シーズンズ!

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シーズンズ!

『シーズンズ ~4S~ 』 7cf55cc9-94ca-40b2-a044-2c9724d7f4b7  変だな。 いつもは見慣れた風景が違って見える。  頬を撫でた浜から微かに届く海風も、 春の晴れた空も、 屋上から見下ろすグラウンドも、なぜか私の心を騒がせた。 いや、私の心が騒いでいるから、日常が違って見えるのか。落ち着け、と心の中でいつも流している大好きなジャズを流す。 「準備OK~」  どこか気の抜けた声で沙月が言った。その手にはスティックが握られている。ドラムが陽の光を反射して白く輝いて見えた。 「やってやろうじゃん」  七海が無理に勝気な笑みを作る。ギターを持つ手が少しだけ震えているけど、指摘はしない。きっと私が持つベースも震えているから。 「ほな頼むわ」  幸香が三味線の撥を掲げた。いつものマイペースの中にほんの少し、緊張の欠片を見つけた気がする。それがかえって私を安心させた。  4人の瞳が合わさる。 気持ちを一つにして、私はすっと息を大きく吸い込んだ。 『シーズンズ!』  四人の声と心がマイクを伝って、スピーカーから増幅される。同時に私たちが奏でる音楽が学校中に、いや、そこで留まらずに島中に響き渡った。  なんて気持ちがいいんだろう。  やっぱり見慣れた光景が違って見える。輝いている。  それはきっと私の心の輝きだ。  あの太陽と変わらないぐらいに眩しく光る輝きが胸の中にある。  ずっとこの時間が続けばいいのに。  素敵な時間ほど過ぎるのは驚くくらい早い。次の瞬間には私たちの演奏は強制終了させられていた。怒った教師が屋上に上がってきて電源を切ったのだ。最後のサビまでもう少しだったのに。  充実感と物足りなさが交ざる。その思いは私だけのものじゃなくて、私たちのものだ。みんなで目を合わせてそれが確認できた。 「てへっ」と笑い合う。  それが教師の怒りに火を注いだのは言うまでもない。 「悪かったよ、美津江ちゃん」 「本当に悪いと思ってる?」 「思ってる、思ってる」  教頭であり七海の親戚でもある美津江の相手は七海に任せるのが一番だ。私を含めた他の面々は、神妙な面持ちを作って下を向く。 「新しい先生を歓迎したいというあなたたちの気持ちは素晴らしいものだと思うわ」 「でしょう!」  我が意を得たり、と七海が被せ気味に応える。 それは私が前もって授けた大義名分だった。これで後は無罪放免となるはずだ。私たちを停学などとしたところで何の益もない。全生徒4名の中学校、同じ校舎で授業を受けている小学生を集めても10名がやっとの離島の学校事情が背景にある。生徒がいない学校に何の意味があるというのか。  私の計算通り、いくつかの小言を貰うだけで私たちは教室へと帰された。でも、用意した大義名分はあまり効力がなかったようだ。 「あなたたちはやりたいことをやっているだけね」 「そんなこと……」とそこで七海の言葉が尻つぼみになったのは、美津江にじっと見つめられたからだ。 「ないって言える? 新しく赴任した先生を本当に歓迎したいって気持ちが一番強かったっていうなら、私も嬉しいんだけどね」 「……」  さすがにそれに対して白々しく「本当に歓迎したかったんです」と嘘が言えるほどのふてぶてしさは私たちにはなかった。それに、そんな生き方は好きじゃない。そんな生き方で好きな音楽に触れたくはないのだ。いつも心に流れるジャズにノイズが混じるのは絶対に嫌だ。 「そういう素直なところは好きなんだけどな」  美津江のその最後の言葉でお説教というには生易しい時間は終った。  私たちが教室に戻ると先客がいた。 といっても中学生は去年唯一の先輩ら二人が卒業して私たち二年生の4人だけ。となると消去法で先客が誰かは明白となる。 「おかえり」  ちょっと困ったような笑みを浮かべて、先客のぼうっとした男が言った。  肝心の名前を思い出せない中、空気を読まない幸香が「あんた誰やねん」と突っ込んでくれた。そのエセ関西弁に男は虚を突かれたように目を見開いた後、くくっと抑えきれなかった笑いを溢す。怒らないところに好感を抱いたのは私だけじゃなかったようで、それぞれが思い思いの挨拶を済ませた。幸香はそこでようやく男の正体に気づいたらしく「いややわ」と愛想笑いで誤魔化しながら席についた。 「盛大な歓迎ありがとう。今日から敷島中学校に赴任した倉戸吾郎です。君たちの担任を務めます。よろしくどうぞ」  微かな照れ笑いのようなものを浮かべながらの自己紹介に私は内心ほっとした。この島に新しい教師が赴任すると聞いたときから、どんな人が来るか心配していたから。 うるさく怒鳴って厳しいだけの教師とか、やる気がなかったり、コミュニケーションに難ありの人間が来たらどうしようかとみんなで茶化しつつも不安に思っていたのだ  でも、それはどうやら杞憂に終わったらしい。素晴らしい教師とは思えないものの、倉戸と名乗った男からそれほど不快なものは感じなかった。頼りなさは感じるものの、美津江ちゃんや校長などが頼りになるからそこは問題にはならない。 「先生、しっつもーん!」  あんたは小学生かと突っ込みを入れたくなるのを我慢しながら、大きな声で手を挙げた七海の方に顔だけを向ける。私たち四人の席は教壇に向かって扇型の形で配置されている。左から沙月、幸香、七海、私の順だ。その並びは小学生の頃から変わらない。正確には幸香が転校してきた小学二年の時からだ。 「ええと、七海さんでしたっけ。どうぞ」 「もう名前、憶えてくれてるんだ、嬉しい!」 「たった四人だからね、当然でしょ。で、質問は?」 「倉戸先生はおいくつですか」  その定番の質問に「30だよ」と素直に応える。「おじさんだ」と七海の率直な意見にも怒らず「そうだね」と笑った。その後に続く定番の質問にも倉戸は苦笑を交えながら答えてくれた。趣味が釣りで、恋人がいないことや、中学では数学と英語と社会の授業を担当することや、港近くの借家に住むことなど、一気に倉戸のことに詳しくなった気がする。 そして、授業の方も分かりやすかった。今まで教えてくれた校長や元担任の美津江には悪かったけど、教科書を読むより分かりやすい教え方だったし、分からない人へのフォローの仕方もケースバイケースで対応してくれてとても上手だった。ただ、つまらない冗談をこまめに挟んでくるのがちょっと鬱陶しかったけど。 「自由に考えるとこの答えは12(じゆうに)だね」とか「シャケを食べると勉強にいいよ。社会(シャケ―)勉強というだろ」とかを聴くたびに力が抜ける。 人が良い沙月は愛想笑いを浮かべるし、マイペースが信条の幸香も突っ込みはお仕事のような感覚を持っている、そして囃し立てるのが大好きなお調子者の七海がいるから、それは授業中、定期的に続いた。これからもそれがエンドレスかと思うと少しだけ気が重い。 たった三年間の中学校生活。大人はきっとそう言うだろう。 でも、当の私たちにとっては、終わらないと錯覚するほど長い三年間だ。 その一年が終わったばかりで、卒業なんて遥か先のことにしか思えない。だから、美津江や校長たちともずっと一緒だと・・家族だと思っていた。 この日は新しい家族を迎えた日だったのかな。 ちゃんと歓迎すれば良かったと少しだけ後悔した。  春は、はじまりの季節。  それは大抵の人にとって喜びでもあって、島でもいつもこの季節はみんなの気持ちが少し弾んでいる。遅い桜の開花がそれに拍車をかける。その昂ぶりはゴールデンウイークを迎える前には落ち着いて、大型連休に対するワクワクに心が移る。・・例年ならば。  今年は違う。でも、違うのは私たちだけか。  中学校で唯一の部活動である吹奏楽部の私たちだけが、ドキドキでゴールデンウイークを迎えようとしていた。 「おう、秋生ちゃん。今日もお稽古がい、精が出んなぁ」  神社前のバス停にいたゆばあこと湯葉のおばあちゃんに「んだよ。