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1 賢人はその理由を知らない。
冬の渇いた空気が、ピンと張り詰めている朝のことだ。
私が十六歳の誕生日を迎えて、一週間が過ぎた日に、空から猫が降ってきた。
通常ならば降ってくるのは少女だし、その場合は思わず親方を呼びに行かねばならない案件だろう。けれど残念ながら今、目の前で降ってきたのは少女ではない。猫である。
上空を旋回していたドローンから落とされた猫は、見事に体をひるがえした。私は慌てて猫に駆け寄り、抱きとめる。私は猫アレルギーだが、この場合は緊急事態だからしょうがない。
「大丈夫?」
抱きとめた猫は逃げようともしない。もしかして動けないのだろうか。怪我をしていないか確認するが、特にそれらしいものは見当たらない。黒い鉢割れ模様の猫は、ニャーと可愛らしい声で鳴いた。どうやら元気そうである。
「良かった」
しばらく旋回していたドローンは、飛んできた方角に戻っていき、すぐに見えなくなってしまった。
「もう誰、こんな悪さするの」
いつもならこれだけ近づいたら、すぐにくしゃみが出るはずだが、私の体に変化はない。なんだか違和感を覚えて、猫をよく観察してみる。首輪にはスマートウォッチのような、小さな液晶画面がついていた。短い文章が表示されている。
『今日から、この猫を僕だと思ってくれ』
こんなふざけたことをするのは、三つ年上の義理の兄・鬼流賢人(きりゅう けんと)だけである。
私はすぐさまスマートフォンを取り出して、賢人に電話をした。なかなか出ない。一週間前から電話をしてもメッセージを送っても、ずっと無視されていた。またスルーするつもりだろうか。諦めかけた時につながった。やっと出たと思ったら息が荒い。
「何か……用か。僕は今……電話に出るには、あまり適さない状態なのだが……ちょっと待ってくれ」
一体何をしているのだろう。電話の向こうで男の野太い声や、猫の叫び声のようなものが聞こえた気もする。だが今はそんなことを気にしている場合ではない。もっと聞かねばならないことがある。
「賢人、この猫はなんですか」
しばらく返事がなかったが、電話の向こうが静かになった。賢人が息を整えていたらしく、ようやく答えが返ってきた。
「……やっと届いたようだな。想定していたより一週間ほど時間がかかったが」
「だから、この猫はなんなのって聞いてるの」
「もう答えは出ているだろう」
「は?」
「お前自身が猫だと認識しているのなら、猫に違いない。それ以上でもそれ以下でもない」
「そういうことを言ってるんじゃなくて、なんでこんなものを送りつけたのかを聞いてるんです」
「よくできているだろ。うちの研究室が企業と共同開発してる試作品だ。前にも送っただろう。ペットロボ第三弾だ。僕だと思って適当に可愛がってやってくれ」
「意味がわかりません。賢人は人間ですよ」
「お前が今話しかけているのは、スマートフォンじゃないのか。鉄の塊に話しかけて、人間と会話していると認識できるのならば、猫型ロボットを僕だと思うことだって可能なはずだ」
「なんだその屁理屈」
いつものことだ。賢人は頭がおかしい。
私より三つ年上の賢人は、東京の大学に通っている。研究室でロボットの試作品を作るたびに、何かしら送りつけてくる。最初はハムスター型で、次はフェレット型だった。
どうやら私は試作品のモニターをやらされているらしく、ある程度使ったあとに、一緒に過ごした感想を送れという指示がくる。いわゆる家族という立場を利用した、労働力の搾取というやつである。試作品は、どれもそれなりに可愛いから別にいいのだけれど。
ただ送ってくるペットロボが、徐々に大きくなっているところを見ると、いずれ巨大な猛獣のようなモノが送られてくるのではないかという未来が予測されて、戦々恐々としているのは事実である。
ちなみに最近は小説を書くAIも作り始めたらしく、リアルな女子高生の会話サンプルが欲しいと言われて、学校での会話を盗聴しろと頼まれたが、丁重にお断りしておいた。
「あと頼みがあるのだが」
「嫌です」
「まだ何も言っていないだろう」
「どうせろくでもないお願いなんでしょ」
「やっぱりお前の学校に盗聴器をつけてくれないか」
「バカじゃないの。前にも断ったでしょ」
「女子高生キャラのAIを作るためにサンプルが必要なんだ。協力してくれ。大事な研究のためだ。女子高生のリアルな会話データがほしい」
「嫌です。それ以上バカなことを言ったら、警察に通報するからね」
「ならばしょうがない。他の手段を考えよう」
一方的に電話を切られた。
まったくもって、賢人は頭は良いがバカである。研究バカであり、シスコンでもある。始末におえないタイプのバカだと思われる。いつも巻き込まれることになる私は、大変迷惑している。
二階の窓から見ていた執事の藤堂(とうどう)が言った。
「ほう、今度は猫なのですか。ぱっと見は本物と変わりませんね」
確かによくできている。毛並みも抱き心地も、本物の猫みたいだった。
「お嬢様は、小さい頃からずっと、猫が飼いたいっておっしゃってましたし。良かったですね、夢が叶って」
藤堂の言うように、私は猫が好きである。猫映像であれば、丸一日エンドレスで見ることができるぐらいには、猫が大好きだ。なのに残念ながら、私は猫アレルギーだった。だから猫を飼ったことはない。だがロボットの猫ならば、私でも飼うことができるだろう。
