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以来、朝だけ大雨が降った日には、あの森の臍へ立ち寄るようにした。
親方は「お前はダメな奴だ」とか「ヒョロヒョロのガキめ」とかいったいつもの罵倒は浴びせてくるが、雨が降った日に必ず遅れることについては何も言わなかった。
きっとどうせ、僕に期待なんてしてくれてはいないのだ。いてもいなくても変わらないような仕事をしに行くよりも、「また来てね」と言ってくれる彼女のもとへ通うほうが、僕にとっては重要なことだった。
彼女とは、何回か会った。ときどき岩場にいない日もあったけれど、次に会ったときの彼女は必ず「忙しかったの。ごめんね」と笑って謝った。
「リオ、一人で暮らしてるんだ! 私もお兄様と二人なんだけどね」
「リオって、あんまり喋るの得意じゃないよね。あはは、別にいいよ気にしないで」
「リオ、いつになったら私の名前呼んでくれるの? ルミって言ってみてよ、ほらほら」
会う回数を重ねるたび、彼女は僕によく話しかけてくるようになっていった。
そんな日々は、唐突に終わりを告げた。
「あの、ね、リオ」
いつものように岩場にいた彼女は、僕の前まで来ると、おずおずと切り出す。
「もう、会えなく、なる、かも」
その言葉は、僕を揺さぶった。
「何で……」
「うんと……家の事情、というか」
彼女は歯切れの悪い回答をした。僕は納得できなかったが、それ以上どう尋ねればいいか分からなかった。
「今日は、もう、帰る、ね」
だが、辛そうなその声は、聞いていられなかった。
背を向けた彼女が歩いていった、その道を見つめる。
もう、彼女とは会えない。その事実が、僕の足を動かした。彼女の消えた道を、元来た道ではない道を、進む。
途中からほとんど獣道でしかなくなった道を、蔓に足を取られ、葉で腕を切りながら、進む。彼女はこんな道をいつも往復していたのか。
やがて森を抜けると、湖が広がっていた。鏡のような水面には、世界を反転させたように周囲の風景が映り込んでいる。
その湖畔に、古びた屋敷が建っていた。兄妹二人で暮らしているにしては大き過ぎるが、他に建物は見当たらない。
間違いなく、彼女はこの屋敷に住んでいる。
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