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「私をあそこから連れ出してくれてありがとう。でも、もう十分」
歩き出して元来た道を戻ろうとするルミを――闇の生贄になろうとする『姫』を、しかし僕は引き止めた。
「いや……まだだ」
まだ、逃げられる。
天気が乱れたから何だ。戦争が起きたから何だ。地が暴れても、海が干上がっても、知ったことではない。
ルミが助からないなら、この世界に意味などない。
「……」
静寂が訪れる。
ルミは僕の手を振り払おうとも、振り向いて戻ってこようともしなかった。
そのとき、異変は起きた。
それまで岩場を照らしていた月の光が消え、あたりはにわかに暗くなる。
何事かと空を見上げると、そこにあったのは闇だった。
どこまでも暗く、吸い込まれるように深い、ルミを犯し尽くしていた、あの闇だ。
「……!」
ふと周囲を見回せば、あちこちにそれはあった。
木が一本倒れる。根元を闇に侵食されたらしい。それを皮切りに、次々と木々が倒れていく。
「もう、溢れてきちゃったんだ」
ルミが呟く。あの部屋から闇が溢れたというのか。ルミが離れたから? 『姫』の仕事を放棄したから?
やがて闇は拡大し、僕たちのほうへも迫ってくる。
「リオ!」
いつの間にかしっかり握られた手をぐっと引かれ、僕はルミについて走った。元来た道を、屋敷に戻る道を。
あちこちから木々の倒れる音がする。雷が鳴り始める。鳥や獣の鳴き声が響く。地面が揺れ、何度か転んだ。
斧は、置いてきてしまったようだった。
森を抜けて湖に辿り着いても、闇は追ってきた。
てっきり屋敷の中から闇が溢れ出してきているものと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
屋敷の近くには、ルミの兄――管理人が構えていた。
「ルミ姫!」
僕たちの姿を見つけると、管理人はルミを呼ぶ。そのままルミは管理人のもとへ走り込み、
「ぐぅっ!?」
後に続こうとする僕を、管理人は横から蹴飛ばした。僕はその勢いで地面に転がり、ルミの手が離れる。
「行きなさい、ルミ姫!」
言いながら、管理人は倒れた僕をさらに蹴る。痛みを堪えるのに精一杯で、ルミが行ったのか留まったのか確認することはできなかった。
「お前は……!」
仰向けになった僕に馬乗りになり、管理人は僕の服の襟をつかむ。その後ろに見える空は、大部分が闇に覆われて黒くなっている。
管理人は、襟をつかんでいないほうの拳を振り上げる。
「あの子の犠牲を!」
殴打。
「無駄にするな!」
殴打。
「……っ!」
ひたすらに、管理人は僕を殴りつけた。
「いいか、お前」
管理人は闇に染まった空を指差す。
「あれは、お前の闇だ。彼女が処理しないから、ああして出てきてしまったんだ」
空を差していたその指を、僕に向ける。
「お前の闇なんだから、自分で何とかしてみろ。彼女の仕事を邪魔するくらいなんだから、できるんだよなぁ? あぁ?!」
僕は、何も言わなかった。ルミを取り返すということ以外は、何も考えたくなかった。
やがて一息ついてから管理人が立ち上がろうとしたとき、僕は反撃に出た。
少しだけ自由になった上半身を急激に跳ね上げ、管理人に頭突きをする。
よろけた管理人につかみかかり、そのまま彼の背後に広がる闇へ押し込む。
「や、やめ……!」
抵抗する管理人だが、その背中が闇に触れる。
その瞬間、闇は彼を呑み込んだ。
それは一瞬の出来事で、僕は自分が闇から逃れるためだけに、呑まれる管理人の胸を突き飛ばした。
反動で僕は後ろに倒れ込む。自分がしたことを把握するより前に、起き上がろうと足を動かして、ふと気付いた。
右足首から先が、なかった。
「う……うわ……」
痛みが後からやってくる。
「ぐっ……」
気付いてしまってからは止まらない、激痛。
「あああああっ!!!」
足先に闇の残滓がまとわりついている。僕は全身を何とか動かして、闇から離れようとする。
だが、闇はそれ以上追ってこなかった。むしろだんだんと雲散霧消していき、星空が戻ってくる。
僕は不吉な予感を覚えながら、屋敷に向かって這っていった。
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