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 その日を境に、蒼空くんは、用事がなくても私の部屋を訪れるようになった。  そしてそのたび、私を求めてきた。  今日だけ、一回だけ。そう言って抱かれたはずなのに、私は、彼に求められると拒むことができなかった。そればかりか、密かにその時を期待すらしていた。それくらい、ベッドで過ごす彼との時間は楽しかった。  ベッドでの蒼空くんは、優しくて、暖かくて、ちょっと意地悪で、そして逞しかった。ふたりはそこで、お喋りをして、じゃれ合って、たまに喧嘩をして、そして繰り返し愛し合った。  やがて、遠い山の景色だけを見て過ごしていた毎日が、蒼空くんのことだけを考えて過ごす日々へと変わっていった。  ときどき来るメールに一喜一憂し、彼が次に来る日を指折り数えて待つ。彼の好きな料理を作るためにスーパーに出かけるばかりか、私は、近所のスポーツクラブにまで通い始めた。この四ヶ月で緩んでしまったお腹まわりを戻し、蒼空くんに少しでも綺麗な自分を見せたかったからだ。  スポーツクラブに通うようになると、すぐに友だちができた。そしてその人の誘いで、週に三回、近所の花屋さんの手伝いをすることになった。  まるで、歯車を無くして止まっていた時計が、蒼空くんという新しい歯車を得て時を刻み始めたかのように、何もかもがいい方向に動き始めていた。  私は、このまま、すべてが上手くいくような錯覚に陥っていた。 -----  そして夏が終わり、アルプスに続く高い空に秋雲がたなびくある日のこと。突然、父と母が険しい顔をしてやってきた。  その日私は、数日前から続く微熱のため、花屋さんのお手伝いを休んで横になっていた。季節の変わり目で風邪をひいたのか、頭が痛くて食欲もない。  テーブルに差し向かいに座ると、母が私の前に数枚の写真を置いた。三十半ばくらいの男の人が写ってる。 「実は、島岡の晶子さんからいい話を戴いてね」  父が言った。  晶子さんは母の従姉妹だ。教師をしていて顔が広い。私は、その言葉を聞いて、ふたりが何を話しに来たのか想像がついた。 「あなたも、いつまでも今のままってわけにはいかないでしょ」  母に言われてやっぱりと思った。ふたりは再婚の話を持って来たのだ。  相手の人は、地元のホテルに勤める三十六歳の男性だった。一年前に亡くされた奥さんとの間に四歳と二歳のお子さんがいる。ふたりがまだ小さいうえ、仕事柄勤務時間が不規則なこともあって、ずいぶんご不便をされているようだ。良縁があるならすぐにでもということらしい。 「いきなり幼子ふたりの子持ちというのも、たいへんだとは思うけどな」  父はそこまで言って、言葉を濁らせた。  その先は言われなくても分かっている。だからこそ、子供のできない私にはいい話なのだ。 「考えてみる」  とだけ言って、ろくに見もせずに写真を脇にやった。  すると、 「とにかく、会うだけ会ってみたら」 「そうだな。先方はかなりご不自由されているみたいだし」  私が思った以上に、ふたりはこの話に前向きだった。  一度会ったら簡単に断れないだろと言った、蒼空くんの言葉を思い出した。 「でも、少し考えてみたいし」  どうやって会わずに断ろうかと考えていると、 「こんな写真だけじゃなにもわからないんだ。まずは会ってから考えればいいだろ」  父は、珍しく強引な口調で言った。  そして、母に向かって、 「とりあえず、来週あたりで先方の都合を聞いてみるか」  耳打ちをした。 「ちょっと待って」  私は慌てて言った。 「まだ今は心の整理がついてなくて、もう少し時間が……」 「いつまでもそんなことを言ってられないだろ」 「会わないって言ってるんじゃないよ。ただ、いきなり話を持ってこられて来週になんて、急すぎるし……。私だって、今のままでいいとか思ってるわけじゃないけど……」  懸命に言うと、父は困った顔をした。  少しの間、会話が途切れる。  父は小さくひとつ溜息をついた。 「実は、蒼空のところにも縁談があるんだ」 「あなた……」  横から母が言った。 「いいんだ。こういうことはちゃんと言っておいたほうが」  そのやりとりを聞いて、私はやっとわかった。ふたりが険しい顔をして再婚話を持ってきたわけが。そして、その話を無理にでも進めようとしているわけが。  蒼空くんの縁談の相手は、彼の勤める銀行の頭取の娘さんだった。もともと蒼空くんの銀行と私たちの家のとの繋がりは深く、彼がその銀行に勤めていること自体、父親の跡を継ぐまでの勉強として預けられているようなものだと聞いている。繋がりをさらに深めるという意味では、この縁談は願ってもない話だ。きっと、親族のみんなが喜ぶことだろう。  たぶん、私と蒼空くんとの関係には、良子おばさんが気づいたのだと思う。蒼空くんの性格を考えても、彼の縁談を進めるためにはまずは私を説得しなければならないと思い、父や母に相談したのかもしれない。 「ごめんね。由梨」  ポツリと母が言った。  それを聞いて、私はテーブルにうつぶして泣きじゃくりたくなった。  ただ、つらいのは私だけじゃない。こんなことを告げに来る父や母だってつらいのだ。ここで私が泣いてしまったら、よけいにふたりを苦しめることになる。そう思い、私は必死に耐えた。 「今日は帰るから、ひとりでよく考えてみなさい」  父はそう言い残すと、母とともに帰って行った。  でも、ひとりになっても、私はなにも考えることなどできなかった。  考えられないんじゃない。考えたくないのだ。考えたところで、幸せな答えなんかあるわけがない。  私は、テーブルの椅子に腰掛け、ベランダの彼方にそびえる山の峰を眺めていた。
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