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Bring Me The Horizon―2
キャブがマンハッタンを離れて、八〇号線に入った頃には彼女をジェニファーと呼ぶほどに、俺たちは打ち解け合っていた。道の両側には木々が生い茂り、窓の外には果てしない暗闇が広がっている。アスファルトに反射した街の明かりや、酔っぱらいの喚き声はどこにも見当たらなかった。不夜城とは無縁の静寂が、俺たちを包み込んだ。道中で買ったハンバーガーを貪りながら、俺はジェニファーに訊ねた。目的地に言及するのは避けて、無難な話題を選んだ。
「で、仕事のほうはどうなんだ? 何かトラブルでもあったのか?」
彼女はカンザスの田舎町からブロードウェイを夢見て上京してきた。希望と野心を胸に抱き、僅かな貯金を崩してニューヨークにやってきた典型的なアメリカン・ドリーマーというわけだ。上京してから今年で三年目になる彼女は、毎晩ダイニングの小さなステージで歌を唄い、合間を縫ってオーディションを受けている。と、ここまでは八ドルのハンバーガーセットと引き換えに聞き出した話だ。
「べつに…… ただ、突然すべてが嫌になったのよ」
Mサイズのダイエットコークを飲みながら、彼女は答えた。
「どうしてだ? オーディションになかなか通らないからか?」
「それもあるけど、それだけじゃないの。複雑なのよ」
そう言って彼女は足元をじっと見つめた。窓から差し込む月明かりが、金色に輝く彼女の髪にやさしく降り注ぐ。うなだれた頭頂部で柔らかく反射した月明かりは、憂愁に沈む彼女を慰めているかのように見えた。
「まぁ、詳しい事情は知らんが、あんたほどの器量よしなら役なんてすぐ貰えそうに思えるけどな」
落ち込んだ女に何と言葉をかければいいのか、俺の尊敬するバスキアは教えてくれなかった。これが俺の、精一杯の慰めの言葉だった。極力ジェニファーを傷つけないよう、慎重に言葉を選んだつもりだったのだが、どうやらこれが逆効果だったらしい。
「人を見かけだけで判断しないでくれる? 容姿だけで役が貰えるなら、断食だろうが整形だろうが、何だってしてやるわよ!」
傲然とそう言い放った彼女は、おもむろに窓を開けて飲みかけのダイエットコークを外へ放り投げた。車内には再び気まずい沈黙が訪れた。前方に伸びるヘッドライトを見つめながら、俺は全身をちくちくと突き刺す沈黙にじっと耐えるしかなかった。どこまでも続く州高速道路八〇号線は、感傷に浸るには十分すぎるほど静謐だった。微かに開けた窓から、夜のひんやりとした風が入り込んで、俺の頬を撫でつけていく。その時、ふと気がついた。ジェニファーは死を望んでいること。そして、彼女は俺と同類だということに。
あてもなくキャブを走らせること二時間、俺たちは本当に地獄に着いた。時おり小さな街を横切って、再び山の中に入る。三回ほどこれを繰り返した頃には、俺の疲労はピークに達していた。そろそろ一息入れたいと思っていた矢先に、『ロックヘヴン』の道標を見出したのだ。ロックヘブンは、細い川に両側を挟まれた小さな街だった。街の入口には手書き風の字体で『ペンシルベニア州 ロックヘブン』と書かれた看板が麗々しく飾られていた。
エンジンをバッテリー駆動に切り替えて、寝静まった住宅街をゆっくりと進む。家の前には手入れの行き届いた芝があり、ガレージには最新式のハイブリッド車が鎮座している。どの家もカーテンはぴっちりと閉まっていて、夜更かしの明かりは見当たらなかった。絵に描いたような、教科書的で平均的なアメリカの住宅街だった。街の中心部に差し掛かると、ようやく雑貨屋やレストランなどの商業施設が姿を現した。スピードメーターのデジタル時計は午前2時を示していた。周囲に目を凝らしながら徐行運転で車を進めていくと、群青色のネオンサインを見つけた。八〇年代の映画に出てきそうな、そこはかとない郷愁を感じる酒場だった。駐車スペースにキャブを停めて後部座席を開けると、眠気眼をこすりながらジェニファーが降車した。
真鍮の取っ手を回して店内に足を踏み入れると、そこには古き良き時代の残り香が漂っていた。店内には酔いつぶれた老人が一人いただけで、他に客はいなかった。年季の入ったスツールに腰掛けて、磨き込まれたカウンターに体重を預ける。足元には真鍮の足置きが設えてあって、ジェニファーのハイヒールがその艷やかな表面に容赦なく傷を刻んだ。俺たちはビールを注文し、一息に半パイントを飲み干した。乾いた喉にホップの苦味が染み渡る。ジェニファーがタバコに火をつけて、俺にも一本勧めてくる。俺たちは黙ったまま煙をふかした。最初は煩わしく思えた沈黙も、今となってはなかなかに心地よい時間だった。
ジェニファーが俺の肘をつついて、壁にかかったテレビを指さした。テレビのニュース番組では、先刻の逃走劇が繰り返し流れていた。O・J・シンプソンばりのカーチェイスは、お茶の間に格好の話題を提供したのだ。VFXによる偽物の逃走劇ではなく、現実を切り取った決死の逃避行の方が世間は興奮する。かつてローマ帝国でコロッセオというブルータルな娯楽が、大衆を熱狂させたのと同じ理屈だった。
「表のイエローキャブ、あんたのかい?」
おそらくこの店の主であろう中年の男性が、カウンターの中から訊ねた。手入れの行き届いた髭を蓄え、シャツの袖からは禍々しいタトゥーを覗かせている。この店の雰囲気にぴったりの店主だと、俺は思った。
「そうだけど、不都合だってんなら裏に回そうか?」
丁寧に切り出したのが功を奏したのか、店主はかぶりを振った。
「べつに構いやしないんだけどね、ニューヨークのタクシーがこんな辺境までやって来るとは珍しいもんだと思ってね」
「どうしてニューヨークのタクシーだと?」
「そりゃあんた、ここいら辺のキャブはみんなフォードのクラウン・ヴィクトリアだからだよ」
よそ者に街を案内する口調で、店主は言った。なるほど、日本車のキャブはこの街の日常をかき乱す異物といったところか。調和を乱す闖入者に対して敏感に反応する、いかにもアメリカの片田舎らしい感覚だなと俺は思った。
「この辺にふかふかのベッドと美味しいサンドイッチにありつけるところはある?」
気怠げに煙を吐き出しながら、ジェニファーが言った。
「二ブロック先にモーテルがある。寝心地は保証しかねるがな」
ぶっきらぼうにそう言い放つと、店主はおもむろにテレビのチャンネルを変えた。まるでそれが合図だったかのように、俺たちはしわくちゃになったドル紙幣をカウンターに置いて店を後にした。
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