ゆばあもおでがけかい」と歩きながら応える。 「うじいのとこで茶飲みだぁ」 「ええね。気いつけっちゃあ」 「おいよ」  通い慣れた神社へと続く階段を駆け上る。ちょっとしたウオーミングアップ代わりだ。そのまま境内に入り、社を通り過ぎて、社務所へと入る。 「遅い!」 「早い!」  定番の挨拶を交わして、早速、準備に取り掛かる。  先に来ていたのは七海で、彼女も来たばかりなのか、ギターをケースから出しているところだ。私もここ一年ですっかりUSED感が増したベースの調整に入る。  この社務所は基本的に使っておらず、祭事のときに多少、人が出入りする程度だ。そこに目を付けた我ら吹奏楽部の部室になって久しい。学校でも空いている教室で練習可能だけれど、人目に付いて気が散るし、小学生のガキどもが遊びに来て練習どころではなくなる(子供受けがいい七海が遊びに夢中になるせいだ)。何より、学校よりも私たちの家に近いというのが最大の理由だ。休みの日も自由に使えるし。大人たちも暗黙の了解で見守ってくれるから、楽でいい。きっと海の向こうの本島だったらこんな自由なんてないだろうな、と漠然に思ったりする。高校生になればその本島に通わなければいけなくなるが、それはまだずっと先のことだ。  小学生の掃除の面倒をみていた沙月と幸香も合流して、私たちの部活動がはじまる。  私がやりたいのはジャズだ。そして七海が求めているのはロックで、何でもありでみんなと一緒が楽しい沙月に、マイペースで三味線が大好きの幸香。 この四人が集まって『4S』の完成だ。 ちなみにSはシーズンズの略で四季の意味。私たちのそれぞれの名前に四季の言葉が含まれているのが由来で、命名者は幸香だ。そのセンスで作詞やそのアレンジの役割を担っている。ちなみにボーカルは私だ。特別に上手なわけではなく、私以外、歌いたいと希望する人がいなかったからだ。  準備万端、よーそろー。  沙月がスティックを合わせてカウントを取る。 ワン・ツー・スリー・フォー。 「シーズンズ!」  その掛け声を皮切りに私たちの音楽が境内と波間へこだました。 「やっぱ、オリジナルはムズいね~」  トレードマークの細目をハの字にするようにして沙月が泣き言を口にする。けど、それはみんなの心を代弁しているから誰も文句は言わなかった。  確かにムズい・・もとい、難しい。  かじかんだ手を唯一の暖房器具である石油ストーブの前で温める。春を迎えても島はまだまだ寒かった。切り立った崖の上にある社務所ではなおさらだ。それでもかじかむ手に困らされることは大分、少なくなった。休憩時間に温めてやれば十分で、冬の間は曲間どころかメロデイ間ごとに私たちはストーブに群がっていた。 「じゃ、今まで練習していた曲に戻す?」  小首を傾げて七海がみんなに尋ねる。こいつ本気で聞いてるな、と私は冷ややかな視線で応じるが七海の天然っぷりは揺るがない。いや、揺るがないからこそ天然なのだろう。 「それはみんなで話したやん。オーディションやったらオリジナル演って目立った勝ちやんなって」  相変わらずのエセ関西弁を駆使して幸香が言う。転校してきたときから貫いてきたそのキャラは今も変わらない。ただ、生の東北弁しかしらず、テレビでしか関西弁を聴いたことしかない私たちにとってはエセ関西弁も関西弁も大した違いはない。 「オーディションだもんね……」  私の言葉が呟きになったのは、誰もオーディションというものを知らないからだ。  そもそも私たちがオーディションを受けようと思ったのは、自発的とは言い難い。 「そんなに演奏したいならこのオーディション受けてみたら」と私たちにウエブの記事を見せたのは、赴任すると共に担任だけではなく、吹奏楽部の顧問ともなった倉戸だ。  あのゲリラライブを行ったぐらいだから、このオーディションを受けて当然だろう。そう暗に言われた気がして、私たちはその倉戸の提案に喜んで乗って見せた。・・でも、実は不安の方が大きい。それを払拭するように私たちは練習に励んでいた。  ゴールデンウイークの後半にそのオーディションは本島で開催される。参加費用は部費で賄えるものの、交通費は自腹となる。貯金を欠かさない沙月以外はお年玉の残りを掻き集めて、そしてそれさえも使い切っていた七海は親を拝み倒しての参加だ。  もし、そのオーディションに合格することができれば、プロの指導の元、CDをリリースしてもらえるらしい。  それは私たちにとって、夢だ。  でも、それは絶対に叶わなくて、奇跡を願うような、儚いものだった。  それが急に現実になって目の前に現れた。  戸惑い、不安に押しつぶされそうになりながらも、懸命にその夢に手を伸ばす。届くわけない、と心で誰かに言い訳しながらも、届いてほしいと願う。  届くかどうかは、すぐに分かる。 オーディションまでもうすぐだ。  ゴールデンウイーク突入。  今年は例年になく行楽日和で、早くも観光地は大賑わいを見せているらしい。  そんなニュースとは無縁の我が島でも、島民のほとんどは大型連休という建て前でみんな軽く羽目を外しはじめている。昼間から酔っぱらっている人がいるのもこの時期ではご愛敬だ。 そんな騒ぎから私たちだけが除外されている。 「泣いても笑ってもあと三日だね」  練習を終えて、港への道を歩きながら七海が言った。その口にはさっき売店で買ったアイスの棒が咥えられている。器用に喋るやつめ。 「緊張するね~」といつもの気が抜ける口調で沙月が応じる。でも、この幼馴染が本当に緊張していることに私は気づいていた。手提げかばんをぶらぶらさせるのは沙月の緊張したときの癖だ。この四人の中で一番、付き合いが長いのは伊達じゃない。  港に着くとちょうど夕日が海面にきらめいていた。この世界が変わったような幻想的な景色が結構好きだった。金の野原の時間、と小さな頃、沙月とだけ呼んでいたものだ。 「・・金の野原の時間だね~」  私の心を読んだように沙月がのほほんと言った。他の二人はきょとんとしている。それが少しだけおかしかったから「そうだね」と笑う。二人はますます変な顔になる。それが楽しかった。 「あ、見っけ!」と七海が大きく手を振る先には、波止場で釣り糸を垂れながらぼうっとしているおっさんの背中姿があった。 「お、終わったか」とおっさんが顔だけで振り向く。私たちの担任であり顧問である倉戸は、すっかり海焼けして赴任してきた頃の頼りない感じがほんの少しだけ緩和されていた。 「吹奏楽部の本日の活動、終了しました」 「はい、ご苦労さん」  部長である私の杓子定規の報告に片手を応える倉戸。もう片方の手には安っぽい釣り竿が握られている。 「先生、釣れたー?」 「うんにゃ。晩酌のツマミにはちょっと足りないかな」 「じゃ、まだ粘るんだ」 「んだな」と訛り交じりで応じる倉戸。大分、島にも馴染んできたようだ。  ボケーとした感じの倉戸と七海は波長が合うのか、放っとけばいつまでも会話が途切れない。いつもなら、先生さようなら、と定番の挨拶で切り上げるのだけれど、今日は違った。 それは、オーディションが近づいて気が立っているせいか。 オーディションを勧めた張本人が無責任にもずっとのほほんとしているだけなのが気に入らなかったのだ。 「先生も少しぐらい練習に参加してくれてもいいんじゃないですか」 「キミ」と沙月が私の袖を引く。言い過ぎだと教えてくれたのだろうけど無論、承知の上だ。言葉は相手に気持ちを伝える道具だ。私の怒りを伝えたかった。けど、それは正しく伝わらなかったのか、倉戸は「んだなー」と変わらない気の抜けた口調で応じる。 「オーディションを勧めたのは先生です。少しぐらい責任を感じてくれてもいいんじゃないですか」 「責任・・て?」 「!?」 「俺は吹奏楽部の顧問で君たちの担任だよ。その責任はあるな。オーディションを勧めたのは、その両方の立場でだし、オーディションにも同行するさ。んで、俺が君たちの練習に参加するのは構わんのだけど、俺では教えるのは役不足だし、むしろ邪魔じゃないか?」 「それは……」  ぐうの音も出ない、とはこういう時に使う表現なのだろう。