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『厄神』達の言う事にゃ
両国橋の袂、両国広小路といえば、昼は見世物小屋に水茶屋と江戸一番の盛り場に相応しく、人と店がごった返す賑やかさだが。
夜とて、夜鷹達がゴザを片手に客を引っ掛け、麦湯屋や八卦見が提灯を揺らして店を開いている。
それでも暮れ八つともなれば、どこもとっくに店仕舞を終えている時刻。
しかしそんな時間にもぽつりと一つ、静寂から取り残された店があった。
ゆらり、ゆらりと灯る提灯の明かりの中、市松模様の屋根、屋台の側面には『二八蕎麦』の文字、長椅子が屋台の前と一歩離れた場所にそれぞれ一つづつ。
『夜鷹蕎麦』。深夜まで営業する蕎麦屋台である。
この夜鷹蕎麦、店主は鬢に白髪の混じった還暦間近な男で、大体黄昏時から店を開く。閉まるのも遅いなら開けるのも遅い。そんなの蕎麦屋を訝しみ、理由を問う者もいて・・・。
店主曰く、「待っているのですよ」。
――草木も眠る丑三つ時まで待つ相手なんざ、この世の者じゃあるめぇ。
或いは、店主本人が妖物の類やもしれん…と、口さがない者は噂話をひそひそと。
しかし店主がそれを気にした様子は無い。
その日の晩も周りが店仕舞に入る中、件の夜鷹蕎麦だけは提灯の明かりを揺らしながら、たった一軒店を開いていた。
そうして月が大分傾いて、虫も鳴かぬ刻頃。流石の店主も店仕舞を始めようとして、店表から覗き込む顔に気づいた。
「おや、いらっしゃい」
店主は片付けようとしていた七輪を置いて、声をかける。
身なりも年齢もバラバラな三人組が、揃ってしかめっ面で立っている。立派な法衣を纏った壮年の坊主、真っ赤な振袖が艶やかな娘、物乞いのような襤褸姿の老人。
口を開いたのは、壮年の坊主だった。
「店主、邪魔するぞ」
坊主がじゃらじゃらと小銭を屋台の上に置いた。蕎麦の値段分、転がってばらける。
「まぁ、荒っぽい。やはり貴方こそ、この世一の嫌われ者だわ」
「うるせぇぞ、『疱瘡神』。てめぇの代金はてめぇで払って貰ってもいいんだが?」
「天下の『死神』がケチな事。『貧乏神』に転神されてはいかが――ねぇ?」
「あの、その、できましたらば…わたしの代金だけはお支払い頂きたく。なにせこの『貧乏神』、金銭にはとんと縁が無く」
なかなか姦しい客達である。しかし互いを呼ぶ名のなんと物騒な事か。
『死神』、『疱瘡神』、『貧乏神』ときたものだ。店主はぱちぱちと何度も目を瞬かせて三人を見る。そのおっかなびっくりした顔に、一早く気付いた坊主姿の『死神』が他の三人を片手で制して、えへん、おほんと胸を反らせた。
「人間よ、我らを前にして慄くのは無理もなし。しかして案ずるな。いかな厄神の我らとて、むやみに力を行使するわけでは無い」
不遜に言い放って、またえへん、おほん。
その隣で、赤い振袖姿の『疱瘡神』が口元を袖で覆いながら「いやねぇ」と老人姿の『貧乏神』に囁いた。
そうして『疱瘡神』は、店主に向かって美しく微笑む。
「蕎麦屋のおじ様、驚かせて御免なさいね。私達ここ最近ずっとある事に難儀していて、今はお仕事どころじゃないの」
「はい、あの、その通りで。
どうぞご安心下さい。少なくともお蕎麦を食べるまで、このお店を貧乏にしたりはしませんです」
『死神』と『疱瘡神』が『貧乏神』の頭と背中をそれぞれはたいた。
「とにかく蕎麦を三人分頼まぁ。
こちとらその難儀事に頭使いすぎて、ちと一息入れようってとこなのよ」
目を白黒させていた店主は、『死神』の言葉に慌てて「賜りました」と準備を始める。三人の厄神達は屋台の前の長椅子に腰かけた。
店主は丼ぶりに麺を落とし、七輪で温めた出汁を流し入れる。そうして三人の前に並べてやれば、白い湯気と漂う醤油の香りに、厄神達の顔が揃って緩む。
と、『貧乏神』が彼の丼ぶりに添えられた小皿を見て喜声を上げた。
「おやっ!これは、味噌。焼き味噌ですなっ!!」
「む?」
「あら」
『貧乏神』は皿を眼前に掲げて今にも小躍りしそうな様。しかし『死神』と『疱瘡神』の前には小皿が無い。
