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 その日の夜、会社帰りに蒼空くんがやってきた。朝のメールに、体調がすぐれずに花屋さんを休むと書いたため、心配して見に来てくれたのだ。  私は、鍵だけ開けてあげると、すぐにベッドに戻って布団に潜り込んだ。 「大丈夫?」  蒼空くんが覗き込んでくる。 「気持ち悪い」  鼻の上まで布団を引き上げて言った。泣きはらした目を見られたくはなかった。それどころか、蒼空くんの声を聞いただけで、ふたたび瞳が潤んでしまっていた。  帰ってと言うべきなのかもしれない。もう来ないでと。でもそんなことが言えるほど私は強くない。もしそんなことを言おうとしたら、彼に縋りついて泣いてしまうと思う。  どこにも行かないでと、  あなたがいなければ生きていけないと、  そして、今日あったことをすべて話したら、彼はどうするだろう。きっと怒りだして今回の縁談など話を聞きもしないだろう。意地でも私と別れようとはしないと思う。  でも、それでいいのだろうか。  ふたりが望めば、私たちは結婚することだってできる。私には多少なりともお金もあるし、蒼空くんが家を出ればここで一緒に暮らしていけるだろう。  誰にも、祝福されずに。  それは本当に彼のためなのだろうか。  そんなことを考えていると、もうなにも分からなくなってしまう。そして思考が停止する。私の一番ダメなところだ。 「熱は微妙かな」  おでこに手を当てながら、蒼空くんが言った。 「さっき計ったけど37度ちょっとくらい」 「そっかぁ、風邪かなぁ」 「かも」 「クスリとか飲んだ?」 「ううん、買ってないの」 「買ってくる?」 「いい。明日も治らなかったら、お医者さんに行こうと思ってるから」  花屋さんのお手伝いは明後日も入っている。お手伝いとはいえ最近はあてにされているみたいだし、続けて休むと迷惑をかけてしまう。 「それがいいね。あ、うどん買ってきたんだ。温めるだけのヤツだけど食べる?」 「ん~」 「なんか食べたの?」 「さっき、ヨーグルトを一個」 「ちゃんと食べなきゃダメだよ。作るね」 「うん」  しぶしぶうなずいた。  テーブルに座って、蒼空くんが温めてくれたうどんを食べた。  胃がむかむかして食欲がなかったけど、せっかく買ってきてくれたものだし、なにか食べなくてはいけないというのもその通りだと思って、無理をして喉に流し込んだ。  すると、 「っ、ごめん……」  突き上げるような嘔吐感に、私はテーブルを立って流しに走った。そして、いま食べたばかりのものをすべてもどしてしまった。 「明日、お医者さんいったほうがいいね」  後ろに立った蒼空くんが、驚いた声で言った。 -----  その翌朝、私はヨーグルトだけを食べて、お医者さんへ出かけた。  他のものは食べたくないのに、なぜかヨーグルトだけはすんなり喉を通る。残っていたものを二個とも食べてしまったので、診察が終わったらスーパーで買って帰らなければならない。スーパーに行くならほかに買う物もあるし、体調さえよければ、昨日休んでしまったお花屋さんにも、急に休んでしまったことのお詫びに寄りたいと思っていた。  ところが、いざ診察を受けると、そんな予定はぜんぶご破算になってしまった。「ひょっとして」と言われて、別のお医者さんを受診するようにと言われたのだ。私は戸惑いながらも、別のお医者さんでもう一度診察を受けた。そしてそこで、「間違いありません」と言われたのだ。  私はさっそく蒼空くんにメールをして、大切な話があるので帰りに寄って欲しいとお願いした。蒼空くんからは「俺も」とだけ返信があった。なんとなく不機嫌な感じがする。そういえば、あんなに心配して帰って行ったのに、今日の朝はメールが来なかった。おかしいとは思ったけど、いまの私には深く考える余裕などなかった。  夜になると、案の定、不機嫌な顔をして蒼空くんがやってきた。 「最初に俺からいい?」  テーブルに座るやいなや彼は言った。  そして、私が答える間もなく話し始めた。 「なにを言われたか知らないけど、由梨姉は気にすることないから。俺は縁談なんか断るし、由梨姉だって、他のヤツとの再婚話なんか聞く必要なんかないからな」  きっと、昨夜家に帰って縁談の話をされたのだろう。私にも再婚話があるのだと教えられたに違いない。それで朝から不機嫌だったのだ。 「昨日、由梨姉の様子がおかしいから、変だと思ったんだ。