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酒の臭いをぷんぷんさせて寺に入ってくる年寄りがいる。この男もお邑が住むようになってから毎日来るようになった。お邑が酒のつまみを出すのだ。
野生の畜生に餌をやるようなもので、下手に懐くだけで、彼のためにならないと弘観は言っているのだが「お前さんには関係ありません」とにらむから文句を言うのは止すことにしている。
「なんだぁ! 今日はお邑ちゃんはいねぇのかい! 身体ばっかり大きいしみったれ坊主がいたって、こっちはなんの足しにもなりゃあしねぇ!」
耳が悪いからなのか、声がやたら大きい。弘観もそれに合わせて声を大きくしなければならない。
「お邑は産気づいた女の世話に出ておる! 今晩は泊まりになるやもしれぬと伝言を受け取っておるから、分かったら家に帰れ!」
「へぇ~! あの娘は産婆もできるのかい! 知らなかったなぁ! やっぱりあんたにゃもったいねぇ女だ! いつまでも抱えとくんだったら、坊主なんぞやめちまって、所帯を持ったらどうだい?」
酔っぱらいの言うことなど真に受けることは無いのだろうが、弘観は黙ってしまった。
お邑と幸せになろうだなんて弘観は考えていない。だが、三〇手前にもなって、この寺から出ていかないお邑を不憫に思っていた。
弘観が出て行けと言ってもお邑は「お前さんを恨むためにあたしはここにいるの」と言うだろう。
年寄りはしゃっくりをしながらうなだれて言った。
「坊さんよう……あんたひでぇ人だ。お邑ちゃんのことを仲間から聞いたときは、おらぁ涙が止まんなかった……」
「お邑のこと? どのような話を聞いた?」
「やっぱりなぁ……坊さんは知らないんだな。お邑ちゃんの過去のことを……」
酔っぱらいの年寄りは酒のせいで舌が止まらないのか、お邑の昔話を語り始めた。
お邑は品川で人気の遊女だった。若かったが年増≪としま≫にも負けない色気があった。三味線を弾かせても一人前で、美しい歌声は都々逸≪どどいつ≫に合っていた。
身分の高い武士に口説かれても、惚れることはなかった。それでも一人の浪人風の男には惚れ込んだ。年が明けたら一緒になるんだと、起請文まで書いたというから、相当のものだったのだろう。
その男は長州を脱藩した浪士で、無念一刀流の達人だった。噂では尊皇攘夷運動で人斬りをしていたとのことだった。
なぜその男が深川くんだりまでやってきたのか定かでないが、弘観が坊主となっていたこの禅寺で、刀を抜くより早く袈裟斬りにされたそうだ。
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