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 朝、テレビの天気予報は天気が崩れることを告げていた。寒冷前線の通過に伴い、局地的に激しい雨の恐れがあるという。  しかし、そんな予報が嘘のような、穏やかな四月の朝だった。部屋の窓からは、まだ真っ白なアルプスの稜線をはっきりと眺めることができる。これで本当に天気が崩れるのだろうかと疑いたくなる景色だ。  もっとも、いまの私には、天気など気にする必要がない。外出する予定など入っていない。今日も、明日も、そして明後日も……。 「どうしよう」  それより問題は、目の前のパソコンだ。  電源が入らないのだ。  古い機種だったが、Webとメールくらいしか使わないため、何の不自由も感じずに使い続けていた。それがよくなかったのかもしれない。壊れたなら買い換えてもいいのだが、最近もらったメールの中には取っておきたいものがある。  蒼空くんからは、バックアップを取っておくように言われていた。ハードディスクを持ってきて、紙にやり方まで書いてくれてある。ただ、パソコンには苦手意識があったし、これまで壊れた事などなかったため一度も実行したことがない。 「蒼空くんに叱られちゃうな」  そうは思ったけれど、他に頼りになる人も思いつかない。  結局、私は、彼に助けを求めることにした。  蒼空くんは五つ年下の従兄弟だ。地元の大学を出て、この地方の銀行に務めている。パソコンに詳しく、私がこのマンションに入居したとき、インターネットの設定をしてくれたのは彼だった。  携帯にメールを入れ、手が空いているときに見てくれないかとお願いすると、返事はすぐにきた。今日は休みなので午後に来てくれるとのことだ。そしてこのとき初めて、私は、今日が土曜日であることに気がついた。こちらに戻って以降、毎日なにもすることなく過ごしてきたため、すっかり曜日の感覚がなくなっている。  四ヶ月前、私は、故郷であるこの地方都市へと戻って来た。二十五歳の秋に嫁ぎ、四年の結婚生活を経たのち、夫と別れて帰って来たのだ。  とはいえ、別れたと言えばまだよくて、実際には、先方のご両親に役立たずの烙印を押されて突き返されたというのが真相だった。  理由は私の不妊にある。  結婚後、いっこうに子供ができず、先方のご両親にせっつかれて検査を受けた。その結果、原因は私の体にあることが分かったのだ。医師からは、不妊治療を施せば可能性が無いわけではないし、人工授精という手もあると言われた。しかし、一刻も早い出産を望んでいた先方のご両親、特に義母にとっては、そんな時間やリスクは受け入れがたいものだった。夫だった人は、優しいけれど気の弱い人で、母親の言うことに逆らえる人ではなかった。結局、私が合意することで、ふたりは夫婦生活に終止符を打つことになった。  これが、愛し合った末の恋愛結婚だったら、話は変わっていたかもしれない。しかし、私たちの結婚は、祖父の取引先が間に入っての見合い結婚だった。いや、見合いとは名ばかり、実際には祖父が決めた結婚だったと言えなくもない。  祖父を頂点とした私の一族は、この地方では名の通った家柄だ。そして、私が嫁いだ先はさらにそれに輪を掛けた名門の家系だった。私が嫁いだことにより、両家の間には強い結びつきが生まれた。そのことは、地方経済の地盤沈下が止まらない今、一族にとってとても意味のあることだったと聞かされている。実際、その縁が元で、この近くに巨大なショッピングモールがひとつオープンしている。  一方、嫁ぎ先が私に望んだことは、跡継ぎとなる元気な男の子を産むことだった。夫だった人が一人息子だったこともあり、先方のご両親はことさらそれを待ち望んでいた。しかし、元気な男の子どころか、妊娠すらままならない女だとわかってしまった以上、もはやあの家に私の居場所などありはしなかった。  こんなことを人に話せば、今の時代、一族のために結婚することなどあるのかと驚かれるかもしれない。もちろん私だって、身内の犠牲になったつもりはない。見合いで会った相手の人は優しそうに見えたし、実際にそうだった。懸命に尽くしたこともあって、当初は先方のご両親からも気に入られていたし、経済的にもとても恵まれた結婚生活だった。もしも、たとえ男の子でなかったとしても、私に子供ができていたら、それなりに幸せな毎日を過ごしていたことだろう。  そんなわけで私は毎日、マンションの窓から、遠くそびえるアルプスを眺めて暮らしている。  なにもすることがないし、する気もおこならない。そしてする必要もなかった。  