倉戸の意見はその通りだし、その口調はいつもと変わらなく、高圧的でも攻撃的でも、ましてや卑屈でもなかった。だから、無闇に反発する気持ちも湧かない。  私はどうしたかったのだろう?  そこに行きついた。  そして、その答えが分かって、頬が熱くなる。それを誤魔化すようにして私は「すみませんでした」と殊更、大きく頭を下げる。 私は安心する言葉が欲しかったのだ。 「なんも謝ることないぞ」  その倉戸の微笑みの中に、こちらの気持ちを見透かされている気がした。それを振り払うかのように私は定番の挨拶でその場を切り上げる。他の部員もいつものように私の後に続く。その変わらぬ距離感が親友たちの優しさに思えた。  そんな仲間に囲まれて、瞬く間に時間は過ぎる。もしかしたら、私たちの中学生活は一瞬のきらめきになるのかもしれない。そんな想像をしてほくそ笑むのは、本気でそんなこと思っていないからだ。 けれど、オーディションまで時間が過ぎるのは本当に早かった。必死の練習のかいあって、何とかオリジナル曲は形にすることはできた。・・自信はないけど。  そうして、オーディションの当日を私たちは迎えた。  本島への船の時間がこんなに緊張したのは初めてだ。  いつもは本島で何をしようか、みんなでワイワイはしゃぐのだけれど、今日は違った。口数が少なく、表情も硬い。唯一、倉戸だけがいつもと変わらない飄々としているが、当事者ではないのだから当然だ。  そして、私たちの緊張は解けることなく、オーディション会場へとたどり着いてしまった。 「緊張はしていいよ。でも、それと演奏は別物だよ。良い演奏をすることだけを考えな」  初めて聴いたその顧問らしい倉戸の言葉も私たちの心にストレートに落ちることはなかった。  オーディション会場には百を超えた参加者たちが集まっている。催し物をやるステージをそのまま借り切ったもので、想像以上に広い。島のどの建物よりも大きいのではないだろうか。観客席が私たちオーディション参加者の控室みたいなもので、ステージがオーディションの場で、その最前列に審査する人たちが座っている。 「もっと和気あいあいだと思ってたのにぃ」 「オーディションなんだから殺気立ってて当然でしょ」と弱音を吐く七海をたしなめながらも、本音は彼女に同調していた。 音楽を演るだけなのにどうしてこんなにたくさんの人が必死になっているのか。 正直、見当もつかない。音楽とは楽しいものではなかったのか。 安くないオーディション費用がかかるせいか、冷やかし目的の参加者は見当たらない。いや、どちらかというと私たちがそれに該当するかもしれない。  来てはいけなかったのではないか。  今更ながらにそう思う。ここは部活の延長で来てはいけない場所だ。 しかも中学生の参加者はこの大勢の中でも私たちだけだった。 「緊張しても仕方がないぞ」  再びの倉戸の顧問らしい言葉に私は口を開くのをグッと堪えた。泣き言しか出ない気がしたから。  これは不幸中の幸いだろうか。あの頼りない倉戸のいつもの頼りなさが、ここではなぜか頼もしい。授業中も釣りをしているときも、このオーディションの最中でも倉戸は変わらない。慣れない都会で初めてのオーディションというこの状況でもそれだけが救いだ。  やるしかない。  そう、結論付けても震える身体と心はどうしようもなかった。 「……でも緊張する」  みんなの心を代弁する幸香。いつものエセ関西弁がなりを潜めていることから彼女もまた緊張していることが窺える。自分だけが緊張しているわけではないことに安堵しつつも、不安は拭えることはなかった。  どうすればこの緊張から逃れることができるのか。  その手段を知りたくて堪らなかった。それを知ることができるのなら悪魔の取引にさえ応じる自信がある。けど、そんな簡単な方法があるわけないことぐらい薄々気づいていた。  そんな私たちに倉戸はアドバイスとはほど遠い言葉を投げかけてくる。 「緊張はしていいんだよ。ただ音楽には必要ないものはぽいっと捨てちゃいなさいな」 「!?」  その倉戸の真意を尋ねる暇はなかった。  私たちの番号が呼ばれたからだ。 「44番」と。  それは普通なら、不吉な番号と思うだろう。 けど私たちは違う。私たち、4Sにはお似合い過ぎる番号だ。  そのこじつけに自分を励ますようにして私たちは客席からステージへと上がった。  震える足が止まらない。  緊張が頭と心を真っ白にする。  落ち着け、と心の中でいつも聴くジャズを鳴らそうと試みる・・も一音も聴こえてくることはなかった。こんなことは初めてだ。  どうしよう!  パニック寸前の私はステージから逃げ出しそうになった。  それを寸前で止めてくれたのは、親友たちではなく、観客席から飛んだ大きな声だった。 「4Sってどういう意味ぃ!」  それが倉戸の声だと分かったときには私は用意してきた喋りをはじめていた。 「えっと・・私たちのバンド名の4Sは、フォー・シーズンズ、つまり四季です。どうして四季を選んだかというと私たちの名前の中に季節が由来の言葉が含まれているからです」  そこまで一気に喋ってから深呼吸を一つ。マイクを通してスピーカーから聴こえた自分の声はいつもと変わらない。少し落ち着けた気がした。心の底から微かにいつものジャズが流れ出る。 もう大丈夫だ。足はまだ震えているけど、心はもう震えていない。 練習通りにやるしかないんだ、と開き直る。 であれば、緊張しないようにしても仕方がない。間違えないようにしても仕方がない。 私たちが練習してきたのは私たちの音楽を一生懸命やることだけだ。 ようやく視界が開けた気がした。ステージの上の景色はこんな感じだったのか。 参加者たちの好奇とぎらついた視線に審査員の真剣で怖い瞳。それはあまり気持ちのいいものではない。少なくとも緊張を緩和してくれるものではない。それを無視するように私は、私の心を優しくしてくれる仲間へと意識を向けた。 「ドラムの沙月は五月晴れ」  私の紹介に沙月がドラムを叩いて応える。ちょっと音が緊張しているかな。リラックスと目で話しかけると、ありがと、と沙月が細目を更に細くして笑顔で応えた。 「七海は、夏」  ギターをかき鳴らす七海。いつもより弾けた音は緊張の裏返しか。ヘタレのくせに負けず嫌いなところはいつも通りだ。 「幸香は、雪」  三味線をチン・トン・シャンと分かりやすく鳴らす幸香。それが雪を表現していることに私は気づいている。ここでもマイペースは変わらない。それが心強い。 「そして私、秋生は秋だ」とベースを弾きながら続ける。 「島に四人しかいない中学生で吹奏楽部。だけれども誰一人、拭いて奏でる楽器はなし」  ほんのちょっとの笑いが起こる。 「吹奏楽を水槽学っと言ったのはこの中の誰でしょう」  七海を除くメンバーの視線が一気に彼女に集まる。 「へええ」と練習通りの七海のリアクションにさっきよりも大きな笑いが起こった。掴みは上々。よし、いける。 「シーズンズ!」  私たちの音楽がはじまった。  結果だけを言えば、それは私たちにとって最悪だった……。  例年より早く梅雨が明けても、夏休みを間近に控えても、私たちの心は晴れない。  それは毎年恒例のことだから、周りの大人たちに心配されなかったことだけが救いだ。 去年も期末テストにヒイヒイ言っていた。それは今年も変わらない。けど、心が晴れないのはテストのせいじゃなかった。だから、試験が終わって後は夏休みに入るだけというのに、私の心ははしゃいでくれなかった。・・それは私だけなのだろうか。 「夏休み、どうしようね~」  細い目を更に細くして沙月が言った。うだるような暑さの中でもこの幼馴染の表情はいつもと変わらない。 風が凪いでいて、湿気が身体にまとわりついて気持ちが悪い。家に帰ったらすぐにシャワーを浴びたいと思っていた。  学校からの帰り道、他の二人の姿はない。帰り道の方向が違うのだから当然だ。部活で神社に集まらない限り、放課後に顔を合わせることはあまりない。 「どうしようね」とぼやっと答える。