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冷蔵庫を開けて、一晩寝かせたクレープ生地を取り出した。
フライパンの上に手をかざして、加熱の具合を確認する。
これだけの量があれば、クレープを百枚、作ることができる。一枚一枚の間に、これもまた冷蔵庫の中で眠っているクリームを挟み込み、ミルクレープの完成だ。百枚ものクレープを重ねると、どんなミルクレープが出来上がるのだろう。見たことのない風景の予感が、僕の胸をときめかせた。
ガス台の前に掛かっているレードルを手に取り、ボウルに入れる。これ一杯でちょうどクレープ一枚分。気持ちが昂る瞬間だ。滑らかな生地がレードルを受け入れ、静かに生まれる波紋が、美しい円形のクレープを予感させる。
コツン。
レードルの先に、何かが当たった。
コツン。ズシ。
もう一度入れ直そうとレードルを取り出すと、中に小さなペンギンが乗っていた。ペンギンの頭には小さなタオルが折り畳んで乗せられていて、くつろいだ表情を浮かべているように見える。
「あの」僕は、相手が動物であることを忘れて声をかけた。「これは、僕のクレープ」
すると、ペンギンはひどく驚いた表情を浮かべ、しかし、それは下手な演技としか言いようのない誇張された驚きで、僕はかえって申し訳ないことをしてしまった気分に陥った。
「いや、これは、大変申し訳ないことを」
ペンギンは驚きを取り繕いながら――いや、驚きが演技である以上、その取り繕いもまた偽りなのだが――タオルを手にとって、恭しく頭を下げた。
「いや、そういうつもりでは」僕もまた頭を下げる。「すみません、おくつろぎのところを」
「こう言っては何なんですが」僕が下手に回った隙をついて、ペンギンはタオルを頭に乗せ直して、胸を張った。彼が何という種類のペンギンだったか思い出しそうだったのに、頭の中から消えてしまった。
「あなたのクレープとおっしゃる、このボウルの中の液体。見たところ、まだ、クレープにはなっていないようですが」
「これから焼くんですよ」
「それなら、まだあなたのクレープとは言えませんね。この乳白色の海の主として、私にはこの生地の行く末を見届ける義務があります」
今、はっきり「生地」と言ったな、と思いながらも、ペンギンに見守られながら焼くクレープがどのようなものになるのか気になった僕は、「それでは」とレードルの中の生地とペンギンを小さなボウルに移し、ガス台の脇に置いた。
「焼かせていただきます」
熱の入りすぎたフライパンを濡らした布巾の上に置き、落ち着いたところで火に戻した。油をひいて生地をレードルから流し入れ、均一な厚みになるように左手を回して調整する。生地からうっすら蒸気が上がり、円形の縁がパリパリと固まっていく。キツネ色に変わったところで竹串で少し剥がし、両手でひっくり返す。
「見事」ペンギンが両手を叩いて称賛する。オットセイみたいだと思ったが、ペンギンにとってオットセイが褒め言葉になるのか自信がなかったので、ありがとうと言うに留めた。
一枚一枚、クレープが積み重なる度、ペンギンは全く同じ感動を表現した。
「同じ作業をずっと見ていて、飽きませんか」ペンギンの様子に不思議を感じた僕がそう聞くと、
「あなたは、クレープを焼くことに、飽きるんですか」と言う。なるほど、それもそうだと納得している間にも、クレープはキツネ色に変わっていく。
一時間もしないうちに、クレープ生地は百枚のクレープに変わった。うずたかく積み上がったクレープを見上げて、賛嘆の声を上げるペンギンに、
「クリームを挟むので、もっと高くなりますよ」
と言うと、ペンギンは頭のタオルを外して口元のよだれを拭った。僕は見ないふりをして、冷蔵庫から生クリームを取り出すと、スパチュラを中に入れた。
コツン。
スパチュラの先に、何かが当たった。
コツン。カシ。
スパチュラを引き抜くと、灰色の毛に白黒模様の顔をしたペンギンの子どもがしがみついていた。
「この子は」
「きめの細かいクリームを、どうもありがとうございます。おかげで、この子もぐっすり眠ることができました」ペンギンは、やはり頭を下げた。
「まだ、眠そうですが、クレープを掛けておきましょうか」僕がクレープを一枚取り出し、皿の上に寝かした子ペンギンの上に書けようとすると、ペンギンは右手を上げて制した。
「もう、起きる時間です。甘やかしてはいけません」
言いながらボウルから這い出すと、皿の上に乗った子ペンギンの上にダイブした。子ペンギンは「うげ」などと声を上げたが、すぐに起き上がり、自分の倍はあろうかという父の体に一生懸命抱き着いた。
僕は皿をもう一枚出すと、クレープを広げた。上にクリームを適量乗せ、スパチュラで平たくなるように伸ばした。すぐにもう一枚を上に乗せ、やはりクリームを広げる。気づくと、ペンギンの親子は僕の作業に釘づけで、一段積み上がる度に、賞賛の拍手をくれた。
ミルクレープはどんどん高くなり、終盤ではスツールの上に乗って作業した。その様子がサーカスにでも見えたのか、子ペンギンは僕の不安定な足元をはらはらしながら見つめていた。
「できました」
「ほう、これは」
手をつないだ親子のペンギンは、皿から出てきて、ミルクレープの山を登攀し始めた。その手でどうやって、と思ったが、なかなかどうして器用に上っていく。子ペンギンも、親の作った道を後ろから危なげなくついていき、しばらくすると二匹とも頂上を制覇した。
「ミルクレープの『ミル』、というのは、フランス語で『千』を表すと聞きます。これでは、いいところサンクレープですね。『サン』というのは日本語の『三』ではなく、フランス語で『百』を意味するわけですが」
そんなことを言いながら、ペンギンは両手で器用にタオルをねじり、鉢巻きにして頭に巻いた。手を頭の後ろで組み、おもむろに寝そべる。隣では、同じ姿勢で子ペンギンが横になる。僕の方を見ながら、どこか誇らしげな表情だ。
ペンギンの乗った「サンクレープ」は、そのまま冷蔵庫に仕舞った。こうしておけば、流氷のように南極に流れ着くだろう。そこには、奥さんが待っているのかもしれない。
僕は、ペンギンを入れていたボウルに、レードル一杯分の生地が残っていることを思い出した。フライパンに火を入れ、油を薄くひき、その生地を流し入れた。フライパンを回しながら円形を作ろうとするが、右上が欠けて埋まらない。
なるほど、ペンギンの体積分、生地が少なかったのだ。
僕は、欠けた月のようなクレープに残ったクリームを乗せ、布団のように折り畳み、一口で食べてしまった。
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