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「珈琲、淹れたけど飲まない?」
ベランダの硝子戸の前に立ち、雨を見ている蒼空くんに声を掛けた。
相変わらず雨脚は強いけれど、雷だけは収まってきている。
「うん」とうなずいたものの、彼はその場を離れようとしない。私はしかたなく、珈琲の入ったマグカップを近くのボードの上に置いた。
「ここに置くね」
もういちど声を掛けても、「うん」と生返事が返るだけ。あんなことがあった直後だけに、気まずいのだと思う。それは私も同じだ。
ずっと弟のように思って来た蒼空くんの突然の男の人としての行動に、私は戸惑っていた。
好きと言われたことには、嬉しい気持ちもある。ただそれも、どこまで本気で口にした言葉なのだろう。ひょっとすると、暗がりで私にすり寄られ、沸き上がった欲望が言わせた言葉かもしれない。
そんなふうに考え込んでしまうことで、よけいに気まずくなるのは分かっている。ただ、あんなことが起こってしまった以上、考えずにいることなんかできるわけがない。
「いまのことは、忘れない?」
思いきって彼に声をかけた。
懸命に考えた末の言葉だった。
無防備に接した私も悪かったとか、そんなふうに思っているとは知らなかったとか、言うべきかと思ったけれど言えなかった。そんなことを言えば、そもそも一人暮らしの女の部屋に、彼を上げたことが間違いだったということになってしまう。そうなると、もう彼をこの部屋には上げられない。それは、引きこもりの私にとって、かけがえのない話し相手を失うことを意味している。
いま、私の部屋を訪れる人と言えば、父と母、そしてときどき、良子おばさんのお使いとしてやって来る蒼空くんくらいのものだ。良子おばさんは、こんなことになってしまった私を気にしてくれていて、野菜だったり、お米だったり、漬け物だったりと、いろんなものを届けてくれる。彼女は腰を悪くしていて、車の運転を控えているため、運ぶのは蒼空くんの役目なのだ。きっと私たちふたりがずっと姉弟のように育っていて、気の置けない仲だと思ってのことだろう。実際、彼と向かい合って話をする時間は、私にとって唯一ほっとできる時間だった。
そんな大切な人を失いたくない。できることなら全てをなかったことにして、うわべだけはこれまでと同じように接して欲しい。それが私の願いだった。
なのに、
「俺、本気だから」
外を見たまま蒼空くんは言った。
「本気って?」
「好きだって言ったことだよ」
どうしてそんなことを言うんだろう。
私は悲しくなった。
そう言ってくれる気持ちは嬉しい。でも彼がムキになって主張したところで、どうなるものでもない。たしかに従兄弟同士なら結婚だってできるのかもしれない。でも、彼は本家の跡取りで、私は五つも年上のバツイチの引きこもり。子供ができないことを理由に、嫁ぎ先から追い返された身なのだ。ふたりの間に恋愛関係など許されるはずがない。
そもそも、蒼空くんが私を好きだと言っていることだって、同情を愛情と勘違いしているだけかもしれない。彼は、あまり女の人とつき合ったりしていないということだし、ほんの一時の気の迷いでそう思い込んでることだって考えられる。
「蒼空くんの気持ちは嬉しいよ。でも無理。もうこんな話はやめよう」
「なにが無理なんだよ」
蒼空くんは、振り返り、挑むような視線で私を見た。
「無理に決まってるじゃない。困らせないでよ」
「なんで困るんだよ。俺、昔っから好きだったんだ。由梨姉のことが。でも年下だし、学生だったし、あの頃はどうすることもできなかった。それが……」
言いかけてやめた。しかし、迷った素振りののち、ふたたび口を開いた。
「言葉は悪いけど、俺、あの男に感謝したい気分だよ。理由はともあれ、由梨姉をこうして返してくれたんだからさ。俺、来月には25だよ。由梨姉は29だろ?それくらいのカップル、世間にはいくらだっているだろ」
私は、キュッと口もとを引き締め、切なく顔を逸らした。
私が言っているのはそんなことじゃない。どうして分かってくれないのだろう。
泣きたい気持ちを必死で堪えていた。
もうこれ以上、私を苛めないで欲しい。そう神様に縋りたい気持ちだった。
あのとき、雷なんか落ちなければ、
そもそも、パソコンのケーブルが抜けたりしなければ、
なにより、私に子供さえできていれば。
「わかった」
蒼空くんに近づきながら言った。
「そこまで言うなら、あなたの気持ちを受け止めてあげる」
彼は、言葉の意味がわからないと言った顔をしていた。
私は、雨の降りしきるベランダにカーテンを引いた。
すぐ横の蒼空くんを振り返る。
一歩近づき首に手を回し、ぶら下がるようにしてキスをした。
そっと唇を離すと、驚いた目が私を見ている。
「ただし、今日だけ。一回だけよ」
投げやりな気持ちもあったことは確かだ。ただ、いまはこうするしかないと私は思っていた。こうでもしなければ、頑なな彼の気持ちは収まらない。そしてそれほどまでに、私はこの人を失いたくなかった。
「シャワーを浴びてきて」
顔を伏せながら、私は言った。
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