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 そのあとしばらくの間、ふたりはテーブルを挟んで話をした。  気がつくと、朝の予報の通り、空模様が急に悪くなり始めている。黒い雲が太陽を遮り、部屋の中が急に暗くなってきた。 「ほらぁ、ゆっくりご飯なんか食べてるから。雨に降られても知らないよ」  私は椅子を立って、部屋の明かりをつけた。 「ホントだ。なんかヤバそう」  蒼空くんも立ち上がり、ガラス越しに空を見上げてる。 「夜に向かって荒れるんだって。最初にパソコンを見てくれればすぐに帰れたのに」  不満な口調で言うと、蒼空くんは苦笑いをして頭をかいた。 「電源が入らないんだよね?」 「うん」 「だとすればさ、たぶん俺が見ても無理なんだよね」 「そうなの?」 「うん。メーカーに修理に出さなきゃ直らないと思うよ」 「時間かかるの?」 「今から電気屋に持っていっても、一、二週間はかかるかなぁ」 「え~っ、そんなの困る」 「毎日使ってるの?」 「毎日じゃないけど、ときどきネットスーパーで食材を買ってるの。そろそろ買わないと買い置きがなくなっちゃうし」  困った顔をすると、蒼空くんは不思議そうに言った。 「だったら買いに行けばいいだろ。スーパーくらい、すぐそこにあるんだから」 「出たくないんだもん」 「出たくないって、まさか、由梨姉って、買い物も行かずにずっとこの部屋にいるわけ?」  びっくりした顔で言われて、視線を逸らした。  蒼空くんの言うとおり、私はどこにも行かずにずっとこの部屋に引きこもっている。結婚に失敗して戻ってからずっとだ。この一ヶ月は特にひどくて、マンションを出たのは、母に呼び出されて良子おばさんを訪ねたときと、コンビニにお金を下ろしに行ったときの二回だけだ。  昔の友人には仲のよい子もいるけど、連絡を取っていないから私が戻ってきたことなど知らないはず。下手に出歩いてどこかで顔を合わせたら、理由を話さなければならない。そう考えると憂鬱になってしまう。 「もう四ヶ月だろ。いつまでもそんなじゃ、いいわけけないよ」  諭すように言われて、 「うん」  と、私はうつむいた。  これでは、どちらが年上かわからない。 「俺がついてってやるからさ、買い物に行かない?」 「今日はいい。雨、ふりそうだし」  上目づかいに言うと、蒼空くんはチラリと窓の外を見た。今にも降り出しそうな空模様を見て、言うとおりだと思ったのか、ふぅと小さく溜息をついた。 「じゃあ、今日はとりあえずパソコンだけ引き上げていくよ。帰りに電器屋に寄って修理に出しておくから。ただ、明日また来るから買い物に行くよ。いいね?」  私はしぶしぶうなずいた。  その後、蒼空くんはパソコンの所に行き、それを引き上げようとした。  私は、床のラグに小さな卓袱台を置き、その上にパソコンを乗せている。彼はパソコンの蓋を閉じ、卓袱台の下から電源ケーブルを引っ張り出そうとした。そのとき「あれ?」と声を出した。 「由梨姉、これ、電源抜けてるじゃん」 「えっ?」  慌てて近づくと、電源ケーブルの途中にある黒くて四角い箱のようなものを見せられた。どうやらそれに刺さっていたケーブルが抜け落ちていたみたいだ。ふたたびケーブルを刺すと、パソコンの角に小さな緑の明かりがついた。 「これじゃ電源が入るはずないよ」 「ごめんなさい」  肩を落として言った。 「これってノートだから、電源が外れてもバッテリがあるうちは切れないんだ。バッテリが無くなりそうになるとピーピー鳴るんだけど、気づかなかったの?」 「鳴ってたかも」  正直言うとよく覚えていない。たしか最後に使ったときは、夜遅くまでWebを見ていて、そのまま眠ってしまったと思う。朝起きたときには電源が落ちていた。 「たぶんそうだよ。スタンバイモードになってるし」  パソコンに電源を入れながら、蒼空くんは言った。 「スタンバイって?」 「使っていてバッテリが切れそうになると、状態をディスクに保存して落ちるんだ。プツンと落ちてしまわないようにね」  その言葉通り、ディスクから何か読み込んでいるみたいだ。そしてWebが開いた状態で、いきなり画面が表示された。  蒼空くんが画面を覗き込む。 「ふぅん」  彼は鼻を鳴らすと、画面の文字を読み上げ始めた。 「すると彼は、あたしの体を壁に押しつけたまま、片脚を内股に滑り込ませてきた。スカートが押し上げられ、彼の太腿があたしの股の付け根に押し当てられる。