その電車、1人で乗るべからず

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その電車、1人で乗るべからず

 その夜も、私は疲れきった足取りで地下鉄の構内を歩いていた。通学先で生け花の講義のあった日だ。実習で使った花は、各自持ち帰って、家で復習を兼ねて生け直すことになっていた。  花に触れるのは好きだったから、生け直しの義務付けは嫌ではなかった。しかし、電車通学だった私が、ラッシュ時の電車内で花を死守するのは、おそろしく骨のいることだった。頭上の空間に花を逃がすべく、思いっきり腕を伸ばす。バド部で鍛えた腕とはいえ、退部から何年も経っている。しかも、足は爪先立ちである。筋肉がぷるぷるこないわけがない。最初のころは毎回筋肉痛。自然、ラッシュ時を避けるようになっていった。  放課後、友人と図書館に併設されたカフェでケーキを食べたり、学校の近所を散策したりして、時間を潰した。それはそれで楽しかったし、友人は下宿住まいで、「帰っても1人だから」と、私のわがままに快く付き合ってくれた。  その頃、私は家庭でのストレスから、チックという症状が出てしまうことが多かった。当時は病名さえ知らず、何科を受診すればよいのかもわからず、奇病と思いこんで、アロマテラピーで対処していた。  困るのは、登下校時だった。大量の老若男女が軟禁される車内で、アロマオイルを取り出すわけにはいかない。症状や体調によっては禁忌になる。もし誰かにとって使ってはいけないオイルだったら、あぶない。車内でチックが出たら、ひたすら呼吸法でごまかすか、いったん下車するしかなかった。  そんなある夜のことだった。夜の地下鉄にもすっかり慣れて、ホームの自販機で買ったグレープフルーツジュースをのんびり飲み干して、少し元気を取り戻した私は、アナウンスを聞きながら、次の電車に乗ることにした。  そして電車が来て、乗車した。  ほどなく、問題が起きた。席があちこち空いているのに、なぜか1人のおっさんが私の真ん前に立ったのだ。こういうときは、必ずチックが出る。不安やストレスが引き金になるからだ。わざわざうら若い女学生の前に立つ、不気味なおっさん。私は花を覆った不透明のシートから、花がのぞかないように気をつけた。話題を与えてはいけないと思ったからだ。  困ったのは、チックだ。徐々にひどくなり始めていた。私は次の駅でいったん下車しようかどうしようか、迷いながら、扉のほうへ目をやっていた。
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