「やれ嬉し、わたしは味噌に目が無くて!」
「無さ過ぎて、一緒に川へ流されちゃうくらいですものねぇ」
「本望ですっ」
『貧乏神』はどこからともなく団扇を取り出すと、ぱたぱたと皿の上を仰いで、味噌の匂いを嗅いでいる。『貧乏神』の喜び様に、店主は気恥ずかしそうに鼻を掻いた。
「『貧乏神』様は、味噌がお好きだと聞いた事がありまして」
「いやまさに。大阪に行けば毎月店々が味噌を焼いてくれるのです。
しかし喜び勇んで味噌に取り憑きましたらば、そのまま川に流されてしまって。いえ、そういうお祭りがあるのです。
そのまま江戸に流れ着くのですが、此方ではその様な催しは無い様子。また大阪に戻るまで、味噌はお預け…しかし、いや嬉し」
「喜んで頂けたのなら、幸いです」
店主の横顔をまじまじと眺めていた『死神』が、「ふうむ」と唸った。
「店主、貴様は神々に詳しいのか?」
「いえ、お恥ずかしながら人並みで」
「しかし、『貧乏神』の嗜好は知っておったな。ならば多少の知識はあるのだろう」
店主ははにかんで、答えなかった。そして『死神』はそんな店主の態度を意に介さない。
「よし、店主よ。貴様に我らがここ最近頭を悩ませている難儀事を解決する名誉をくれてやる」
屋台脇にぶら下がった提灯を突っついていた『疱瘡神』が、驚いて『死神』の方を向く。『貧乏神』は味噌に夢中になっていたが、ちろりと上目遣いに店主を見やった。えへん、と『死神』は大仰な咳払い。
「聞け、店主。
我は『死神』、右が『貧乏神』、左は『疱瘡神』。
貴様も一度は聞いた事があろう、名高き厄神よ。この国の者なら誰もが恐れ慄く神であろうな。
同時に、貴様ら人間達から長く嫌われ、厭われ続けた神でもある。
うむ、それは仕方がなかろう。我らが性である――在り方である。
しかして我らは思う。
嫌われるのは仕方がない、さりとて“一番”嫌われているのは『自分』ではない」
「…はあ」
店主は戸惑いながら返事をして、そうして三人の神々を順番に見回した。店主に集中する三対の視線は、異様なまでにぎらぎらとして、痛い。
『疱瘡神』が声だけ甘やかに語る。
「ごめんなさいね、おじ様。確かに私は嫌われ者だわ。でも『貧乏神』よりはマシだと思わない?
だって『貧乏神』はこのお店を傾けてしまえるのよ?」
すると『貧乏神』はぶんぶんと頭を振った。
「いや、そのぉ。それでもわたしは命までは取りませんです。『死神』の方がよっぽど嫌われているのでは?」
そんな二人をせせら笑ったのが『死神』である。
「片腹痛いわ。人間が死を迎えるのはこの世の道理よ。
理に従う我よりも、自ら厄を生み出す貴様らの方が、余程嫌われ者であろう」
互いに睨み合って、お前はああだ、私はこうだ、と三人とも全く譲る気配が無い。店主は「まあまあ」と何とか彼等を宥める。
「見ての通りだ、店主。我らだけで話し合っても埒があかぬ。
故に、我らの中で誰が一番の嫌われ者か見極めて貰おうというのだ」
店主の顔にずずいっと、『死神』が己のそれを寄せる。
「無論、ただでとは言わぬ。もし我以外が嫌われ者だとちゃんと見極めたならば、お前の寿命をあと十年延ばしてやろう」
「あら、それは卑怯よ。ねえおじ様、私以外が嫌われ者だと見抜いて下さったなら、私、おじ様の周りでは仕事をしないと誓うわ」
「あの、その。わたしが一番の嫌われ者でないと言って頂けましたなら、ほんの少しばかり恵みを与えますです、はい」
『死神』に続いて、『疱瘡神』と『貧乏神』も屋台から身を乗り出してくる。
にやり、とその顔が揃って歪んだ。
「因みに、もし断ればこの世全ての厄がお前に降りかかると思え?」
『死神』が理不尽に言い放つ。
店主は一端三人から目を逸らした。視線の先には、ゆたりゆたりと屋台の提灯が揺れている。屋台の左右に二つ。それぞれ表面に魚と猫が描かれた真っ赤な和紙の見事な提灯である。
そうして改めて厄神達に視線を戻すと、「よござんしょ」と店主は頷いた。
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