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Ⅳ 明星
ネイサンドルがレティシアを買ったのは、たしかに気まぐれだったかもしれない。無理やり連れて行かれる悲痛な声を聞きたくなくて、気づけば金貨を差し出していた。
四年も経つと、あの頃は自分も幼かったと思う。ほんの数時間で、外の世界を「見たつもりになっていた」おめでたい子供だったと思う。
後宮の本当の意味を知りもせず、ただ、寝食があり、安全だからという理由で彼女を預けたのも、考えが足らなかった。例えるなら拾ってきた猫を保護したような感覚だ。
レティシアとはその日以来、言葉を交わすことはなかったが、馬屋とテラスの距離は互いに笑顔を交わす度、縮んでいく気がした。彼女の方はわからないが、少なくともネイサンドルはそう思っていた。
父王から隣国王女との縁談を初めて告げられた数日後、後宮から女がやってきた。
残念ながらレティシアではなかった。兄フリードと同じ年頃の女は、彼に寝所での妻への扱いを教えにきたのだった。
その経験は、別の衝撃を彼にもたらした。
レティシアも異母兄たちのものになるかもしれない。
自分勝手な話だが、彼女には誰にも抱かれてほしくなかった。焦燥からか、唯一信用しているフリードにレティシアの存在を話してしまった。
その時、彼女に恋していることを兄の言葉で逆に気づかされた。
とにかく話すことすらままならない状況で、ネイサンドルはただ、自分の想いを伝えたい一心で母の形見を渡した。
今春のことだ。宮殿の隅々で花が強く香っていた。
レティシアの反応が怖かった。受けとった包みの中の首飾りを見た瞬間、彼女はその場にしゃがみこんだのか、突然消えて、見えなくなった。
気になり、名前を呼びそうになっていた時、彼女の姿が現れた。
レティシアは涙を流しながら、微笑んでいた。
蜜のような色の瞳が瞬くたび、長い睫毛にはじかれた涙が薔薇色の頬に、豊かな長い髪へと落ちていく。
とても美しかった。
あれからおよそ半年が経った。
一週間後、ネイサンドルは隣国を訪問するよう父王に命じられていた。彼も今では、この結婚が国にとって重要であることをわかっていた。
一方で、何もかも捨ててしまいたいという思いは日に日に強くなっていく。
寝台で眠れずにため息を繰り返していたネイサンドルは、突然訪ねて来た兄フリードの声に驚いた。
「早く入れろ」
「……何なんだ? 兄さん。真夜中に」
ネイサンドルは不機嫌ながらも、扉の閂を持ち上げた。
その瞬間、まるで夜盗のようにフリードは中に押し入ってきて、扉を閉めた。
月明かりだけの薄暗い部屋で、兄は突然、肩に抱えていたものをネイサンドルに渡してきた。反射的に受け止めたが、白い布のようなものに包まれた何かは意外に重く、ネイサンドルはあわてて抱えなおした。
柔らかさに驚いた。しかもわずかに動いた気がする。
「灯りをつけるぞ」
混乱するネイサンドルを尻目にフリードは側にあるランプの芯に火をつけた。
「布をはいで、中を見てみろ」
兄の表情は厳しかった。ネイサンドルは言われるまま、布をはぎ、その顔を見た。
豊かな髪を震える手で払い、さらに確認する。
「……レティシア」
彼女は何も答えず、あの日のように瞳からあふれだしそうな涙を抱えていた。
「お前のために……彼女は九人の王子を殺した。そして私も殺そうとした」
信じられない言葉がフリードの口から告げられると同時に、レティシアの瞳から涙がこぼれ落ちた。
フリードは淡々と事実を述べていった。全ての殺人について、レティシアは首を横に振ることはなかった。
「そんな……嘘だろう?」
ネイサンドルの悲痛な問いかけに彼女は初めて首を横に振った。
「私が彼女をここへ連れてきたのは、お前に彼女を裁かせるためだ」
フリードはいつになく冷たい声でネイサンドルに告げた。
「酷いよ……兄さん。俺にそんなことできるわけないだろう?」
ネイサンドルの声も尖った。上掛けをきつく巻きつけられ、身動き取れないレティシアに両手を回し、強く抱きしめていた。
レティシアはあいかわらず何も言葉を発しない。彼の肩に彼女の涙に濡れた頬が置かれたのを感じた。
「そんなことで揺らぐようでは、国を束ねる器ではないな」
「…………」
ネイサンドルが答えられずにいると、フリードは片頬を歪めて笑った。
「まあ、こんなことをしているのだから、私も同じだ。このような重罪人に同情しているようでは。甘いのだろうな。たぶん兄なら、その場で斬り捨てる。あるいはアデレードなら、彼女を裸のまま縄で縛りつけ、街中引き回すだろう。……あいつは嫌な趣味がある」
フリードの言葉にネイサンドルは震えた。
「私は……これから部屋に帰って寝る。この女のことは追及されるかもしれんが、一人いなくなろうと、すぐに騒ぎも収まるだろう。後宮を逃げ出す女も年に二、三はいると聞くからな」
驚く二人に背を向け、フリードは戸口へ向かって行く。
「言うまでもないが、お前は全てを捨てるのだよ。私と国を束ねていく夢も……まあ、兄たちの影でだが。私は自分でも参謀の器だとわかっている。できればお前も一緒にと思っていたが、もう無理なのはわかるだろう? もしも未練があるのなら、私が今、この場で彼女を斬ってやろうか?」
フリードは半身をこちらに向け、暗い目で問うた。
ネイサンドルはレティシアを両腕に抱いたまま、ゆっくり首を横に振った。
「わかった。ではお別れだ。愛しい弟よ。お休み」
扉が閉められ、二人は残された。
「申し訳ございません。あなたの夢をつぶすなんて……」
ようやく言葉を発したレティシアに巻かれた布をほどきながら、ネイサンドルは微笑んだ。
「四年ぶりに話すことが、それではあんまりだ」
涙で濡れた頬や唇に口づけながら、ネイサンドルは続けた。
「お前は俺が金貨五枚で買った。罪もお前ごと一緒に買ったのだ」
数刻後、空が白み始める頃、馬に乗ったネイサンドル王子が宮殿を出て行った。
馬の尻に乗せた丸められた大きな敷物が気にはなったが、見張りの従者たちは、王子の「隣国の王女への贈り物だ」という言葉に納得した。王子が結婚を控えているのは、今や宮殿中の噂になっている。
ただ、このような早朝に隣国へ向かう理由はわからなかった。下々にはわからない事情なのだろう。そもそも子供の頃から、気まぐれに出入りする王子だった。
白い空には、かすかに明星が光っていた。
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