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「実は婚約したってわけでもないみたいなんだ。正式な返事はもらってないんだって。親父は昨夜こそ決めたかったらしいけどね」  レストランではあきれるほどはしゃいでいたくせに、奈緒を送り届けてから帰宅した父は顔色も悪く、がっくりと肩を落としていた。風呂に入った後、いつまでもリビングでぼんやり座っているので、見かねた拓海が寝室に引っぱっていったくらいだ。彼女が迷っていると聞かされたのは、その後だった。 「何だよ。じゃあ、チャラになる可能性もあるってことか」 「いや、それは」  拓海は反射的に首を振った。  そんな可能性は考えたくもない。気恥ずかしくなるほどうれしそうな笑顔も、この世の終わりのような落ち込みようも、拓海にとっては初めて見る父の姿だった。奈緒に夢中なのだ。もうすぐ五十だというのに、そのへんの中学生よりずっとわかりやすい。けれどそんな父を応援したい一方で、奈緒の気持ちも理解できる気がした。  ずいぶん年が離れていて、バツイチで、おまけにでかいコブつきだ。今どき二十八の未婚女性はいくらでもいるし、まして奈緒みたいな女性ならもっと好条件の縁談がいくらでも選べるはずだった。たとえ父の見た目がまあまあで、穏やかで、年収がそこそこあったとしても、確かに悩むだろう。  そこまで考えた時、拓海は愕然とした。 (まさか)  もしかしたら自分が一番のネックになっていたりして。  高校三年生――けっこう難しい年齢の、しかも死別した先妻によく似た男が義理の息子になるかもしれないのだ。自分が奈緒でも、やはり気になる。もしかして今までは盛り上がっていたのに、昨夜の出会いで結婚を迷い始めたのだとしたらどうしよう?  服装も髪型も事前にチェックしたし、態度にもずっと気をつけていたつもりだ。それでも無意識に何か変なことを言ったり、したりしたのだろうか? 奈緒をためらわせてしまうようなことを? (うわ)    そもそも存在からして三割増しくらいのペナルティだというのに。まさか、あの時かすかに違和感を覚えてしまったことがわかってしまったとか。そういえば彼女、勘が良さそうだったし。  もうため息さえ出てこなかった。知らず知らずのうちに拓海はしかめ面になっていく。 「タク、そっちは校門」  いきなり順にシャツのえり首をつかまれて引き戻された。考えこみ過ぎて、校舎と反対の方角に行こうとしていたのだ。子猫を扱うように拓海をとらえたまま、順が言った。 「今日の放課後、バッティングセンターな」 「は?」 「最近どうも体がなまっちまってさ。たまには付き合えよ。タクも勉強ばかりして、いろいろたまってるだろうし」 「別に何もたまってない。塾もあるし」 「いいから行こう。お前なんか半年以上、バット握ってないだろ」  黙ったままでいると、ゆさゆさと大きく体を揺さぶられた。 「わかった! わかったから」  ようやく順が手を離し、拓海はほっと息をつく。その横を下級生たちがクスクス笑いながら通り過ぎていった。 「見ろよ、順。笑われたじゃないか」 「いいから、いいから。あ、そうだ。沙織も誘っていい?」 「いいよ。好きにしてくれ」  苦笑いしながらも、拓海は大きく頷いた。  順の体は全然なまってなんかいない。今でも毎朝欠かさずランニングしているのだから。それをわざわざガールフレンドの沙織まで連れて行こうとするのは、彼女の明るさで場を盛り上げるためだろう。そうやって、情けない顔でため息ばかりついている自分を励まそうとしているのだ。 「そういえばお前、三組の早瀬って知ってる?」 「早瀬? うーん、どうかな。たぶん知らない」 「けっこうかわいい子だぜ。タクのこと、かなり気にいっているみたいなんだ。ダブルデートを計画しろって、沙織がうるさくてさ」 「悪い。オレ、そういうのあまり――」  背後に気配を感じて、拓海はすばやく体を捻った。順の手が大きく空を切る。 「ばーか。何回も同じ手は食わないよ」
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