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改札を潜ると、大きな絵があるのに気がついた。
私は社会人になってまだ日が浅い。だから通勤にこの駅を使うようになったのも同じように日が浅く、壁にこんな大きな絵が飾ってあるというのは今の今まで気がつかなかった。
油彩だろうか。いや往来の激しい場所に飾っているのだからレプリカだろう。
しかし、床から天井までの大きな額に入った絵は、中々見事なものだった。
絵は、今まさにホームから出発しようとしている列車を描いたものだった。
左斜め奥に伸びていくホームには大勢の人が手を振っていて、列車の窓からは同じく多くの人が手を振っている。
なんというか――郷愁みたいなものを感じる。
切なくて懐かしくて、だけども底に流れているのは悲しい、みたいな……。
私の斜め前で、同じく足を止めて見上げている老夫婦がいる。
二人は私とはまた違ったものを感じているのだろうか。
絵に再び目を戻す。
列車は木製に見える。
鉄道には詳しくないが、これは相当昔、例えば蒸気機関車の時代を描いたものなのではないかと想像した。
しかし、列車の先頭にそれらしき物は見えず、かといって架線やパンタグラフの類も描かれていない。
つまりデフォルメされて描かれている、架空の列車なのだろう。
とすると、何処から来て何処に行くのだろうか。
私は絵に一歩近づいた。
絵の表面に凹凸がある、ということはやはり油彩なのかもしれない。
よく見ればひびもはいっている。
あまり絵に詳しくはないが、そのひびや凹凸の所為で列車に一種のリアリティが備わっているように感じた。
様々な人や風、雨にさらされ、鉄道職員によって磨きこまれた木製の車体。傷やひび、それに手を滑らせたなら、蓄積された歴史を指先に感じるのではないだろうか。
私がいつも乗る電車と違い、この列車は扉の影に僅かに描かれている小さな階段を使って車内に入るのだ。
車内には肩が凝ってくるような冷房や、汗の匂いを運んでくる扇風機の類は無い。
皆が手を振るために開け放たれた窓から吹き込んでくる細やかな風。それが清潔にクリーニングされた落ち着いた色のシートに座る私の頬を撫でるのだ。
やはり木製の窓枠に頬杖をつくと、駅のホームとは逆方向の窓を眺められるだろう。
嬉しい誤算だ。
何処までも青く静かな海がそこには拡がっている。
白いワンピースを着た少女が、岩場で涼んでいるのが見えた。私の一つ前の席に、会釈をしながら老夫婦が座る。
私は会釈を返し、また海を眺めるのに戻る。
波がゆったりと打ち寄せる音と、少しだけ塩辛い冷たい風。ワンピースの少女が波打ち際を走るぱちゃぱちゃという音が心に沁みた。
「お疲れのようですね」
通路の方に顔を向けると、群青色の制服を着こんだ高齢の車掌が立っていた。
「切符を拝見」
私は懐を探るが切符が無い。正直にそう話すと、車掌は、では、後で参りますのでその時に、と会釈をして老夫婦の席に向かっていった。
「こちら、よろしいですか?」
再び海を眺めていた私は、通路の方からの声に振り返った。
スーツ姿の男が立っていた。
いつの間にか満席になっていた車内。
どうやら空いているのは私の隣の席だけらしい。
男は困ったような顔をしている。
「その――お一人でおくつろぎの中、申し訳ないのですが」
いえ、お気にせずにと私は自分のカバンを膝の上に乗せ、席を作った。男はいや、申し訳ないですねと繰り返しながら腰を降ろした。
「何処まで行かれるのですか?」
男はハンカチで額を拭き、微笑んだ。私は仕事に行く途中なのだ、と答えた。
「はは、私もです。暑い中の出勤というやつは、大変ですが中々良いものですね」
良いもの?
