鏡の国のハルナ

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左右田華奈( そうだ はるな)は先週の月曜日から今週の月曜日(つまり今日)までの一週間で国語の授業が嫌いになった。 華奈は今まさに国語の授業の真っ最中で国語の授業が嫌いになった一番の理由である教科書の音読の順番をびくびくしながら待っているところだった。 華奈の席は廊下側でも窓側でもなく教室の真ん中に位置していて、注目を集めやすかったことも原因の一つだった。 華奈のクラスは総勢三十二人で今日は誰も欠席することなく全員出席している。三十二人が自分の座席に座って厚さ5センチの国語の教科書を開いている。 けれども真ん中の列の境にして教室の廊下側と窓側とでは子供たちの授業に対する取り組み方が違っていた。廊下側の生徒たちはすでに音読を終えている生徒たち。窓側はこれから音読をする予定の生徒たち。華奈から見ると右が廊下、左が窓。バスガイドがいればお決まりのセリフを言いながら左右で違う雰囲気を伝えてくれるに違いない。 華奈の右斜め前にいるこの世界の酒井君は教科書やノートの隅に落書きをしていた。華奈の右隣に座っているこの世界の山下さんは担任の安藤先生の目を盗んで自分の右隣のこの世界の西川君と手紙回しをしていた。廊下側の列の一番後ろの席に座るこの世界の吉永君は教科書を立てて大胆にも漫画を読んでいた。彼らは先ほど教科書を読んだのでこの授業中にもう自分の順番が回ってくることはなかった。もちろん、福田君や篠崎さんのように自分の番が終わっても、まじめに授業を受けている生徒もいた。元の世界では福田君と篠崎さんは率先して授業と関係ないことをしているのに。逆さまだった。 華奈は自分が読むであろう箇所を予測して小さな声でぶつぶつと教科書を読んでいた。 今、教科書を読んでいるのは華奈の席から数えて二つ前の中鉢君だった。この世界の中鉢君は普段から予習復習を欠かさずにやってくるタイプの男の子だったので、淀みなく、すらすらと教科書を読んでいる。華奈は以前、中鉢君の教科書を見て驚いたことがある。むずかしい漢字にはルビが振ってあったり、つまづくところには星印がしてあった。国語の教科書がまるでニュースキャスターの原稿のようだと華奈は思った。元の世界の中鉢君とは似ても似つかない。 中鉢君が安藤先生の納得のいくまで教科書を読むと、華奈の目の前の席の猪巻さんの順番になった。 猪巻さんは安藤先生に名前を呼ばれると座っていた椅子を後ろに押しやって立ち上がった。しかし、猪巻さんは教科書を読まずに先生にこう言った。猪巻さんはマスクをしていて、その声はフィルターを通した煙みたいに頼りなかった。 「今日は喉が痛くて読めません」 元の世界では風邪なんか引いたことがなく、小学校一年生から小学校四年生である現在まで皆勤賞の猪巻さんはおばあさんのようなしゃがれた声で安藤先生に申し出た。 安藤先生は猪巻さんの申し出を聞き入れた。 「では、次は左右田さん。読んでください」 丁寧な言葉遣いで無情な宣告をする安藤先生。安藤先生は元の世界では関西弁混じりの親しみやすい言葉遣いで冗談ばかり言う寝癖も直さないだらしのない三十代の先生だったのに、こっちの世界では標準語を違和感なく喋り、冗談を真に受け、身につけている白いシャツは洗濯糊とアイロンのお陰でパリっとしていた。夏休みを控えた七月の力強い日差しを白いシャツが鏡のように反射していた。 華奈は自分のことばかり考えていたので、突然起こったアクシデントに慌てていた。中鉢君の読んだ最後の一行がどこなのかわからなくなった。教科書のページを何枚かめくったり、ぶつぶつと言葉にしながら一行一行、指で文字の羅列を追った。しかし、華奈は声に出された言葉はわかるが文字になると途端に意味がわからなくなる。なぜなら華奈が見ている国語の教科書に印刷されている文字は左右逆転していたからだ。華奈の持っている教科書が特別なのではなく、他の生徒が使っている教科書も左右反転していた。 左右反対なのは教科書だけではなかった。安藤先生が黒板に書く文字も利き手も元の世界とは逆だったし、右利きのほうが珍しかった。時計の数字も進む方向も逆。太陽は西の空から登り、東の空に落ちていった。教室の後ろの壁一面に張り出されている習字の授業で書かれた『希望』という文字は鏡に映ったように左右反転していた。