大した予定が入ってはない。せいぜい、本島に何度か遊びに行くぐらいじゃないだろうか。 「キミはどこかに出かけないの?」 「予定はないなぁ。サキは?」 「私もなし。親戚が遊びに来るぐらいかな~」 「そっか」  沙月も私と変わらず、例年通りの夏になるようだ。 「どうしようかな~」とまた沙月が繰り返して言った。同じこと言わないでよ、とツッコミそうになってから、ようやく気付いた。沙月が何を言いたいか。そして私と同じ心のモヤモヤを持っていることに。 「部活、全然やってないね」 「! ……うん」 「どうしようか……?」 「どう・・する?」  見つめ合ってから、二人で頭を抱える。  あのオーディションの日から部活動はやっていない。それどころかベースに触れてさえいなかった。 表向きは試験が近いから、ということと疲れのためということにしてあるけど、その言い訳は期末テストが終わった今、通用しない。  音楽をしたくないわけじゃない。  むしろ、したい!  中学生になってから一か月以上も楽器に触れないなんて初めてで、色々な気持ちに気づく。音楽をしないことへの苛立ちが、意味不明な不安に変わったり、このまま、辞めてしまうんじゃないかと心配になったり……。  どうすればいいのか。  やっと、その気持ちに向き合い始めた。それは一人では無理だったと思う。でも、沙月がいてくれた。 沙月にとっても私が同じだといいな。 その思いに至って、ようやく私は二人で悩む必要がないことに気づいた。 これは私たち4Sみんなで向き合う悩みだ。 「……行こう」 「え?」 「神社に集合!」 「!? ・・うん!」  私の言いたいことに気づいてくれているのか、沙月がそれ以上、何も言うことはなかった。  神社に集合。  LINEで他の二人にそれを伝える。 二人も私たちと同じ気持ちだといいな、と願いながら。  今年の夏がいつもと違っているのは私たち4人の共通認識だと信じて。  その想いは、機械は伝えてくれない。そのための道具が言葉で、きっと音楽でもあるんだ。  漠然とだけど、あのオーディションでの答えへの入り口が見えた気がした。 『良いものは持ってる・・けどグダグダだね。途中で演奏が止まったことを言ってるわけじゃない。音楽に核がないんだよ。ただメロディラインに沿って演奏して歌えばいいのかい? それなら、機械にだってできるし、あいつらの方が優秀だ。間違えないし、疲れないからな。・・でも、そうじゃないだろう。音楽は心を動かすものだ。感動をさせるものだ。君たちの中でその食い違いがあって演奏が止まったんだけど・・ま、それは分からないよな。お疲れさん、ありがとうございました』  それがオーディションでの私たちへの評価だった。審査員の中で唯一のプロのミュージシャンでありプロデュースもしているという人の言葉だから、反論の余地はなく、ただ私たちを打ちのめした。  私たちの音楽には核がない。  それは認めたくない現実だ。目を背けていたい。だから、そうした。  四人で話すということは、そこに向き合うということだ。一人なら絶対に耐えられない。もっともな理由を探して、遠ざかっていた方がよっぽど楽だもの。 でも、四人なら・・4Sでなら、きっと向き合って、傷ついても、支え合いながら、その答えを見つけだすことができる気がする。それが勘違いじゃないことを信じるしかない。  私たちに遅れること15分、七海と幸香も社務所に到着した。  二人の顔はちょっとだけいつもと違う。たぶん、さっきまでの私たちも同じ顔をしていたんだろう。 「…………おいっす!」 「!」  しばらく手持無沙汰にして黙っていた七海が捨て身のギャグを披露する。 そこに照れ隠しのような七海らしさを見つけて、私はつい笑ってしまった。 笑いは笑いを誘発する。久しぶりに神社の境内に響いたのは音楽ではなく、私たちの笑い声だった。  でも、それが大切な答えであることに、その時の私たちはまだ気づかない。答えは、もう持っていて、それを見つけられないだけだということに。  まだその口元に笑いを残しつつ、幸香が話を切り出した。 「ここに呼んだゆうことは、部活の話しということやね?」 「うん、まあ」と歯切れの悪い答えを返す私に、まだ笑いが収まらない態で七海が「煮え切らないなぁ」と茶々を入れる。  確かにその通りだ。言葉を濁しても仕方がない。 「部活っていうか・・4Sのこと」 「…………」  急に静まり返る室内。遠くで波の音が聴こえた。ぐっと堪えるようにして私は口を開いた。 「あのオーディションでさ、色々言われたよね」 「んー、でも気にしなくていいんじゃない。私たちさ、プロになるわけじゃないんだし」  七海のその言葉は納得できるもので、オーディションの帰りの船の中でもそこに結論付けた。 そして、音楽から逃げた。  それでは駄目だ。でも、どう言葉にしたら七海に、そして幸香に伝えることができるのだろうか。  悩む私に助け船を出してくれたのは、意外にも幸香だった。 「それはロックじゃないやん」 「! ……」 「ロックな生き方がしたいって、ナツの口癖やんか。今の言い分はロックとちゃうやん」 「ユッカにロックが分かるのかよぅ」と語尾が尻つぼみなところがすでに負けを認めてしまっている。だから、幸香はそれ以上、追及することはしなかった。 「そうだね、ロックじゃないね。でもさ、それはプロを目指さないといけないってわけではないよね」  私の言葉に、みんなが少し黙った後、思い思いのジェスチャーで肯定の意を示した。頷いたり、微笑んだり、目を逸らしたり。 「私はジャズがやりたくて、ナツはロックで、ユッカは三味線がとにかく弾きたくて、そしてサキはこの4人で音楽がやりたくて・・4Sができたんだよね」  今度はみんな、頷いて答えてくれた。それに勇気づけられるように私は想いを言葉に変えていく。それは私自身が改めて気づく想いに触れることでもあった。 「4つの季節のどれかを優先するんじゃなくて、それ全部で四季。私たちのいいところを全部混ぜた音楽をする。最初は好きな曲をコピーするだけだったけど、オリジナルを作るようになって、それがどんなことか分かった気がする。・・何より、すごく楽しかった」 「……私も」と沙月が最初に賛同してくれた。そして、幸香と七海がそれに続く。 「せっかく、好きな音楽なんだから、ちゃんと向き合いたいって私は思うの」 「……それはどういうこと?」 「あんた、ようけ話し聞いとった?」 「聞いてたよ。でも、どうすればいいの? 今までみたいに楽しんで音楽をやるんじゃ駄目なの?」 「それは・・なぁ……」と付き合いよく、幸香も七海と一緒に首を捻った。 「楽しくやるのはいいことなんだよね?」  沙月の問いかけに私は「もちろん」と親指を立てて応えた。それに安心したのか、七海の表情から不安の色が薄くなる。 「・・でも今までと同じじゃ駄目だと思う」 「どうして!?」 「だって、今までと同じじゃ、もう楽しくないもの」 「なによ、それ」 「怒らないで。今までのことが駄目だって意味じゃないよ。ただ、これからには必要がないってこと」 「……よく分かんないよぅ」  ヘタレの七海の部分が顔を出した。突然、知らない場所に置き去りにされた子供のようだ。つい、抱きしめたくなる。でも、今は駄目だ。ここで甘やかしたらうやむやになってしまう。 「もっと音楽を楽しもうってことちゃうの?」 「それは流石に簡単にまとめすぎかな。でも間違ってない。自分の好きなように音楽に触れるだけじゃなくて、そんなこと関係なしに音楽に向き合いたい・・のかな」 「……なんで疑問形?」  沙月の得意の時間差ツッコミに思わず、みんなが笑う。少し場が弛緩した。 「結局、今までとどう違くなるのよ?」 「それはやってみないと分からないけど・・たぶん、やりたくないと思って避けていたこともやらないといけなくなると思う」  私の答えに「ふーん」と七海は答えたが、多分・・いや絶対分かっていない。 「基礎練とかやんなー」 「それもそうだし・・」と私はそこで一度、言葉を切った。