あえて俺は強い語調で言った。 「どうして夢を諦めるのかって訊ねたら、彼女なんて答えたと思う?」 世界を見下すような(あざけ)りを浮かべて、彼女は言った。 「『だってほら、写真なんて今どき誰もが撮ってるでしょ? 街中を見渡せば、いたるところでシャッターが切られてる。いまこうしている間にもネット上には膨大なデータの写真がアップロードされているわ。どれだけ鋭敏な感性でもって現実を切り取ったって、SNSでもてはやされるのはバカげた素人臭い猫の写真なの。これが今どきってやつなのよ、ジェニー』とかのたまうんだから、笑っちゃうよね。結局のところ、それっぽい言い訳をひねり出して、逃げてるだけじゃないの」 ありったけの侮蔑をもって、彼女はデボラを熱演した。デフォルメされたパリジェンヌは、さながらギリシャ喜劇の道化といった印象を与えた。これから押し寄せるであろう自己嫌悪に備えて、俺はタバコに火をつけた。タールとニコチンで自らを傷つけるのが、自分自身へのせめてもの慰めであるかのように。 「一日十二時間働いて家に帰ってからが俺の本番だ。疲れた身体にカフェインを注入してアトリエに向かう。狭いワンルームの一室、IKEAで買った安いカーペットの向こう側、そこが俺のささやかな工房なんだ。眠気眼をこすりながら、疲労がたまった腕に発破をかけながら、筆先に神経を集中させる。だけど、気がつけば気絶したように眠りに落ちてるんだ。指先から力が抜け落ちて、くすんだフローリングに絵筆が転がる。これが俺の日常さ」 俺はゆっくりと煙を吐き出して、タバコを挟んだ右手を見つめた。ごつごつとした大きなそれは、芸術家にはほど遠い労働者の手だった。受話器の向こう側で軽やかなジッポーの点火音が響き渡る。彼女の吐息が俺の鼓膜をくすぐった。「それで?」と、彼女が先を促す。 「睡眠時間を極力削ろうとした。見栄を張って、アラームを四時間後にセットするんだ。でも、朝に弱い俺がそんな時間に起きられるはずもなく、目を覚ますのは朝礼が始まる十分前が常だった。こんな生活を十年以上も続けてるんだ、俺は。だけどな、世間は俺の方なんて見向きもしない。まるで最初から存在してなかったかのようにな。で、気になって合衆国の社会保障番号を調べてみると、そこには確かに俺の名が記されている。なぁ、俺は一体何者なんだ、ジェニー? 俺の居場所はどこにあるんだ?」 気がつくと、火照(ほて)った頬を涙が滑り落ちていた。これまで狭いキャブの車内でじっと抱え込んでいた(おう)(のう)が、(せき)を切ったようにあふれ出した。圧壊していくダムのように、一度噴き出したが最後、それを止めることはできなかった。ジェニファーはしばらく押し黙っていた。しみったれた部屋の中に、コメディ番組の笑い声が響き渡った。お互いが、相手の動向を(うかが)いながら、次に発する適切な言葉を探していた。やがて受話器から何かをまさぐる音が聞こえ、紙を引っ張るぐしゃぐしゃという音がそれに続いた。 「明日の朝、広場で大学の催し物があるみたい」 取って付けた様な口吻で、彼女が言った。 「ねぇ、面白そうだから行ってみない?」 「そうだな、学生時代に戻るってのもたまには乙なもんだな」 そう言って、俺たちは電話を切った。再び静まりかえった部屋の外では、いつの間にやら雨が降り出していた。山間から吹き抜ける冷たい風が、汚れた窓をガタガタと震わせた。朝には雪景色が拝めるだろう。(しよう)(ぜん)と降りしきる雨音を聞きながら、俺は枕に顔を埋めて泣き叫んだ。
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