三十二人が書いた逆さまの希望は壁を覆い尽くして見ているだけで気持ちが悪くなった。 他の生徒たちはなかなか読み始めない華奈に視線を送る。その視線に耐えられなくなって、華奈は椅子から立ちあがる。まだ読む場所はわからない。焦れば焦る程、外国の教科書のような気がして頭に入ってこない。誰も急かすようなことはしていないが、時間が経てば経つほど教室の真ん中にいる華奈に注目が集まる。 その時、教室の窓際の最後尾にいる高木君が笑った。馬鹿にしたような笑い方だった。華奈は高木君のことが好きだった。誰にでも優しくて、華奈が男子にからかわれた時に助けてくれたこともあった。だから高木君に笑われることが一番応えるのだ。焦りは一気に悲しみといらだちに変わっていった。もう嫌だと思った。 時間にしてまだ一分も経っていないのに竜巻のようにぐるぐると華奈の内側は乱れていった。窓は割れ、木は根元から引っこ抜かれ、海はざあざあと荒れた。もし、だれかと目があったら心臓が止まって、流れなくなった血のせいで顔は真っ赤になってしまうだろう。 その時、華奈の後ろの席から小さな声が聞こえた。 「五十七ページの五行目。『その晩、ごんは考えました』から」 華奈は後ろを振り返らずに声の指示通り教科書を読みだした。左右反転している文字は読みづらくて、声に出すと日本語勉強中の外国人と同じくらい片言だった。読んでいる間周りの視線が気になって仕方がなかった。鼻の下に汗の玉が浮かんできたのは七月の暑さのせいだけではなかった。 安藤先生は華奈の姿をみかねて華奈が一行読んだところで音読を終わらせた。 「今週の金曜日に音読のテストをするから、しっかり予習しておいて下さいね」 安藤先生は丁寧な言葉遣いで指導をした。 「次、小高(おだか)君。左右田さんの続きから読んでください」 「はい」 小高君は先生に指されると椅子から立ち上がってすらすらと読み始めた。よく通る声はまだ声変わりを迎えておらず、夏の日差しのように透明な声は教室の隅々まで浸透していった。 華奈は真後ろから聞こえる声を聞いていた。 華奈は小高君に助けられたことが納得いかなかった。なぜなら、元の世界では小高君はやんちゃでいつも華奈のことをからかってくる男子の筆頭で華奈は小高君のことが大嫌いだったからだ。 華奈が左右逆転の逆さまの世界に入り込んだのは先週の月曜日からだった。 なぜこんなことになったのか華奈には分からなかった。 日曜日に眠りにつく前はいつもどおりだった。月曜日の朝眼が覚めると世界は一変していた。 華奈はリビングにある四十二インチのテレビに映るニュース番組のテロップを見たときはテレビの故障かなと思った。文字が逆さまだったからだ。 ダイニングテーブルで朝食を食べているパパに「テレビ壊れちゃったの?」と聞いてみた。 パパは「どうして?」とコーヒーを飲みながら不思議そうな顔をした。 「文字が逆さまだよ」 パパはテレビに視線を持っていく。しばらく見ると「顔を洗ってきたら?」と言った。 華奈は言われた通り洗面所に向かった。華奈は洗面台に置いてあるポンプ式のハンドソープのボトルやママが使う日焼け止めのチューブやパパが使う円柱状のシェービングフォームの缶が目についた。それらに書かれている文字もやっぱり逆さまだった。華奈は持ちやすいシェービングフォームの缶を手にとって、洗面台に備え付けてある鏡に写してみた。すると鏡の中のシェービングフォームの缶に書かれている文字は昨日まで華奈が見ていた正しい文字だった。華奈は握っている缶と鏡の中の缶を何度も見比べた。 華奈は急いで二階にある自分の部屋に戻った。 漫画、ゲーム、時計、シール帳、友達との交換日記、壁に飾ってあるアイドルのポスター。 何もかもが逆さまだった。今までお気に入りの品で埋め尽くされていた自分の部屋が急に他人の部屋のように感じた。好きの反対が嫌いであるのと同じような感覚だった。 華奈は階段を駆け下りた。リビングにいる両親に逆さまになっていることを必死になって言った。しかし、二人は苦笑いして相手にしてくれなかった。そういえば昨日二人はトイレの便座を下げる下げないをキッカケに大げんかして、仲直りをせずに寝たはずなのに、仲良く話しをしていた。 それから華奈は小学校に行く途中も文字にばかり目が行った。やはり何もかもが逆さまだった。 華奈は悪い夢を見ていると思った。 小学校から帰ってくると手も洗わずに自分の部屋に駆け込んだ。ママが一階から華奈に向かって「手を洗いなさい」と言っていたが無視した。