みんなを見渡す。ようやく核心にたどり着くことができたのだ。 「私たちの音楽の核について考えよう」  それがオーディションのときに貰った言葉だとみんな気づいていた。  久しぶりに夏休み=真夏日という季節になりそうだ。  夏の申し子・七海でさえ、あの元気がなりをひそめるぐらいのうだるような暑さが続いている。  特に、遮るもののない浜の暑さは容赦ない。照り返しの日差しもきつく、お肌のためには決して近づくたくない場所だ。  そのお肌の敵である海辺に寄ったのは、気分転換とかではなく、用事があったからだ。正確に言うなら、海辺にではなく、お休みにはここにいつも生息している人に、だ。 そして、目当ての人は探すまでもなく見つかった。いつもの場所で釣り糸を垂れているからすぐに分かった。 「……釣れますか?」  七海がいなくて、話しかけるきっかけを探して出てきた言葉がこれだ。我ながら芸がない。 「お? ああ、キミか。どうした、試験明けのお休みにやることないのか」 「いつもここで釣りをしている先生に言われたくないです」 「そりゃ、そうだ」  ははっと倉戸が笑ったとき、竿にアタリがあった。すぐに私は気づいたけど、先生は気づいていない。指を差して教えると倉戸は一瞬、首をひねりかけてからその意味に気づいて竿をさっと上げる。が、それは少し遅かったか、ばれてしまった。引き上げた竿には中途半端に残った餌だけがついている。 「ありゃ~」と情けない声を上げて、倉戸は餌をつけ直す。面と向かって話すことが恥ずかしかった私は今がチャンスと、用件を切り出した。 「吹奏楽部の活動を再開します」と。  倉戸は「お、そうか」と答えただけで、再び、釣り糸を垂らし始めた。  やきもきする私を尻目にボケーと釣りをする倉戸。  なんて気が利かない男なんだろうか。  この人モテないだろうな、と思ったところで、私は首を振る。 一体、何を期待しているのか。倉戸が気が利かないのは今に始まったことじゃないし、このおじさんがモテてもモテなくても私には全く関係ない。 「しかし、あんなに褒められたのにすぐ活動をしないなんて、よく我慢できたなー」 「……はああ!?」  波音に負けない大声のリアクションに「うおっ」と倉戸が手から竿を落とし掛ける。それに構わず、私は怒ったような口調で反論した。 「いつ、誰に、どこで褒められたんですか!」 「え・・、オーディションで審査員に褒められたじゃないか。あのオーディションで褒められた参加者は少なかったから胸を張っていいんじゃないか」 「褒められてません。音楽に核がないと言われました」 「そうだな。それを言って貰えるぐらい良かったとは思えない?」  その突飛な発想に私は呆れ口調で答える。 「思えませんよ」 「そっか・・そんなもんか。まだ分からないよな」  それは審査員に言われた言葉と重なる。でも私はそれを重要視しなかった。音楽に詳しくない倉戸の意見に耳を貸す気がなかったのかもしれない。だって、あれを褒められたなんて言うんだもの。 「目標は決まったかー?」としばらく黙っていた倉戸が唐突に聞いた。 「……はい?」 「この前のオーディション結果は学校に届いたんだが・・」 「不合格ですよね」と倉戸の言葉を遮るように答える。分かりきった結果だったけど、改めて聴かされると心穏やかではいられないからだ。そんな私の自分勝手な反応にも倉戸は気を悪くせずに「ま、そうなんだが」と言って竿を動かした。 「私たちは、私たちの音楽をしっかりと見つけることを目標にしました」 「ん・・そうか。なら、いいか」 「?」 「いや、なんでもない。オーディションを受けて、その結果を受け止めて、次のステップに移る。素晴らしいね」 「先生、もしかして馬鹿にしてます?」 「んな馬鹿な。褒めてるんだよ。その繰り返しが人を成長させるからね」 「!? ・・先生って、本当に先生だったんですね」 「……お前、俺を馬鹿にしてるだろ」 「ちょっと」と親指と人差し指の間に空間を作って見せる。 「あんまり大人をからかうなよ」 「はーい」  初めて倉戸と何気ないやり取りができた気がして少し嬉しかった。  先生さようなら、と定番の別れの挨拶を交わす。けど、今日はそこでお別れにならなかった。  最後に、倉戸から提案がされたからだ。  それは私にとって・・いや、4Sにとって、魅力的な提案だった。 「歓迎会のやり直しぃー!?」  倉戸からの提案を告げた私に七海が大声を上げる。  朝のHRの前、教室には4人が揃っていた。七海がこんなに早いのは珍しい。たぶん、夏休みが近いせいで、身体がお休みモードに入っているのだ。小さな頃、休みの日に限って早起きしてしまったものだけど、七海はまだそこから抜け出していないようだ。 「それって、また倉戸はんの歓迎をするってことかいな?」  幸香が首を捻る。持ち前の丸い顔でその仕草をするととても愛嬌がある。本人に言うと「ほっといてんか」と機嫌を損ねるので口には出さないけど。 「うんと・・ちょっと違うかな」 「どう違うの?」  珍しく沙月がジャストタイミングで話題に入ってきた。それぐらい興味があるのだ。 「倉戸先生だけじゃなくて、そのお友達、かな。夏休みにこの島に遊びに来るんだって」 「へ、なんかおかしくない」 「こじつけやんな」 「……同情?」  三者三様の突っ込みにたじろぎそうになるも、それは想定内だ。私も最初はそう思った。けど倉戸の次の言葉に手のひらを返さざるを得なかった。だから、それをそのまま、三人にも伝える。疑うような表情が一瞬で晴れて、頬が上気する。私も倉戸の前でこんな顔をしていたのかと思うとちょっと恥ずかしくなった。 「その友達はプロのミュージシャンだよ」  自分で口にしておきながら、私の心もまた三人と同じように興奮していた。  倉戸の友人は8月の頭に島を訪れるという。  残された期間は2週間程度だ。ただ、ほとんどが夏休みだから練習にあてられるというのは大きい。  さて、どうするか。  どんな曲でもてなすか。オーディションのときに演った曲は勿論、もう一つ、新曲を作りたいと思った。  初めてここを訪れた人に、分かりやすくこの島を紹介したい。  素直にそう思ったから。  その思いはみんなに快く受け入れられた。それは、これから作詞・作曲と練習に追われる日々が確定したことを意味する。それでも、それは私たちが望んだことだから問題ではない。  大きな問題は他にあった。  それはずっと解決しない問題。4Sにとって、大きな壁だ。 『私たちの音楽の核』  未だ、それを見つけることができないでいた。  悩んだ私たちは苦し紛れに美津江に相談してみた。元顧問ではあるが、美津江は音楽の授業をできるだけで、専門的な知識は深くない。駄目元で愚痴を聴いてもらえればいいな、と軽く考えていた。 が、それが衝撃の事実をもたらした。 「それなら倉戸先生に相談しなさい。昔、バンドをやっていたことがあるらしいから、きっと相談に乗ってもらえるわ」 「はあああ!?」  職員室に響き渡るその七海のおかしな叫び声は私たちの心を代弁してくれていた。  そこに当の本人が職員室に顔を出した。この呑気な顔で私たちを騙していたかと思うと憎たらしい。が、倉戸は詰め寄る私たちに「おう、ばれてしまったか」と悪びれもせずに笑った。 「・・音楽をやっていたっていっても、楽器はできないし、ボーカルなのに歌が下手だから黙っていたんだよ」 「なんで歌が下手なのにボーカルやってんのさ」と正直な言葉を口にする七海だったが、美津江にじろりと睨まれて「・・やってらしたんですか」と語尾を言い直す。その似合わない言葉遣いがちょっとだけ可愛かった。 「ま、それは成り行きというか、縁・・なのかね。ま、人に歴史あり。色々あるんだよ。俺の歴史が聞きたいってのかい?」と冗談じみた言い方で話を振る倉戸。私たちが一斉に首を振るとおかしそうに笑った。お約束というやつだ。それぐらい通じる間柄にいつのまにか私たちはなっていた。 「この子たち、自分たちの音楽に悩んでいるらしいんですよ」  美津江の助け舟に「なるほど」と倉戸は腕を組む。