「いや、はは、私だけかもしれませんがね、暑い中を出勤していくという行為が一種の修行みたいに感じられましてね、これを抜ければ私は一段と強くなる、なんて空想をね」
男は恥ずかしそうに笑った。私も微笑んだ。
そういう考え方はしたことが無かったなあ、と私は素直に言った。
「まあ、体育会系の考え方なので誰にでも当て嵌まるわけはないのですがね、でも、ほら! そう考えるとね、憂鬱な出勤の時間もちょっとだけ楽しくなるでしょう?」
男は私の顔を覗き込んだ。
私は目を瞬いた。
男は首を傾げた。
「ああ、違いましたかな? どうも、あなたはそういう雰囲気が漂ってましたのでね……こりゃいらぬお節介だったようで重ね重ね申し訳ない」
いや――私は言葉を濁した。
細やかな風に撫でられている自分の顔を私はゆっくりと手で覆った。
「そんなにも――酷い顔をしていましたか」
「……そうですなあ、私も普段はこんな事を初対面の人には言わないのですが、なんというか、あまりにもあまりにもだったので……」
「……そうですか」
「そうですな……」
「…………」
「…………………」
「……酷い事件がありましてね」
「……あなたにですか?」
「いえ」
「ではあなたの知人やご友人、ご家族に?」
「いえ――私とは遠い世界の人達にです。
私はその人達の創りだしたものを愛していたのです。
ところが、その人達に酷い不幸が襲いかかってしまった……まったくもって酷い不幸がです。
私はその――はは……私はその人達やご家族の心情を勝手に想像してしまっているのです。そして、世界の理不尽さに腹を立て、自分が好きな物を暴力で否定されたような怒りに駆られ、過ぎ去った過去に対し、もしかしたら自分が何かできたのではないかという妄想に侵され――どうにもならなくなっているのです」
「…………そうでしたか」
「まあ、おかしな話ですよ。世界では、いや日本だってもっと理不尽で酷い不幸がたくさんあるというのに、普段は関心すらないんですからね」
「人間は大体そういうものでしょう。そうでなければ体がもちませんよ」
「そうなのでしょうね。しかしそう考えると自分の薄情さに嫌気がさすのです。はは、まったくもって、にっちもさっちもいかないもので」
「……成程」
「そしてこうも考えるのです。私は今、本や映画の悲劇に浸るように、事件の悲しさに浸って『楽しんでいる』のではないか、と……」
さわさわと静かなざわめきが車内を満たしていた。
「もうすぐ――発車のようですな」
男がそう言った。
「そうですか……」
私はいつの間にか目に浮かんでいた涙を拭った。
「いや、お恥ずかしい所をお見せいたしました。若輩ゆえの心の迷い、青臭い男がいたと、後で酒の肴にでもして笑ってください」
私の苦笑いに男は首を振った。
「いやいや――あなたの涙を笑う事なんて私にはとてもできません。人は全て違うのです。泣く理由も笑う理由も怒る理由も人は全て違うのです」
男は立ち上がった。
私は男を見上げる。
男は微笑み会釈した。
「お話、聞かせてもらえて嬉しかったですよ。もし機会があったなら、また、何処かでお会いしたいものですね」
「え? 目的地まで隣に乗って行かれたらどうですか?」
男は不思議な微笑を浮かべた。
「個人的には――そう願いたいのですが、別の仕事が入りましてね。それと、あなたはこの列車の切符をお持ちではないでしょう?」
先程の高齢の車掌が、前の席からひょっこり顔をのぞかせた。
「お客様、残念ながら切符が無いのでしたら列車から降りていただかないと困るのです」
「ああ、でしたら、切符をすぐに買って戻ってきますので――」
男は首を振って私の手を取った。
「いやいや、切符を買うものではないのです。懐に入っているものなのです」
私は立ち上がった。
男の手を取り、通路に出る。振り返ると座っていた席はひどく魅力的だったが、ずいぶん遠くに思えた。
席に座った面々が私を見上げてくる。
皆笑っている。
だけども、なんというか――
「悲しみの向こうに笑いがある、という人がいますね。それはとても希望に満ちた言葉であると同時に、酷く残酷な言葉だ。だって悲しいのが前提ですからね」
男は私の肩に手を回し、ゆっくりと喋った。
「ですが――あなたの言うように世界は理不尽です。悲しみの先にも笑いが無い時がある」
男は車内を見渡した。
「だから、この人達にはせめてここで安心して笑ってもらいたいのです」
「……私には此処で笑う資格が無いのですか」
男は私の目を見つめた。
「あります。ですが――私個人としては、あなたには違う場所で笑ってもらいたいのです。希望です。個人の我儘です。ですが――」
男と私は列車の階段を降り、ホームに足を付けた。
「この絵を――いや、はばかりながら創作された物を代表して言いますが、こんな事に負けてほしくないんですよ」
男は私の胸に指をそっと突き立てた。
「感動する心、共感する心、楽しさ、嬉しさ、そういった素晴らしいものが負けてほしくないのです……真に勝手ながらね」
男はそう言うと、列車の階段を登った。
男は途中で振り返って手を挙げた。
「それでは、またどこかで」
丁度日の光が屋根で遮られた所為もあってか、男の目は見えなかった。
だが、その口元――淡い微笑は見てとれた。
ディフォルメされてはいたけども、その笑みには何もかもが詰まっているようで、私は目頭が熱くなっていくのを感じた。
私が座った席から移動してきたのだろうか、よく見ると、窓からあの老夫婦が手を振っている。
私は絵から一歩下がった。
頬を熱い物が流れているのを感じたが、きっと会社に着くまでには乾くだろう。
私が乗る電車がもう少しで到着するというアナウンスが聞こえ、私は絵を後にした。
了
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