部屋に入るとベッドに潜り込んで目をつぶった。今日眠って、明日の朝起きれば全て元どおりだと思った。しかし、逆さまの世界は一向に変わらず一週間が経った。この一週間で華奈は好きだったもののほとんどが嫌いになった。漫画も、ゲームも学校の友達も両親も嫌いになった。自分以外に自分のことを理解してくれる人がいなかったからだ。 季節は肌を焼くような日差しの照りつける夏を迎えようとしているのに華奈は雪の降る凍えるような冬の到来を感じた。しかし、華奈を温めてくれる暖炉もなければ身を寄せ合う仲間もいなかった。 どうやったら元の世界に戻れるのかを自力で探した。図書館で科学の分厚い本を読んだり、ネットで都市伝説や異世界に言った人の話を探したり、神社に行ってお参りもした。しかし、どれも手応えはなく、いつも空振りで終わった。 小学四年生にしては華奈は頑張ったほうだった。外で泣くことも誰かに八つ当たりすることもなかった。その代わりにベッドの中では枕に顔を押し付けて何回も泣いた。 苦しい国語の授業が終わると放課後になった。時計の針は相変わらず反時計回りに回っている。 華奈は机の中の引き出しから教科書やノートを取り出すと乱暴に赤いランドセルの中に突っ込んだ。ランドセルを背負うと誰よりも早く教室を抜け出そうとした。 華奈が教室から廊下に出た時に教室の中から声がした。 「左右田、ちょっとまって」 その声の主は小高君だった。国語の授業で教室中に響いたよく通る声で呼ばれると背中にボールを投げつけられたような感覚がした。 華奈は振り返ったが小高君を待つことなく下駄箱に向かって廊下を走り出した。この世界の小高君は華奈が困っているとさっきの授業中のようにいつも助けてくれた。しかし、華奈は小高君の優しさを素直に受け止められなくて、一回もお礼を言ったことはなかった。 華奈は下駄箱まで止まらずに走った。廊下で遊んでいる生徒や掃除をする先生の間をねずみのようにちょこまかと走った。先生に注意されたが無視した。そんなこと気にするくらいなら、もっと私の話を聞いてほしいと思ったからだ。 階段を一つ飛ばしで跳ねるように降りた。 下駄箱にたどり着いて後ろを確認する。小高君の姿は見えなかった。華奈の寂しさは冷たい雪のように積もっていった。「雪崩が起きてもしらないんだから」と華奈は誰かに言いたくなった。 そんなことを考えながら下駄箱で上履きと靴を履き替えて後ろ振り向くと、華奈の真正面に息を切らせて肩を上下させている小高君がいた。 華奈は驚いて勢いよくあとずさってしまった。勢い余って頭をスチールで出来た下駄箱に頭をぶつけた。下駄箱は華奈の後頭部をなぞるように少しだけへこんだ。華奈はぶつけた後頭部を両手で抑えながらその場にうずくまった。ジーンとする鈍い痛みが頭全体に広がったけれども、華奈は泣かなかった。 「左右田、大丈夫?」 小高君は心配そうに声をかけた。その声は誰よりも優しかった。華奈がこの世界にきて初めて華奈のことを心配してくれた声だった。小高君の温かい声は冷えて固くなった華奈の感情を溶かした。華奈はその声を聞いた途端に堪えていた涙が溢れそうになった。嫌いな相手の前で泣きたくなかった華奈は代わりに「誰のせいでこうなったと思ってるのよ!」と大声を出した。その声には一週間分の気持ちがこもっていて天井や壁を貫いて神さまにだって届くかもしれないほど大きかった。 体の底から声を張り上げた後、華奈はハッとして小高君を見た。華奈の怒鳴り声をまともにくらった小高君は驚いて体を少しだけ強張らせていた。元いた世界の小高君とは反応がまるで違った。向こうの小高君なら、女子からこんなこと言われたら、すかさず「うるせー! ブス!」と言い返してくるはずだ。 華奈は小高君を残して白いスニーカーをはいて昇降口へ向かった。その時、小高君が華奈の手をにぎった。驚いて振り返ると真剣な顔をした小高君がいた。小高君のビー玉みたいに澄んだ目は華奈のことをじっと見ていた。 華奈はその視線に釘付けにされた。一歩も動けない。 「ごめん、驚かせるつもりはなかったんだ」 小高君は子犬のように申し訳なさそうな顔をしながらいった。 「左右田が寂しそうだったから」 華奈は自分が雑巾になって、キツくキツく絞られている気分になった。絞られるとアーモンド型の二重の目に涙が浮かんでしまう。 華奈は下唇を強く噛んで、溢れそうな涙を必死になって堪えた。 