しばらく黙りこんでから、一つ息を吐く。そうしてようやくでてきた言葉が「たくさん悩め」だった。 「なにそれ」  私の心の声が出てしまったのかと思った。意外にもそれは沙月の声だった。当の本人も驚いて自分の口を慌てて塞ぐ。  倉戸は気にした様子も見せずに「答えを慌てて探す必要はないってこと。俺が教えることでもない。自分で見つけて、自分だけのものにすればいい。だって君たちの音楽だろ」と言ってからちょっとだけ嬉しそうに笑った。  なんだか、煙に巻かれた気がする。けど傍で聴いていた美津江が大きく頷いていたから、信じても良い気がした。  悩んでもいい。  頼りない言葉だけど、少しだけ胸が楽になった気がする。でも、倉戸に感謝するのは癪だから分からないふりをする。  他のみんなもきっとそうなんだろう。  ちょっとだけ、4S内の淀んだ空気が流れ始めた気がした。  夏休み突入。  私たちは汗だくになりながら、専用の部室となっている社務所でひたすら練習を重ねていた。  3台の扇風機をフル稼働させてもこの暑さでは焼け石に水だ。流れる汗が楽器に落ちる。半袖短パン姿で汗だくの私たちは他人には見せられない姿だ。  けれど、楽しかった。  ただ、ひたすら音楽に打ち込むことがこんなに楽しいなんて思いもしなかった。暑さに負けない熱さが心の中から湧いてくる。七海の言葉を借りるなら、ロックだぜ! になる。  それでも曲が仕上がるにつれて、どうしても越えられない壁にぶつかる。それは技術的なものじゃなくて、もっと根本の・・心の問題な気がする。  だから、私はあの話を蒸し返してしまった。悩めばいいと言われた『私たちの音楽の核』の話を。  一緒に悩みたかっただけなのに、その気持ちはすれ違う。 「・・じゃあ、私が悪いの!?」  七海が珍しく噛みついてきた。けど、私に怒り返す気持ちは湧かなかった。だって、涙目なんだもん。 「ううん。悪いとは言ってないよ。ただ、あのときの原因を・・」 「だから、私のせいだって言いたいんでしょ!」 「そうじゃないってば……」  どう言えば七海に伝わるのか。私は本当に分からなかった。  練習終わりのミーティングで話し合っていた際に、オーディションで一時、演奏がストップしたときのことに話が触れた。  あの瞬間は衝撃だった。 今でも思い出したくない。気まずい空気が流れて、静寂が流れる。あとから倉戸に聞いたら、その時間は一分程度だったというけど、私にはその何倍もの時間に感じられていた。  結局、その何フレーズか先から幸香が演奏を再開してくれて、曲は最後まで演奏することができた。が、審査員にも言われた通り、グダグダだった。当然だ。間違えないように必死の演奏のどこが面白いのか。これも七海の言葉を借りるなら、そんなのロックじゃない、だろう。  その演奏が中断した原因について、私たちは初めて言及した。  でも、それは犯人を見つけて、責めたいわけじゃない。  一緒に悩みたかった。考えたかった。同じことを繰り返さないため・・成長するために。 失敗をそこで終わらせたら失敗になる。でも、次に繋げればそれは失敗じゃなくなる。成長のための大事なステップだ。  そのことに気づかせてくれたのは、倉戸が初めて口にした教師らしい言葉なのが癪だけど、私にとって大事な核になるのかもしれない。そうやって自分の核を作って、それを曲に反映できれば、それこそが私の音楽になるかもしれない。 けど、その答えにたどり着いても方法が見つからない。 きっと、たくさん悩むしかないんだろう。それもまた倉戸の言葉なのがやっぱり悔しかった。 「審査員の人がさ、言ってたよね」  沙月の言葉に「……何を?」と七海が応じるが、彼女にまで噛みつくことはなかった。それぐらいの冷静さはまだ保っているらしい。 「あそこで音楽が中断したことは大きな意味はないし、その原因は私たちの中の音楽のズレにある? ・・みたいなこと」 「せやね。ほんでもってそれが今の私らには分からんってな」 「…………」  沈黙が舞い降りる。誰も言葉を発しないのは、現状がその通りで、それはつまり、審査員の言葉は的を射ていると証明されてしまったからだ。  私たちの音楽の核とはなんなのか。  結局は、何度もそこにたどり着く。 一体、この壁はどうやったら壊せるのか・・もしくは越えられるのか。見当もつかない。それどころか、壊すのも越えるのも私たちには無理なんじゃないかとさえ思えてくる。 それでもその壁と向き合っていられるのは、悩んで良いという倉田の言葉があるからだ。そして、自分ひとりじゃないからだ。  だから、七海を責める気持ちなんて、これっぽっちもないのに!  どうしたら、この気持ちを伝えることができるのか。  きっと、それも諦めたら駄目なんだと思う。言葉にすることも、伝えることも……。 ジャアアアーーーンン!!!――  私は想いをぶつけるようにして、ベースを叩き鳴らした。突然の行動と大音量に、みんな目を丸くする。 「なんやねん!?」  三人を代表した幸香の反応に私は「なんでもない」と嘘を吐く。けど、そういうのがいけないんだ、と思い直して「・・ううん、なんでもある」と言い直した。 「なんやそれ」 「私はみんなが好きだよ。そしてみんなで演る音楽が好き」 「…………私も!」  私の言葉に沙月が大きく賛成してくれた。時間差だったのは気持ちを溜めたせいだ。「せやんな」と幸香が「私だって」と七海がそれに続く。  それは、4Sの根底にある想い。  それが揺らぐことはない。その事実に私は少しだけ勇気づけられた。だから、頑張って想いを言葉にする。諦めない。 「だから、ずっと好きでいたいし、もっと好きになりたい。オーディションでの話しをしているのはそのため。・・私たちの音楽の核を見つけるため。好きを大好きに変えるため」  そこで言葉を切ってみんなを窺う。  私の気持ちはみんなに伝わっているだろうか。  分からない。でも、みんなはしっかりと聴いてくれている。それは確かだ。あとは、私の心がみんなの心に届くかどうか。言葉に想いを乗せて、願うことしかできない。 「あ……!」  脳裏に何かが閃いた。それを逃さず、懸命に捕まえる。 「…………歌に、音に、想いを乗せる」  それはようやく見つけた鍵だ。壁だと思っていたのは扉で、それを開くための、まさにキーワード。 「なんやねん、いきなり」  突然、一人の世界に入ってしまった私を幸香の言葉が連れ戻した。けれど、私の昂ぶりは冷めない。 「あの時、私はそれができた気がしたの! でも・・気づいたら真っ白になっていた……」 「はへ?」  珍しい幸香の間の抜けた声にも私の心は揺るがない。あの時の瞬間に重なろうとしていた。 「……あの時って・・オーディションの演奏してた時だよね」 「そう!」と勢いよく沙月の言葉に乗っかる。少しびっくりしつつも大きく頷いてくれたから、沙月も私と同じものを感じてくれていることが分かる。嬉しい。 「ちょう待ってや。それがなんやっちゅうねん?」 「だから、あの演奏中・・曲が止まる前まで、私たち、最高の演奏ができてた気がした。歌いながら、曲の世界に触れた気がしたの! ・・ユッカは?」 「! ・・言われてみればそんな気がする。それって春の歌詞のとき?」 「それと夏の途中まで、だよ。春で桜に触れた気がした。そして、夏では海が見えて、浜の匂いがした気がした……」  あの時の記憶が感覚と共に甦る。 正直、演奏の出来は分からない。そんなことを感じる余裕はなかったから。 私は弾きながら、そして歌いながら、曲の中にいられた気がした。 四季を題材にした私たちのオリジナル曲「シーズンズ!」。 その春の歌詞で曲の世界の入り口に気づき、夏の歌詞で足を踏み入れた。そして、もっと先に行こうとして、突如、世界が消えてしまった。だから曲が止まった。・・いや、曲が止まったから世界が消えたのか。 その答えは分からない。だって、演奏の出来さえ分からないほどに私は私じゃなくなっていた。曲の一部になっていた気がしたから。