目をうるうるさせちゃって、この世の終わりみたいな顔してさ。昼間、おじさんとおばさんが来たんだろ?だったらそう言えばいいじゃないか」 「聞いたんだ」 「聞いたよ。ぜんぶ」 「だって、なんて言っていいかわからなかったんだもん」 「そのまま話せばいいじゃないか」 「話したら怒るじゃない」 「あったり前だよ。由梨姉は怒らなかったの?俺たちふたりのことを、周りの人間にとやかく言われたくないよ。頭取の娘かなんか知らないけど、いつまでそんなバカみたいなことやってるつもりなのかな、あの人たちは」 「それでいいの?」 「いいに決まってるだろ。由梨姉はどうなんだよ?」 「そんなこと、私が言えるわけないじゃない」 「なんでだよ。言える言えないなんてそんなこと聞いてない。俺が聞きたいのは由梨姉の気持ちなんだ」  挑みかかるような目で言われて、私はうつむいた。 「私は……、蒼空くんが好き」  小さく言った。  言葉にすると、胸に熱いものが込み上げてくる。私はこの人が好きなんだと、あらためて強く思った。 「だったらなんの問題もないよ」  優しく蒼空くんは微笑んだ。  そして言った。 「結婚しよう。由梨」 「蒼空くん?」  突然の言葉に、驚いて顔を上げた。 「俺、親父とお袋に宣言してきたから。由梨姉、じゃなかった、由梨と結婚するって」 「そんな……、びっくりしてたでしょ?」 「親父には危うく殴られそうになったよ。よけたけど」 「なんて言われたの?」 「跡継ぎはどうするんだって言われた。だから言ってやったんだ、俺は家のために結婚するんじゃないって、文句があるならこの家を出るってね」  私は泣きたかった。泣いて彼に抱きつきたかった。でも、私にも彼に話さなければいけないことがある。いまの話と同じくらい、とっても大切な話。 「なら今度は私から、いい?」 「いいけど、由梨姉の話って、このことじゃなかったの?」 「違うわ。今日、お医者さんに行ってきたの、その話」 「あ、そっか。どうだったの?病気、とか?」  彼は心配そうに言った。 「ううん、病気じゃない。言われたの『おめでとうございます』って」  表情を伺いながら言った。 「おめでとう?」  キョトンとした顔をしてる。 「私、赤ちゃんができたの」  はっきりと言っても、彼は、初め意味がわからないという顔だった。  そしていきなり、 「え~っ!」  大きな声を上げた。 「具合が悪いのはつわりみたい」 「でも、由梨姉ってできないんじゃなかったの?」 「のはずだったんだけど、環境が変わったのがよかったのかも」  今日の産婦人科の検査だけでは細かなことは分からなかったが、以前の検査で不妊治療によっては可能性があると言われていたことからも、まったく妊娠できない体ではないのだろうとのことだった。さらに、ひょっとすると前の結婚で子供ができなかったのは、私だけでなく相手の男性にも問題があった可能性があると言われた。  いずれにしてもこんなことになったのは、若くて元気な蒼空くんに、いっぱい愛されたおかげであることは間違いない。 「そっかぁ、やったぁ」  蒼空くんは、無邪気にはしゃいでいる。 「でも、いいの?」 「なにが?」 「だって、みんなにとっても大事な縁談だったのに」 「大事かなんか知らないけど、ほかに子供を作ってるなんて知られたらどうせ破談だよ」 「あ、そっか」 「それに、子供さえできれば跡継ぎがどうとか言われることもないし、お袋だって喜んでくれるよ」 「良子おばさんが?」 「ああ、昨日の夜、話している間中、お袋、ずっと辛そうな顔をしてたんだ。いつも由梨姉は自分の子供みたいなものだって言ってるし、由梨姉に俺の子供ができたって知ったら、きっと味方になってくれるって」 「うん」  声を詰まらせながら、うなずいた。 「ほらぁ、泣くのは早いよ。まだちゃんと返事を貰ってないんだけどな」 「返事?」 「プロポーズの返事だよ」  蒼空くんは小さく咳払いをすると、急に真面目な顔になった。 「結婚しよう。由梨」  まっすぐ見つめる彼に 「はい」  と私はうなずいた。  歯車を失って止まっていた時計は、たしかに時を刻み始めていた。蒼空くんという大きな歯車と、私のお腹の中に生まれた小さいけど大切な歯車の二つを得て。  蒼空くんはテーブルを立つと、カーディガンを持ってきて私の肩に掛けてくれた。  そしてふたりは長いキスをした。
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