もしかして賢人は、私のためにわざわざ猫型ロボットを作ってくれたのだろうか。確かに黒の鉢割れ模様と、足先が靴下を履いたように白くなっている姿は、実に私好みなタイプだった。
窓から見下ろしている藤堂の隣には、いつの間にか、姉の香織(かおり)が立っていた。
「真名(まな)ちゃん、ずっと征士郎(せいしろう)くんが、連絡を無視してたのは許してあげたら」
征士郎というのは、姉の夫だった人だ。
私の姉は半年前に、事故で征士郎さんを目の前で失った。それからずっと、少しだけ心が壊れている。姉にとっては、弟の賢人が征士郎さんに、見えているらしい。兄弟だから似てはいるが、年齢が八つも違うし、顔も性格も違う。
だが、いくら違うと訂正しても無駄だった。今ではもう誰も否定はしない。姉の前ではそういうこととして、会話を続けることにしている。
「あの人、あなたの誕生日に間に合わせるために、結構徹夜してたみたいだから」
「間に合わせるって……全然間に合ってないじゃない」
私の誕生日は一週間前だ。毎年なんだかんだで、変なプレゼントをくれる賢人だったが、今年はもらえなかった。催促をするつもりで、電話をしたが出てもらえず。送ったメッセージもスルーされた。だから密かに怒っていたのに。
賢人が徹夜していたことを、姉が知っているということは、姉への連絡はしたということだ。私の連絡は無視するくせに。やっぱりムカつく。
猫ロボットの頭を撫でると、目を細めてニャーと鳴いた。あまりの可愛さに、もうメロメロになりそうだ。
「……しょうがない。許してやるか。なんて名前つけようかな」
ぎゅっと抱きしめた瞬間、電子音が繰り返される。首輪についている小さな画面を見ると、新しいメッセージが表示されていた。『充電してください』と書かれている。私はため息をついた。
「ちゃんと充電してから送ってきなさいよ。ったくしょうがないんだから。お家で電気をあげるから、ちょっと待っててね」
猫ロボを連れて、私は家に戻ろうとした。
「気に入ってもらえたようで、何よりだ」
聴き覚えのある声が聞こえて、足を止めた。
背後に立っていたのは賢人だった。真冬だというのに、顔から大量の汗が流れ落ちている。肩掛け鞄から、見覚えのあるドローンの羽が、はみ出していた。
「マラソンでもしてたの」
「むしろ短距離走だ。飛ばしていたドローンが、カラスに攻撃されて屋根上に落ちたんだ。このあたりのカラスは凶暴だな」
「東京でしのぎを削ってる、カラスほどじゃないと思うけど。その落ちたドローンがさっきのやつ?」
「そうだ。電信柱から屋根に飛び乗って、ドローンを回収したまでは良かったんだが、パトロール中の警官に見つかってな。どうも空き巣と間違われたらしい。説明するのが面倒だったから、逃げていた」
どうりで息が荒かったわけだ。賢人は大学のサークル活動で、ボルダリングをやっているので、高いところに登るのはお手の物だ。だがいくら得意とはいえ、人様の家の屋根に勝手に登るのは、やりすぎである。
「しかも、逃げている途中で、うっかり猫の尻尾を踏んだらしくてな。さらに追っ手が増えた。野生の猫は危険だ」
何をやっているんだこの人は。私はさらに大きなため息をついた。
「バカじゃないの。この子をプレゼントしたかったんなら、普通に連れて来ればいいだけじゃない」
「普通に普通のことをして、何が面白いんだ。頭がおかしいんじゃないのか」
「普通じゃないことして、普通の人に迷惑かけるほうが、頭がおかしいよっ」
賢人が目を輝かせている。どうも頭がおかしいと言われるのを、喜んでいる節がある。また勘違いしているようだ。
「褒めてませんから。これは賞賛ではなく、ただの悪口です」
それを聞いた賢人は、下僕を蔑む王のような表情をする。もちろんこの場合、下僕というのは私のことだ。
「凡人のお前には、理解できなくても仕方がないが、頭がおかしいことをすることが、面白いんだ。多少の迷惑はそれに付随する、単なる現象にすぎない」
「あーはいはい、凡人にはワカラナーイデースヨー」
「しばらく会わないうちに、言語能力が退化したのか。可哀想に」
いちいちムカつく男である。
「いくらロボットでも、高いところから落とすとか、酷くない?」
「お前が夢の中で見た場面を、実現してやっただけだ」
「夢の中?」
賢人は肩掛け鞄からノートを出した。夏休みの絵日記と書かれている。私が小学一年生の時に書いたものだ。なんでこんなところに。
賢人が開いたページを、読み上げていく。
「空から猫が降ってくる夢を見た。鉢割れ模様の可愛い子だ。足が靴下を履いてるみたいに真っ白くて、抱っこしたらニャーって鳴いた。これが夢じゃなかったら良いのにな……」
「ちょ、ちょっと勝手に読まないでっ」
賢人からノートを取り上げた。いつの間に家から持ち出したのだろう。油断も隙もない。
「完璧に再現してやったんだ。ありがたく思え」
私ですら忘れていた夢を叶えようとするなんて、無駄に優しいことをされると腹が立つ。卑怯だ。これでは怒れないではないか。
「だいたい、今年のお正月は、帰ってこないんじゃなかったの」
「まぁ、ちょっと野暮用があったからな」
久しぶりに会えるのは嬉しいが、油断がならない。どうせまたろくでもないことを、考えているに違いないからだ。
二階の窓から、姉が笑顔で手を振ってる。
「おかえり。征士郎くんの大好きな年越し蕎麦、ちゃんと用意してあるからね」
姉を見上げた賢人の横顔は、なんだか少し寂しげだった。その理由を私は知っている。けれど賢人はその理由を知らない。
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