そして何より、それが堪らなく快感だった。 「私は・・」とそれまで黙っていた七海が口を開いた。そこで一回、ゆっくり息を吐いてから、初めてあの時のことを喋りはじめた。 「私も春で桜が見えた気がした。・・でも、練習ではそんなことがなかったから怖くなって、必死で夏のメロディを思い出そうとした。でも、そうしたら全然、出てこなくて、分からなくなって、演奏を止めてしまった……」  俯く七海。そして震える声で小さく「ごめん」と呟いた。  謝る必要なんてない、と私が口にする前に幸香の言葉が滑り込む。 「ナツは悪うない! あの時、私も似たようなもんだったもん。春でペースが乱れて、夏に自分のペースに戻そうと必死やった。・・けど、それがいかんかったんやね。曲と喧嘩してしもうた。あんときは恐れずにそのまま弾き続ければ良かったんや。そうすれば、途中で止まることもなかったし、秋と冬ではもっと凄い演奏がでけたかもしれん。・・たぶん、審査員の人らが言いたかったのはそういうことだったんやない?」 「…………そうか……」  幸香の言葉がすっと胸に落ちた。それは染み込んで馴染んでいく。  私たちは、私たちだけの音楽を創る、その手前までいってたんだ。  勿論、それがどれくらい手前だったのか、たどり着いていないから分かるはずもない。  けど、私たちの音楽の核は私たちの中にもう在る気がした。  それは音と歌、それらが交ざり合う曲を通して、外へと伝わっていく。  その伝わったものが私たちの音楽だ。伝えるためのエネルギーが私たちの音楽の核だ。  それを育んでくれた島の歌を創るのは、なんて運命的で素敵なことなんだろう。  倉戸はそこまで分かっていたのだろうか。 多分、確信犯だ。だって、審査員の言葉も今なら褒めてもらっていることに気づけた。それをその時に見抜いていた倉戸は、自分だけの音楽の核を持っているのかもしれないからだ。機会があったら確かめてみようと思う。  それよりも、だ。  今は、自分たちだけの音楽を創ることに集中したい。  やばい。  音楽をもっともっと好きになってしまった自分がいる。  そして、同じ想いを抱く仲間がこんなに傍にいてくれる。  今はただ、この気持ちのままに、曲を奏でたかった。  穏やかな波を掻き分けて定期船が港に入ってくる。カモメの鳴き声が船を迎えていた。  それは見慣れた光景だったけど、今日ほどそれを心ざわめかせて眺めたことはなかった。  真夏の日差しが容赦なく肌に突き刺さる。今はその感覚も心地良い刺激に思える。おかしなテンションになっているのかもしれない。落ち着けと自らに言い聞かせる。大丈夫。いつも聴こえるジャズが心に流れた。 「いよいよだね」  私の言葉に4Sのメンバーが頷いた。  機材のセッティングはすでに準備完了。  港での歓迎ライブは開催までカウントダウンに入っている。潮風が機材に良くないのは分かっているけど、たった二曲、10分程度の時間なら問題ないだろう。船が停泊したらそれが開始の合図だ。  そして、待ちに待ったその時が訪れた。  沙月がスティックを打ち鳴らす。 ワン・ツー・スリー・フォー。 『シーズンズ!』  私たちの掛け声であり、オープニング・ナンバーのタイトルコールが港に響く。  見知った定期船の船長が海焼けした顔を面白そうに歪ませる。そして、見知らぬ顔がタラップに姿を現した。彼が倉戸の友人であることは間違いなさそうだ。他に乗員の姿はない。  そのまま、春の歌詞へとなだれ込む。  倉戸が、ビックリしていた友人を招き入れる。2、3言、言葉を交わす。きっと歓迎ライブであることを告げているのだろう。  そんなことを考えながらも、私の感覚はどんどん曲の中へと向かっていく。 それでもオーディションで感じたときほどの曲との一体感は得られない。それは今までの練習でも得られなかった。けど、それに近いところにいられている気がする。  そのまま一曲目を終えた。出来は上々。 「こんにちは、私たちは4Sです。倉戸先生の可愛い教え子です」 「自分で言うな」と倉戸が良く通る声でツッコミを入れてくれた。私たちがそれぞれの楽器を鳴らしてそれに応える。そのやり取りを友人が面白がる表情で見てくれていた。 「ようこそ、私たちの敷島へ。今日は勝手に歓迎ライブを開かせて頂きました。ここがどんな島か、見て、感じてください。紹介代わりに敷島を歌った曲を送らせて頂きます!」  練習通りの喋りを入れて、新曲にてラストナンバーのタイトルへ。 「育んでくれてありがとう」  アップテンポだった最初の曲とは真逆のスローバラードのメロディが奏でられる。  私たちの音だ。  そして、伝えるのは私たちの心だ。  この敷島への想いをただ素直に歌い、奏でる。  その心地よさに酔いしれそうになりながらも、ただそれを伝えることだけに集中する。  少しでも共感してもらえれば、とっても素敵だ。  これが私たちの音楽の核だ。 ――海に囲まれ 風に抱かれて   泣いて 笑って 時には怒って   私たちは生きる   こんなにも優しく けれど厳しくて   見守り 与えて どこまでも許して   全てはここにある   ありがとう 傍にいてくれて   ありがとう 愛してくれて   育んでくれて ありがとう……ーー   ただ、素直な気持ちを曲に乗せて私たちは歌い、弾いた。  そして最後のメロディラインが鳴り終わったとき、拍手が聴こえた。たった数人のそれが私たちにとっては満員のカーテンコールのようだった。  倉戸の家は、浜の近くの一軒家で当然の如く、庭付きだ。 島では人が住む家は一戸建て以外ないし、庭がついてないこともあり得ない。意外だったのは、庭がちゃんと整っていることだ。いつも釣りばかりしていて、他はほったらかしだと思っていたからちょっとびっくりした。家の中も綺麗に片付いていて、彼女でもいるのかと勘繰りたくなるほどだった。  倉戸の家の居間では、祝宴がはじまっている。勿論、皆川と名乗った倉戸の友人の歓迎会だ。そこに私たち4Sのメンバーも参加していた。総勢6名。やかましい女子中学生4名が集まっているのだから、静かだったのは最初の数分だけで、すぐに騒がしい宴会へと様を呈していた。 「じゃ、皆川さんはスタジオミュージシャンっていうやつなんですか?」  人懐こい七海はもう皆川と仲良くなっているようだ。皆川の柔らかい物腰は警戒心を解く力がある。倉戸の頼りなさとはまた別の雰囲気だ。 「そうだよ。野外ステージが多い夏は意外と休みが取れてね。その分、盆と正月がない感じさ。今年も盆は仕事が入っているからそれまでには帰らなくちゃね」  皆川は、泡の立った琥珀色の飲み物を喉を鳴らして美味しそうに飲み干してから「これが僕の盆休みみたいなものさ」と倉戸に向けてウインクしてみせる。これが都会のノリなのだろうか。少しキザな仕草も、皆川の全体的にスラリとした印象がとても自然に感じさせた。倉戸が同じことをしたら絶対にお腹を抱えて笑う自信がある。 「ま、ゆっくりしていけよ」 「おう」  二人のやり取りは男同士のそれで、何気ない会話なのに何故かドキッとした。  その関係性が羨ましいのかも。だって、それは女同士では作れない絆に思えたから。でも、女同士にしか作れない絆もある。だから、悔しくはない。  スタジオミュージシャンの話しや二人の関係性などの話で一通り盛り上がった後、唐突に会話は途切れた。倉戸と皆川はすっかり出来上がったらしく、飲み物も琥珀色から透明なものへと変わっていた。大人は会話の代わりにお酒を交わすのだろうか。二人は飽きることなくそれを続けている。  私たちはというと、実はずっと我慢していた。いつか、その話に話題が移るとじっと待っていた。  が、その時は訪れない。 すでに機を逸した感がある。どうしたものか、と私は仲間たちに目配せする。沙月は同じように困惑しているし、七海はこういう時に限ってヘタレの面が顔を出している。そして幸香は、今回だけやで、と目で言ってくれた。 「なー、皆川はん」 「ん? なんだい、関西少女」 「なんですのん、それ」 「だって、東北訛りの関西弁だから面白くてさ。