Bring Me The Horizon―1

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Bring Me The Horizon―1

タクシードライバーにとって、雨の日はまさしく天の恵みだった。定時に退社したホワイトカラーの連中は、バーで一杯ひっかけるのを潔く諦めて帰宅の途につく。お気に入りの革靴が雨に濡れないように気をつけながら。だが、あの日は一向に客が捕まらなかった。数日前に郊外で起きた銃乱射事件の影響かもしれない。ホワイトカラーの連中は、こういった類の事件に敏感だからな。営業所長の話によれば、9・11の起きた年は過去最低の売上を記録したらしい。まぁ、あのタヌキおやじの言い分を信じればの話だが。 暇を持て余した俺は、気怠げに弧を描くワイパー越しに、道行く人々を呆然と眺めていた。ニューヨーカーはみんな慌ただしく歩く。他人を気にかける余裕など持ち合わせていない。みんな、自分のことで頭がいっぱいなのだ。スマートフォンを耳に押し当てて、得意先に電話するスーツ姿の男。毎朝鏡の前で練習しているであろう「自然な」笑顔を浮かべながら、電話越しに愛想を振りまく。『ヴォーグ』の表紙から抜け出してきたような、ファンシーな衣装の女性。肩からさげた巨大な紙袋――中央にはエンボス加工されたブランドのロゴが入っている――は、人混みの中にあって一際(ひときわ)存在感を放つ。まさに歩く広告塔といったところ。 彼女の後ろには、ブラックベリーに何かを打ち込む肥満体型の男が、じっと画面を見つめたまま歩いている。太い指で懸命に物理キーボードを操作する様子はどこか滑稽で、昨晩観たテレビのコメディアンを連想させた。信号が黄色から赤に変わって、ファンシーな彼女が立ち止まった。俺が気付いた時には、(すで)にブラックベリー野郎が彼女の背中に頭突きを見舞っていた。 彼女が俺のキャブに乗り込んできたのは、そんな暇な日――つまり、前日からそぼ降る雨に俺がうんざりしていた金曜日の晩だった。 「こんばんは、お嬢さん。しつこい雨ですね。で、どちらまで?」 五時間一言も発しなかった反動で、俺は息つく暇もなくまくしたてた。忙しなく言葉を浴びせる俺に対抗するかのように、彼女はタバコ三服分の間を置いて、掠れた声で答えた。 「天国(Heaven)経由で地獄(Hell)まで行ってちょうだい」 スターバックスでコーヒーを注文するかのごとく、(よど)みなく発せられた彼女の言葉に、俺はどう返答したものか考えあぐねた。そんな俺の心境を見透かしたかのように、傾いだバックミラー越しに彼女が俺を睨めつけた。 「車出して、早く」 苛立ちの混じった彼女の口調に()かされた俺は、どこへ行くあてもないままにアクセルを踏み込んだ。 「で、どこへ向かったらいいんだ、お嬢さん?」 おそるおそる切り出した俺の質問など聴こえないかのように、彼女はふてぶてしく車窓を眺めている。赤信号で停車する度に、この空疎なやり取りが交わされた――今ので三度目だった。ラジオから流れるサックスの音色だけが、俺の心をかろうじて現実に引き止めていた。ワイパーの擦過音とサックスの音色がジャム・セッションを繰り広げる。気がつくと、俺の足はリズムを刻んでいた。ようやくグルーヴを感じ始めた頃、ジッポライターの金属音が俺たちのジャムに加わった。 「この車は禁煙なんだがな、お嬢さん」 控えめな俺の嘆願は、ゆっくりと彼女が吐き出した紫煙のように、あてもなく空を漂った。相変わらずだんまりを決め込む彼女に、せめてもの抵抗を試みた俺は、後部座席の窓を目いっぱい開けてやった。細かい雨滴(あましずく)が、彼女の(あお)いドレスにいくつもの染みをつくった。予想外の仕打ちに驚いた彼女は、またしてもバックミラー越しに鋭い視線を投げかけた。 「どうだ、話す気になったか?」 「ラジオ、変えてくれない?」 スイッチを押して窓を元に戻しながら、彼女が言った。 「ウィントン・マルサリスはお気に召さないと?」 俺はやや挑発的に、語尾を必要以上に高く発音した。 「何でもいいから、とにかく変えてちょうだい」 かくして、俺たちのささやかなジャム・セッションは終わりを迎えた。一日の大半をジャズと共に過ごす俺にとって、それはあまりにも酷な仕打ちだった。不本意ながらラジオをニュースチャンネルを変える。ニュースから流れてくるのはホワイトハウスの動向やら株式市場の下落、銃乱射事件などなど。どれもこれも気が滅入るものばかりだった。今まで軽快に原稿を読み上げていたキャスターが言葉を詰まらせた。 ……おっと、失礼。たった今入った情報によると、マンハッタンの銀行に複数の男が押し入り、現金を強奪した模様。犯行グループは、目下5番街を猛スピードで逃走しており、さきほどNYPD――ニューヨーク市警――が追跡を開始したと…… GPSが示す地図で現在地を確認するよりも早く、俺はアクセルを踏み込んでいた。トヨタ・カムリハイブリッドのエンジンが、唸り声をあげる。前を走行するライムグリーンキャブを追い越して、75番通りを猛スピードで駆け抜ける。車体が大きく左右に揺れ、後部座席に座っていた彼女が小さく叫んだ。 「ちょっと、何しようっていうのよ」 「決まってるだろ。ニューヨークで、しかも今どき銀行強盗なんてしでかす連中のご尊顔を拝みに行くのさ」 興奮した声で俺は答えた。 「あんた、正気――Are you CRAZY――?」 そう返す彼女の声にも、遊園地に向かう子供のような浮足立った感じが滲み出ていた。それから間もなくして、件の逃走車が視界に入った。赤信号を突っ切って、(ぬれ)()(いろ)のBMWの背後に滑り込む。 「どうするつもり?」と彼女が訊ねた。 先程までの不貞腐れた様子と打って変わって、彼女は後部座席から身を乗り出した。 「次の信号で横に張り付いてやる」 だが、次の信号を通過しようとしたその時、幾重にも共鳴したサイレンが背後から迫ってきた。ハンドルを握る俺の手に、粘っこい汗がじわっと広がる。三叉路に差し掛かったところで、逃走車は右へ、俺たちは左へそれぞれ分かれた。五台のパトカーがBMWを追って三叉路を右へ直進したが、後からやってきた1一台がこちらへ向かってくる。 「まずい(Hollyshit)!!」 5番街をミッドタウンに向かって南下する。時速七〇マイルで猛進するマンハッタンは、いつもの風景と違って見えた。 「そこを右に曲がって! その次をさらに左へ!」 彼女が命じるままに、俺はステアリングを切った。タイヤのグリップ性能が限界に達し、甲高い悲鳴をあげる。細い路地を抜けると、ハドソン川が視界に広がった。 「ポリ公はどうなった?」 「もう大丈夫みたい」と、彼女が答えた。 俺は額の汗を(ぬぐ)いながら、ほっと胸を撫で下ろした。後ろをふり返って、アクリル製の防護板越しに彼女の様子を伺う。彼女の澄んだ蒼い瞳が、じっと俺を見据えた。俺たちは同時に(そう)(ごう)を崩し、大声で笑い合った。どうして可笑しいのか分からなかったけど、とにかく笑いたかった。目尻に皺を描き、白い歯を見せて笑う彼女は、とびきり美しかった。
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