さらに強く太腿が押し上げられると、ストッキングとショーツの上から圧迫された柔らかな部分に、甘く焦れったい感覚が……」 「ちょ……ちょっとッ、なに読んでるのよ」  私は、慌ててパソコンに飛びつき画面を閉じた。  いま思い出した。たしかあの夜はWebで小説を読んでいた。内容はR18指定の恋愛小説だ。 「由梨姉もこんなの読むんだ」 「私がなにを読んでもいいじゃないッ!」  叫ぶように言うと、蒼空くんは驚いた顔をした。 「そんなに怒んなくても……」 「怒るわよ。こんなのひどいよ」  エッチな描写はあるけれど恋愛小説だし、内容は女の子向けのものだ。ただ、話の流れで自分から言うならともかく、こんな形で読んでいたことを知られるなんて耐えられない。それも、結婚に失敗して引きこもりになった女が、などと勝手に思うと、じわりと瞳の端に涙が浮かんできてしまう。  うつむいて、手の甲で目尻を抑えると、 「泣かないでよ」  蒼空くんは慌てた声を出した。  と、そのときだった。  窓の外で雷光が閃いた。  ほとんど同時に、天が落ちてきたのかと思うほどの激しい雷鳴が轟く。 「ゃっ……ッ!」  悲鳴を上げた私は、思わず蒼空くんの胸の中へと飛び込んでいた。  続いて部屋の明かりが消えた。停電だ。周囲が薄闇に閉ざされる。いつの間にか、外は夕暮れのような暗さになっていた。  エアコンが止まり送風音の消えた室内に、ベランダに落ち始めた雨音が流れた。それはすぐに激しい雨音になって、私たちふたりを包み込んだ。 「大丈夫、ただの雷だから」  蒼空くんは優しく私を抱き留めて、そう言ってくれた。  うなずこうとすると、ふたたび雷光が瞬く。 「やだ……」  私は、さらに強く彼に縋りついた。  雷は苦手だけど、いつもはここまでひどくはない。ただ、最初に落ちた雷が、あまりに突然、あまりに大きな雷だったこともあって、私はすっかり萎縮してしまっていた。  そうしてしばらくの間、暗がりと雨音の中で、私は蒼空くんの腕に包まれていた。彼の胸は思ったよりずっと大きくて、完全に男の人の胸だ。もう大人なんだから当たり前だけど、ずっと子供のときの印象を引きずっているせいか、不思議に思えてしまう。そして、その暖かくて大きな胸に抱かれていると、なぜかとても安心する。このままずっと抱かれていたい。そう思ってしまうほど、その場所は心地よかった。  すると突然、それまで優しく抱き留めてくれていた蒼空くんの腕が、ギュッと私を抱き寄せた。体が反り、胸と胸が重なるくらい、強く激しい抱擁だった。 「苦しいよ」  私は戸惑いながら、小さく喘いだ。  すると、 「由梨姉……」  蒼空くんが耳元で名前を呼んだ。  その声に切羽詰まったものを感じて、私は焦った。 「ちょっと、本当に苦しいから……」  慌てて体を引き剥がそうとした。  すると、一度腕の力が緩んで体が離れた。  ほっと胸を撫で下ろした次の瞬間、 「んっ……」  唇に柔らかなものが押し当てられた。  初め、それが蒼空くんの唇であることが分からなかった。  しかし、鼻を抜ける熱い吐息を耳にして、私はすべてを理解した。 「んッ、ぁっ……、ぃやッ!」  顔を逸らして唇を剥がし、体を捻って逃れようとした。 「好きなんだ」  熱い口調で彼は言った。 「ダメ。こんなこと……」  腕を掴まれふたたび引き寄せられそうになる。  それをふりほどこうともがいたせいで、私は床に崩れ落ちてしまった。  上に蒼空くんがのし掛かってくる。 「前も好きだったんだ。でも、今はもっと……」 「やめてッ、お願い」  部屋着のワンピースの上から、彼の手が胸の膨らみを捕らえた。  私は、あらん限りの力を振り絞って、その手を引き剥がそうとした。 「由梨姉、わかってよ」 「わかんないッ。こんなのイヤ、絶対にイヤッ!」  そのとき、パッと微かな音がして部屋の明かりがついた。薄暗がりの中から、光に溢れた室内に引き戻される。  すぐ目の前に、泣きそうな顔をした蒼空くんの顔があった。いきなりの明かりに戸惑ったように、動きが止まってる。  その顔を、私は、涙の浮かんだ目で睨みつけてやった。  彼はなにも言わずに私を見つめていた。  やがて、二の腕を強く掴んでいた手が緩んだ。  暗がりの中、嵐とともに彼を襲った激情が引いていくのを感じて、私は静かに目をそらした。 「ごめん」  蒼空くんが言った。
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