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5.waltz(ワルツ)
零時になった。
私はあのウエディングドレスをまとい、自宅の門の前に立った。肌寒い夜気はシルクを通して私の体に忍び寄って来た。夜空には月の一つもない。私は、自分がこの世にただ一人取り残されてしまったような気分に襲われた。「あのひと」ばかりではなく、父も母も姉も、全ての人という人が私を置いて何処かに行ってしまったのではないか、と。
「お待たせいたしました」
いつの間にか、黒服の少年がそこに来ていた。夜の闇の中で、彼の美貌はこの世のものとは思えぬ程際立って見えた。
この世のものではない?
黄昏時には魔が出ずると言う。彼こそは彼岸と此岸の間から来た魔物なのではないか。
「私の後よりおいでください。どうかはぐれませんように」
夜の道を、彼は迷う様子もなく歩いて行く。少し早足なので、彼の背中を追うだけで精一杯だ。何処をどう歩いたのかも判らない。同じ所をぐるぐると回っているようにも思える。
と、彼の足が不意に止まった。
「到着いたしました」
両開きのドアを、ゆっくりと開ける。
「先程よりお待ちです」
闇に慣れた眼には中の灯りは眩しすぎて、誰がいるのか判別出来ない。
私は、建物の中に一歩足を踏み入れた。
誰か──人影が、広いホールの中に一つ。
軍服を着た後ろ姿。
その人物がこちらを振り向いた。
「小夜子さん。随分待たせてしまいました」
「……道隆……さん!」
その顔を忘れたことはない。私の待ち人。ここにいる筈のない人が、私の前に立っていた。道隆さん。
レコードだろうか、何処からかワルツの音楽が流れて来る。道隆さんの好きだった曲だ。音楽に誘われるように、私はそのひとに近づいた。
道隆さんが私の手を取った。手袋越しに確かな感触があった。
「──あなたなのですね、道隆さん」
やっと会えた。あなたに、やっと会えた。これが夢でも、魔物の仕業でも、かまわない。このひとに会えたという事実だけが全てだった。
しかし道隆さんは、少しばかり哀しげな表情で私を見ていた。
「道隆さん……?」
「すまない、小夜子さん」
思いがけない言葉が相手の口からこぼれた。
「あなたも薄々は気付いている筈だ。……僕はもはや、この世のものではない」
握り締める手は確かにここにあるのに。
「僕をいつまでも待ち続けるあなたに、別れを告げに来たのです。このワルツの最後の一音が終わるまで、僕はここにいられる」
ワルツがこんなに哀しく聞こえたのは初めてだった。道隆さんが私を抱き寄せる。私達は何も言わず、ステップを踏んだ。終わらないで。終わらないで、旋律も、この時間も。私はこの時ほど、永遠を望んだことはなかった。
音楽は無慈悲に進んで行く。一小節ずつ、確実に。
終わる。曲が終わりに近づいて行く。道隆さんが行ってしまう。離れたくない。せっかく会えたのに。だけど……。
「小夜子さん」
旋律の向こうから、道隆さんの声が忍び込んで来た。
「本当のことを言うと、僕はあなたを離したくはない。このまま冥界に連れ帰りたい」
ならば連れて行って欲しい。このまま息絶えてもかまわない。
「しかし、あなたはこの世のものだ、連れては行けない。だから、約束しましょう、小夜子さん。あなたがこちらに来た暁には、きっとあの世で婚礼を挙げることを。永遠にあなたの夫であることを」
──涙が、出て来た。その言葉をもらえて嬉しいからなのか、別れが近づいて哀しいからなのか、私自身判らなかった。そんな私をなだめるように、道隆さんは私を抱き締めた。ワルツは既に最終パートにかかっている。あと少し。もう少し。
ワルツの最後の一音が、ホールの空間に響いた。
しばしの余韻さえなくなったその時。
頭の上から声が聞こえた。
「……幕は降りた。さあ、帰って来いよ」
「──朝子」
わたしは顔を上げた。チェシャキャットの笑顔がわたしに微笑みかけた。
この笑みはよく知っている。この笑みの持ち主は──
「……木野君」
名前を呼ぶと、彼は会心の微笑みを漏らした。
拍手の音が聞こえた。見ると、何処にいたのか、演劇部の部員達が次々と姿を現している。さっきまで確かにホールだった空間は、瞬時に星風学園の体育館に変わっていた。全て巧妙に作られたセットだった。
わたしは部員達の中に、ひときわ薄い色の髪の持ち主を探した。副部長、戸田基樹。木野友則がつけた二つ名が「大道具の魔術師」。大道具関係を一手に取り仕切っている。友則曰く「俺の知ってるうちで一番腕のいい大工」だそうだ。基樹は部員達の一番後ろで満足げに手を叩いていた。
「お疲れ様」
黒い服を着た大江賢治が、わたし達に声をかけて来る。死神の使いかとも思えた黒服の少年は、今は人懐こい笑みを浮かべている。
「ほい、お疲れさん。観客がこいつらだけしかいねーってのが惜しいがな。──おーい、そろそろ後片付けにかかってくれや!」
友則の号令に、皆はめいめいセットを片付け始めた。わたしはというと、未だに状況がつかみきれずに呆然としていた。友則がわたしの方を見た。
「気分はどうだい? 朝子さん」
「え? ……ええ、大丈夫よ」
「自分の名前、言える?」
「──河村朝子」
「よく出来ました」
わたしは自分の着ているウエディングドレスを見た。何だか全て判った気がした。自分に何が起こっていたのか、わたしは全て理解した。そういうことだったのだ。
眼鏡をかけた長身の青年が近寄って来た。芦田先生だ。青年教師は友則に向かって言った。
「見事な“落とし”でした、木野君」
「さあて、何のことかな? 俺はただ演技をしただけだけど」
友則はしれっとした顔で答えた。
「俺は一介の俳優だ。それ以上でも以下でもない。──それより、後お願いしていいかな。俺は朝子さん送って行くんで」
「はい、判りました。後は任せてください」
「お願いします。じゃ、朝子さん、行こうか」
友則とわたしは連れ立って体育館を後にした。
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