離婚にあたって先方の家からは、贅沢さえしなければ一生暮らしていけるくらいのお金を戴いている。体のいい手切れ金だ。きっと、子供ができないからといって私を放り出すことには、良心の呵責があったのだろう。  このお金さえあれば、ずっとあの山脈だけを眺めて暮らしていける。そんな考えが良くないことは分かっている。でも、もう少しの間、そう思っている内にもう四ヶ月が経ってしまった。 -----  午後に入ってしばらくして、蒼空くんがやってきた。 「ねぇ、ご飯ない?」  部屋に着くやいなや、彼は言った。  入っていた予定を早めに切り上げて来てくれたらしく、お昼を食べていないのだそうだ。 「パソコンは見てくれないの?」  と、私が言っても、 「ご飯が先、報酬は前払い制なんだ」  などと言って、キッチンのテーブルに座ってしまった。  私はしかたなく、鍋に残っていたけんちん汁を暖め、焼いた鰺のひらきに野沢菜を添えてお昼ご飯を出してあげた。 「由梨姉ってさ、料理上手くなったよね」  言いながらけんちん汁を啜る蒼空くんを、私はテーブルに頬杖をついて眺めていた。  自分の料理を美味しいと言ってもらうのは、やっぱり嬉しい。特に蒼空くんは、美味しくなければ美味しくないとハッキリ言う。私たちはそういう間柄だったし、なにより彼は、思ったことは口にしなければ気が済まない性格なのだ。その彼に美味しいと言われるとよけいに嬉しい。  テーブルに並んだ品々は、あっという間に無くなっていった。  私は、急須でお茶を淹れてあげながら言った。 「この間、良子おばさんに会ったよ。蒼空くん、お見合いするんだって?」  良子おばさんとは、私の伯母、蒼空くんの母親だ。 「見合い?」 「うん、写真も見せてもらっちゃった」 「しないよ、そんなもん」  とたんに不機嫌そうな口ぶりだ。 「どうして?可愛い子なのに」 「そんなの、お袋が勝手に持ってきた話だろ。俺、結婚相手は自分で決めるって言ってあるんだ。勝手なことするなって」 「会ってみるくらいいいじゃない。決めるのは蒼空くんなんだから」 「一度会ったら簡単に断れないだろ。そうじゃなくても親父やお袋は、俺とその子が結婚したらいいと思ってるんだからさ」 「それは、そうだけど」  ちょっとからかってみるだけのつもりだったのに、急に不機嫌になったことに驚いていた。  彼は、ふてた口調でこう続けた。 「由梨姉のときもそうだったじゃないか」 「私のとき?」 「由梨姉の見合いのときだよ。だからあんなヤツと結婚することになったんだ。挙げ句にこんなふうに突っ返されてさ」  その言葉に思わず眉をしかめた。  私が黙り込むと、蒼空くんはそれに気づいて上目づかいにこちらを見た。 「ごめん」  ポツリと言った。 「いいよ。本当のことなんだし」 「悪かったよ。でも、急に見合いの話なんかするからだぜ。俺、その件についてはお袋のやり方に頭きてるんだ。そのうえ、由梨姉に写真まで見せたって聞いたから」 「私もごめんね。写真、可愛い子だったし、蒼空くんが嫌がってるとか知らなかったから」 「見てないよ。そのまま突っ返したから」  素っ気なく言うと、お茶を啜り上げた。  私に見合いを勧めた祖父はすでに他界している。跡を継いだのは蒼空くんの父親だ。いずれは長男の蒼空くんが、今の銀行を辞めてその後を継ぐことになる。  そんなこともあって、蒼空くんの両親は、彼の結婚相手のことを心配しているようだった。蒼空くんにはろくに女っ気もなく、つき合っている子はいないらしい。当然、結婚など真面目に考えている素振りもない。結婚相手に口を挟むつもりはないけど、今回は条件のいい子の話があったから勧めてみたのだと、良子おばさんは言っていた。  そんな気軽な話だったからこそ話題にしてみたのだけど、蒼空くんがこんなに拒否反応を示すとは思わなかった。 「それにしても、相変わらずだね」  雰囲気を和ませたくて、私はクスッと笑って見せた。 「何が?」 「蒼空くんって、すぐムキになるし、言いたいことはなんでもハッキリ言っちゃうよね」 「うん、俺ってそういうキャラだから」  蒼空くんも、戯けた口調で答えてくる。 「そういう所って、昔から変わらないなぁって思って」 「でもさ、本当に言いたいことは言えずにいるんだぜ」 「本当に言いたいこと?」 「そっ、意外とうじうじ悩む性格だったりして」 「本当かな」  クスクスと笑った。  私は、この時はまだ、彼は冗談で言っているのだと思っていた。
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