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 目的の駅の名前が車内アナウンスで流れるのを聞き、綾子は大きく息を吐き出した。ようやくこの息苦しい空間から抜け出せる。  綾子は朝の通勤ラッシュが嫌いだった。加齢臭や二日酔いの口臭を放出するおっさんにプレスされるのは、この世の地獄と言えるだろう。そのくせ、本人達は素知らぬ顔で窓の外を見ているのが、余計に腹立たしい。    扉が開くと、綾子は真っ先に階段へと向かった。かなり早足で改札を通り過ぎると、駅前の横断歩道まで辿り着いて、ようやく綾子は一息つくことができた。  信号待ちをしながら心の中で上司への愚痴を吐いていると、ふと、向こう側に見覚えのある背の高い女の人を見つけた。その女は、何やら綾子の方をちらちらと見ている。  あんな人が知り合いに居ただろうか。しばらく考えてみたが、生憎いつどこで会ったかさえ思い出せなかった。  信号が青になった。綾子の後ろで待っていた人たちが、一斉に横断歩道を渡り始める。綾子も少し遅れて、彼らに続いて渡り始める。  例の女も、どんどんこちらに向かって歩いてくる。やはりどこかで見た気がするが、綾子は、多分気のせいだろうと割り切ることにした。ところが、女との距離が二・三メートルほどになったとき、綾子はふと昨日の晩のことを思い出した。  そうだ。あのとき自分が踏んでしまったのは、この女の足だった。階段ですれ違うときに少し顔を見ただけだが、綾子はそれでも、この女だったと確信できた。  不意に、右足に激痛が走る。綾子は思わず「痛っ」と声を上げた。思わず人混みの中で足を止めてしまう。女は、綾子の横を通り過ぎて、堂々と去っていく。そこで初めて、足を踏まれたのだと分かった。  報復のつもりだろうか。綾子は考えた。あれは明らかにわざと踏んでいる。あの体重のかけ方はどう考えても意図的としか思えない。おまけにあの女、悪びれもせずにそそくさと立ち去って行ってしまったではないか。  確かに昨日は私の方が悪かったかもしれないが、それとこれとはまた別だ。こんなやり方が許されるわけがない。    綾子の脳裏に、じろじろとこちらを見る女の目が浮かんだ。ただでさえ朝の機嫌が悪い綾子は、更に苛立たされた。  もし今度会ったら、捕まえて文句を言ってやろう。綾子はそう心に誓った。    気付けば、青信号のランプが点滅し始めていた。綾子は我に返ると、横断歩道をダッシュで渡り切った。
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