「だから、一緒に帰ろうって言いたかったんだ」 その言葉が駄目押しになって、華奈は瞳から涙をこぼした。一度涙が流れるともう歯止めはきかなかった。一週間分の涙が次々と玉になって瞳から流れ落ちた。頬を伝ういくつもの涙の軌跡は流星群のようだった。 二人は放課後の下駄箱の前で手を握ったまま立ち尽くしていた。上級生も同級生も下級生も二人のことを見ていた。小高君は恥ずかしがることなく華奈の手を握り続けていた。 「保健室に行こう」 小高君は手を握ったまま華奈の手を引いて保健室に向かった。 保健室に入ると保険医の伊藤先生が眼鏡のツルを触りながら書類に目を通していた。小高君が事情を説明すると空いている二つあるベッドの一つを使っていいと言われた。伊藤先生は「コーヒーを淹れてくる」と言って席を外した。 華奈はベッドに座り、小高君はスツールに座った。窓が開け放たれていて白いカーテンが湿った風になびいていた。 華奈はだいぶ落ち着きを取り戻していて、嫌いな相手に泣き顔を見られたことを後悔していた。 「悩みでもあるの?」 「小高君に心配してもらいたくない」 「うーん。俺、左右田に何かした?」 小高君は本当に心当たりがない顔と声をした。華奈にはとぼけた顔に見えて、今度は怒りがこみ上げてきた。 「ブスは嫌いって言ったこと覚えてないの?」 小高君は心底驚いた顔をした。 「俺がそんなこと言ったのか?」 「言った。私をいつものようにからかってた時、山下君が『小高って左右田のこと好きだからからかってるんだよな』って言ったら『ブスは嫌い』って言って怒って帰った」 「嘘だぁ。だって俺左右田のことブスだなんて思ってない」 「本当に逆さま」 華奈はため息をついた。 小高君が説明を求めると華奈はこの一週間自分の身に起きたことを全部話した。鏡の世界のことと元の世界のこと。小高君は口を挟むことなく最後まで華奈の話に耳を傾けていた。 「じゃあ、人の性格まで真逆なんだ」 「そう。私はなぜか変わってないんだけど」 「左右田って凄いやつだったんだな」 小高君は新種の動物を見つけた動物学者みたいに目を丸くしていた。 「どうして?」 「だって、みんな元の世界では見せていなかったところが出てるのに左右田は変わっていないんだろ? それは左右田が裏表のない誠実な女子ってことだって思ったから」 華奈は小高君の言葉になんと答えていいかわからなかった。『そんなことないよ』と謙遜するべきなのか『ありがとう』とにこやかに返すべきなのか。 華奈は自分の性格をそんな風に言われたことがなかった。どちらかというと意地っ張りとか頑固者とか融通が効かないとかそういう風にしか言われたことがなかった。パパはそんな華奈の性格を茶化してくることもあった。 華奈は小高君をじっと見た。髪は短く赤みがかっている。目は澄んでいて、輪郭は卵のようにつるりとしている。身長は百五十センチメートルで少し小柄。笑うと口の端から八重歯がのぞいて見えた。 華奈はまたため息をついた。 「ねぇ小高君。小高君ってどうして私のことをいつもからかうんだと思う?」 小高君は少し考えたあと「シャイなんだと思う。左右田の話を聞いて、俺と逆ならきっと恥ずかしがり屋なんだと思う」 「小高君が言うなら間違いないね」 「だから、ごめん」 小高君は急に頭を下げた。 「ブスって言ってごめん。俺は左右田のことクラスの中で一番可愛いって思ってるよ」 華奈はベッドの中に潜り込んだ。今顔を見られたら、こっちの世界の小高君にすらからかわれてしまうくらい顔が赤くなっているはずだったからだ。 もし本当にこの世界の住人が元の世界の反対側の側面だったり、普段隠している一面だったとして、自分のことをここまで親身になって考えてくれる小高君のことをもう嫌いにはなれなかった。 華奈が小高君のことことを嫌いだった理由は「ひどい言葉を言われたからじゃなくて小高君のことを知らなかったからだったんだ」と頭に浮かんだ。 するとどこからかアラーム音が鳴った。 「ごめん、俺、今日この後弟を幼稚園に迎えに行かないといけないんだった」 小高君はそう言い残すと保健室から風のように去って行った。 「待って」 華奈は一言お礼を言いたかった。しかし、小高君はもう保健室にはいなかった。華奈は保健室の壁に掛けてある時計を見た。驚いたことに時計の文字盤は逆さまではなく元に戻っていて、時計の秒針も時計回りに動いていた。
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