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空気を変える人
駅に着き、扉が開いて、私は腰を浮かしかけた。が、あるものを見て、とっさにうつむいた拍子に、また座ってしまった。扉が閉まる。
うわー、どうしよう。内心焦ったとき、その人は私の隣の席にゆっくりと腰をしずめた。───私が先ほど下車し損ねた元凶の女性である。お手入れバッチリのロングヘアにスーツ。うわっイケイケ姉ちゃんだ、怖っ!と思ったら、反射的に座りこんでしまったのだ。
まいったなー、次の駅までチック出まくりじゃん!あーもう! そこまで思ったとき、私は、あれ?と内心首をかしげた。チックのとき、頭のなかはたいてい大騒ぎ状態で、まともに物を考えるのが難しい。
なのに、ごく普通に自分の気持ちをたどれていた。まるで、アロマオイルをかいだときのようにだ。
私はわずかに顔を上げて、周囲の匂いを確認した。特に変わった匂いはしない。この時間特有の、金属的な冷たい匂いにタバコの匂いがかすかに混じっているだけだ。目の前に立っていた不審なおっさんも、いつの間にかいなくなっていた。
それを確認している間にも、チックは引いていった。
とても不思議な感覚だった。そして、なつかしい。私は、数年ぶりにリラックスしていたのだった。眠りに落ちる時にも緊張している私が、だ。
緊張を解いた魔法はどこから来たのか。
感覚的にわかった。先ほど隣に座った女性である。意識を向けると、それだけで心がさらに深く落ち着いていった。
私は頭を動かさず、サイドの髪越しに女性のスーツの生地を見た。そこいらの OL のようなテカりや毛羽立ちなど、さらさらない、地模様のある生地。深みのあるダークグリーン。組んだ脚の上に置かれた手首にかかった袖口──絶妙な袖丈。
……仕立てがいいってやつだよね?
私は視界に入っている靴も見た。だが、大人の靴のことなど、よく知らない。新品みたいにキレイなことがわかっただけだ。
こんなに大人の女性の身なりに関心を持ったのは、初めてだった。
そして確認作業を終えたとき、それらのことはどうでもよくなっていた。
私は忘れていた心の落ち着きを噛み締めた。授業中にこれだけの落ち着きがあったなら、再び勉強が大好きになってしまうだろう。学校でアロマが効かなかったときの逃避先が、カフェや屋上ではなく、ほぼ図書室というほど、学ぶことが好きだったから。
急に涙がこみ上げて、視界が滲んだ。この人みたいな人が学校にいたら。この人がそばにいてくれたら。失敗しかかっている人生を、正しい位置に戻せるかもしれないのに!
アナウンスが響いた。私の降りる駅をコールしている。
私は自他共に認める『いい子ちゃん』だ。この時間、違いのわかる身なりでこの方向──数駅前は有名な繁華街──の電車に乗っている女性に、声を掛けることなどできない。もとより、校外で自分から知らない人に声を掛けた経験自体がない。
私は、万が一にも女性のスーツや靴に花粉が散らぬよう、気をつけながら立ちあがった。後ろ髪を引かれる思いで電車を降りる。せめて、最後に一目だけ───そんな思いを押し殺して、ふり向きもせずに人の流れにのった。
階段を数歩上がったところで、ズキリと一度、胸の痛みを覚えた。それっきり、だ。
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