”その文字”

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”その文字”

 教室の開いた窓からぶわりと風が吹いて、サーモンピンクのカーテンが私を取り囲んだ。 みんなの姿が一瞬見えなくなって、黄色い光が私――宮上(みやかみ) 美(み)白(しろ)を包んでいた。 「うわ、風ヤバ」 「閉めよ閉めよ」  という色とりどりの女子の声だけが聞こえてくる。  窓がスライドしていく音の後に、ぴたりと風が止んだ。広がっていたカーテンが私の身体にピタリと寄る。カーテンの端を見つけだして、カーテンから抜け出すと、私の目に、いつもの教室の映像が新しい明るさで映った。  そのとき、私は久々に“その文字”を見た。 『あの子のこと 助けてから 一部の子が あなたのこと 気に入っていないみたいよ』  ――この“文字”というのは、どうやら私にしか見えていないようだが、私が幼稚園のときから、ふとした時に、宙に浮かび上がるものだ。三秒ほどすると、すうぅっと消えていく。言ってみれば幻覚のようなものなのかもしれない。だが、この“文字”に書かれていることはどうやらこれから私に訪れることの予言・忠告となっているのだ。  私は“その文字”に対し、そう。もう嫌になるわね、と心の中で突っ込んだ。“文字”が消え、私はその奥にある現実世界をひたと見据えた。 「あはは! 美白ちゃん、大丈夫?」  二席前の女子が私に、あははと笑いながら問う。私も笑う。――が、そのとき、彼女の顔の上に再びあの“文字”が浮かび上がった。 『特にこの子のあなたに対する不満はひどいものよ』  ……このように私は、人知れず、信じていた子に裏切られたという気持ちを味わっている。小さい頃から、何度も何度も。せめて“その文字”の言っていることが嘘ならば良いのだが。信じがたいことに、その文字が教えてくれることはいつだってすべて本当なのだ。一体、いつになったら、こんな知らなくてもいいことを知ってしまうことから、抜け出せるのだろうか。残念ながら、そういう私が一番知りたいことについて、“その文字”は何一つ教えてくれない。  私は、傷ついていない振りをして愛想笑いで耐える日々にもういい加減、嫌気がさし、疲れてしまった。溢れないようにしまってきた涙も、そろそろ限界だ。  その日一日は、楽しいことももちろんあったが、どこかそのさみしさ、苦しさを忘れられないままに刻々と過ぎていった。  帰るとき、靴を履き替えようと下駄箱を開けると、「宮上 美白ちゃん♡」と書かれ、折りたたまれた紙切れが入っていた。なんだろう? と私は紙を開く。切れた蛍光灯。薄暗闇の中に殴り書きの文字が広がる。「正義の味方ぶってんじゃねぇよ。見ててイライラする。明日から学校来なくていいから」という、書道を習っていて、普段とても綺麗な字を書く子の、筆跡を特定されないようにと、必死に汚く書いた文字。――ふふふ、努力虚しくも、綺麗な字よ。と自分の心にまだ余裕があると、自分自身をだまそうとしながら私は心の中で彼女に突っ込んだ。だが私には、それが、“その文字”ではなく、現実に居る、私が友達だと思っていた子によって書かれた文字だということが、これまでにないくらい苦しかった。  私は、その紙をビリビリと破き、トイレに持っていって、水洗トイレに流した。ついでに鼻をかんだトイレットペーパーも一緒に流した。  次の日目が覚めたとき、目に映った天井に 『行かなくて大丈夫。 これからあなたの使命の場所が見つかるからね』  という“文字”が浮かび上がった。ふぅん。私に使命の場所があるんかね。じゃあ待ちましょうか、お言葉に甘えて、と心の中で言い返し、私は二度寝をした。  それからというもの、私がその中学校に戻ることは二度と無かった。ちょくちょくFAXがクラスメートから届いていたようだが、私はそれらを読まなかった。人が手書きで書く文字には、その人の本来の姿が表れる。あの手紙を読んでからというもの、それら手書きの文字が怖くなってしまってその時の私にはそれらのFAXを読むことができなかったのだ。  私が学校に行かなくなってしばらくしたある日。 平日の朝一〇時という誰も来ないような時間に突然、私の家のインターホンが鳴った。私は怖さに思わず二階の自分の部屋に飛び込んだ。 お母さんが応じる。耳をすますと、訪問者は、どこかの高校の校長であると名乗った。私は少し気になってそっと部屋から出て、お母さんとその人がリビングで話している様子を、階段から壁越しにこっそり見守っていた。 彼は現代に似合わず、シルクハットを被った、チャップリンみたいなおじさんだった。その校長とやらが鼻の下のひげをなでながら、上目遣いに、何かをお母さんに言ったとき、お母さんの顔が、はっとするのがわかった。  ――今、お母さん、何言われたんだろう。  その校長とやらが黒いステッキを振り振り帰ると、お母さんは、階段を上がって私の部屋に入り、私にその高校の募集要項を見せにきた。 「美白がどこの高校に行きたい、とか言っているの聞いたことなかったけど、もしあなたが良ければ、お母さん、美白はこの高校に行くのがいいんじゃないか、って思うの」  お母さんのその言葉に私はキョトンとその紙を見つめた。  不意に、「使命の場所、ってここ?」という言葉が私の心の中に浮かびあがった。“その文字”は何も言わない。肝心なときに役立たないやつだなぁ、と思ったが、私は、こくり、と頷いた。――きっとここだ、となぜか思ったからだ。  近頃ろくに学校にも行っていなかったこともあり、明確な進路が目に見える形で現れたのは安心につながった。  学校には行っていなかったが、通信教材を使ってしっかり勉強をしていたこともあって、私は晴れて一般入試でその高校に合格した。その高校でどんなに大変なことが待っているかも知らずに。
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