関西に憧れてるの?」 「ち、ちゃいますよ。これは・・私のポリシーですねん」 珍しく幸香のペースが乱れる。頑張って、と心の中で応援する。 皆川は「そう」と応えてから、お猪口をグッと呷る。待っていたかのように倉戸が酌をする。 「・・で、何?」  優しく笑う皆川。その満面の笑みできっと何人もの女性を落としてきたのではないか。中学生にさえそう思わせる色香がある。正直、刺激が強い。さしもの幸香もペースがかき乱されている。それでも諦めないのは幸香の底にある芯の強さのせいだろう。三味線への拘りや関西弁を貫き通しているのもそれがあるからだ。さっき口にした通り、それが幸香のポリシーなのだ。 「え、えーと・・そ、そうや、私たちの演奏がどうだったか、感想を聞きたかったんです。プロの目から見るとどんなもんでしょうか」 「あー、そうだね・・」と皆川は倉戸へと視線を移した。それに倉戸が小さく頷く。そのやり取りが何を意味しているのかは分からない。たぶん、心の会話が成立したんだ。私たち4Sときっと同じだ。 「・・良かったよ」 「ほんまでっか」 「ああ。勿論、技術的にたどたどしい部分は見られたけど、君らの年齢で上手な方が異常だね。基礎も足りないかな」 「それって褒められてないんじゃ……」  七海がポツリと言う。それは私の呟きでもある・・いや、私たち4Sの呟きだ。 「褒めてるよ。上手な演奏じゃなかった。でも、とても魅力的だ。君たちにしかできない音楽を聴かせてもらったよ」 「……」  互いに顔を見合わせる私たち。正直、皆川の言葉をどう受け取っていいのか分からなかった。でもお世辞にしては下手だったから、本当に褒められているのかもしれない。 「納得いかない顔をしてるね」 「あ……」 「いいんだよ。そういう素直なところは無くす必要がない。・・なあ」 「そうだな」と声をかけられた倉戸が笑った。それを見て、皆川の言葉を信じていいのだと思えた。それを肯定するように皆川は言葉を続けた。 「君たちの曲を僕が弾いたら、ずっと上手に弾けるよ。プロだからね。でも、君たちが表現したものは僕にはできない」 「!?」 「だって、そうだろ。君たちが今まで感じてきたものを歌に乗せた。僕も同じように歌に乗せるけど、それは僕の表現になってしまう」 「…………」  私たちが黙ってしまったのは、皆川の言葉の中に私たちが求めたものが在ったからだ。  私たちの音楽の核。  それを皆川は見つけてくれた。感じてくれた。  そして、それを、良かった、と言ってくれたのだ。  今更ながら、私たちは最高の褒め言葉を貰ったのだと気づかされた。 「さすが、お前の生徒だよ。お前の歌みたいに、上手じゃないのにもっと聴きたいと思わせる」  皆川の言葉に倉戸は「俺は何も教えていないよ」といつものように笑った。  いつか、倉戸の歌を聴いてみたいと思ったのは私だけじゃないはずだ。  そして、その願いは思いがけないほど早く叶うことになった。  皆川は数日間、敷島に滞在した。  その間、ほとんど倉戸と行動を共にしていたようだ。すなわち、あの倉戸が生息する釣り場に皆川という生き物も加わったことになる。何を話すわけでもなく、二人で釣り糸を垂れる。一体、何が楽しいのか、首を捻りたくなるけど、たぶん、大人にならないと分からないことなのかもしれない。勿論、ずっと釣りをしているわけではなく、散策などもしているみたいで、私たち以外の島民とも皆川は顔見知りになっていた。  そして、別れの日。  倉戸の自宅で催された小さな送別会では、私たちではなく、皆川が演奏してくれた。楽器は持ってきていなかったので、ギターは七海の物を借りての演奏だ。  弘法筆を選ばず。  その格言通り、皆川の演奏は素晴らしかった。 たったワンフレーズだ。いや、もしかしたら一音なのかもしれない。 皆川の演奏は、一瞬で私たちを曲の中へと引き込んだ。それは私たちが一曲を通してもたどり着けない境地だ。  まず、感じたのは荒野。そして、そこに吹きすさぶ風、砂煙。  更に衝撃だったのは、そこに倉戸の歌声が交じったことだ。それは曲と喧嘩することなく、むしろ、更に曲の輪郭を明確にして、私たちを捉える。  それは、圧倒的な自然の中で生きる人々の強さだ。  きっと、歌詞がなくてもそれを感じることができたに違いない。勿論、歌詞があることでその助けにはなるのだろうけど。  初めて聴く倉戸の歌は、確かにお世辞にも上手いとは言えない。音がずれることもしばしばだ。それでも、プロのクオリティを持つ皆川の演奏に負けていなかった。むしろ、互いを高め合っているように感じる。これがハーモニーというやつなのだろうか。  それは、たった5分程度の出来事だ。  けど、私の心を芯から揺さぶるのに充分な5分間だった。 ――H・A・R・U   それは始まりのシーズン   桜が舞い散る学び舎に 新しい私と君   ドキドキがはじまる   N・A・T・U   きらめいてSUNさんさん   海も山も輝きはじけて 笑い声響く   わくわく超ご機嫌   Ah 季節は巡る   それでもあの時の春はもう訪れない あの夏はもう来ない   だから楽しみ尽くせ 抱きしめてキスしちゃえ シーズンズ!   A・K・I   赤く染まる森と心   恋に戸惑って小さく笑う 初めての私と君   ときめきが止まらない   H・U・Y・U   舞い降りる雪しんしん   白が私たちを包み込む 優しく許す   ほんわかな温もり   Ah 季節が巡る   傷つけて傷ついたあの秋を忘れない 癒された冬にありがとう   くたびれた恋にさよなら 新しい恋へようこそ   Ah 季節は巡る   それでもあの時の春はもう訪れない あの夏はもう来ない   だから楽しみ尽くせ 抱きしめてキスしちゃえ シーズンズ! ーー  それは私たちが久しぶりに歌った『シーズンズ!』。  私たち4Sの面々は高校生になっていた。      本島での結婚式を無事、挙げて、敷島で改めて祝言が開かれる。  島民全員が参加するこの儀式こそ、本物の結婚式だと島の人たちは言う。  そのめでたい席で私たち4Sが歌ったのは、新郎新婦から直接お願いされたからだ。  あの夏から、私たちは色々あった。特に音楽の面で。  皆川からのアドバイスもあって、私たちは島の公式親善大使となった。島の人たちは温かく受け入れてくれたけど、その提案を形にしてくれたのは倉戸だった。面倒な手続きを一手に引き受けてくれたのだ。美津江も手伝ってくれたに違いない。きっとそのときに深まった絆もあるだろう。  ネット配信が功を奏して、じわじわと人気を獲得した私たちが地方のTV局から取材を受けたのは、中学3年の頃。そして受験を終えて高校生になった昨年に、CDをリリースした。皆川の協力もあって満足いく仕上がりだった。  でも、全然売れなかった。  少し・・いや、かなりがっかりした。  それでも私たちの音楽を形にできたのはとても嬉しいことだった。  私たちの音楽は続いている。  そして、今日、こんなにめでたい場所で私たちは歌うことができた。  倉戸と美津江の結婚式で。  私たち4Sの目にも涙が浮かぶ。  それは嬉し涙だ。  でも私の嬉し涙にはみんなと違う想いが混じっていた。  そういえば、あの夏の日、歌い終わった倉戸に冗談で言ったっけ。 「見直しました。十年後、私が結婚してなかったら結婚してあげてもいいよ」って。  それが私の中で冗談じゃなかったことに今になって気づいた。  知らなかった。  気づかないうちに恋をして、気づかぬまま失恋することってあるんだ……。  私の涙にだけ、恋が混じっていた。  でも、それは私だけの秘密だ。今日、全部、出し尽くしてやる。  恋の終わりは恋のはじまり。でも、一つとして同じ恋はない。  だから、今日の涙も今日だけのものだ。  私の音楽に本物の恋の色が加わった。
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