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 赤信号を前に立ち尽くす人々。その目前で、車がびゅんびゅんと通り過ぎる。もう何度も見てきたはずの光景を、綾子はどこか新鮮な気分で眺めていた。  ここまで必死に何かを成し遂げようとしたのは、久しぶりだった。どこの誰かも分からない誰かのために働くより、こっちの方がやり甲斐があるのではないかと思う。やはりこの遊びに乗ったのは正解だった。  女は今日も向かい側に居る。靴は昨日と同じハイヒールだった。腹立たしい顔でこちら側を見ているのも、昨日と同じだ。  綾子はその彼女の精神を見習い、女のハイヒールに目の焦点を合わせながら、作戦を立てていた。  綾子は昨日の敗北から、あることを学んでいた。それは、左右の歩行ルート修正による回避には限界があると言うことだ。歩行中に突然大きく左右に動き出せば、間違いなく不審がられる。かと言って小さく動けば昨日と同じ結末に至るだろう。  だから綾子は、『上下』の修正をすることにした。つまり、歩幅を調整するということだ。これなら多少変化させてもあまり目立たないし、意表をつくこともできる。  女のハイヒールが動いた。青信号になったらしい。綾子は横断歩道の白い部分に、大きく足を踏み出した。女とすれ違うタイミングで歩幅を小さくすれば、ハイヒールは綾子の足の数センチ前方に落下するはずだ。  例のごとく、女との距離はすぐに縮まった。ここからが勝負である。やはり先手を打つのは女の方だ。今日は逃すまいとでも言うかのように、さり気なくヒールで狙ってくる。目標は、宙に浮いた右足の着地点のようだ。  綾子は作戦どおり、その着地点を唐突に手前にずらした。女のヒールは、高い音を立ててアスファルトを踏みつけた。  一度、お手つきならぬ『お足つき』をしてしまえば、いくらこの女でも、昨日のような修正はほぼ不可能だ。綾子は悠々と左足を体より少し左側に出し、歩行ルートを左に逸らした。
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