Ⅰ 今宵

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Ⅰ 今宵

 さあ、私を見て。  私を選んで。  レティシアは歩いてくるフリード王子を熱い眼差しで見つめたが、彼はこちらを一瞥(いちべつ)しただけで、通り過ぎた。  第二王子フリードが難関であることは、レティシアも充分わかっていた。  耳に入る噂からも、レティシア自身が遠くから観察したことからも、彼の賢さは伝わってきた。  しかも、ほとんど後宮(ハレム)に足を向けることがない。  来た場合も、誰かを選ぶわけではなく、女たちと酒を傾け、彼女たちの話を聞くだけだった。話の中身は自分たちの自慢(アピール)ばかりであったが、フリードはうんざりした顔をせずに聞いていたので、酒を持っていったレティシアも感心した覚えがある。  二十六の若さで、女に興味がないのは「変人」ではないかと後宮の女たちは言っていた。  レティシアは現在、序列四十位である。  この後宮の席順からして、まだまだ後方には違いない。王子の上座から入口へかけて順番に、若さだけでなく美貌や知性も兼ね備えた、最高級の女たちが並ぶ。  自分が選ばれる可能性は限りなく少ない。  レティシアは無意識に着ていた服の上から胸元に下がる(みどり)宝石(いし)を握りしめていた。  後宮に出入りできるのは、なぜか王位継承者三位までとされていた。ここを統括する老婆マリアの話では、現王の代に一位の女を巡り、王子同士の殺生沙汰があって以来の決まりごとらしい。  第一後継者フロイド王子は後宮で序列一位だったエスメラルダを側室とした。王子を生んだ彼女は現在、王族と共に宮殿で暮らしている。フロイドは正妃よりエスメラルダを愛している噂すらあった。実際にフロイドはエスメラルダを側室にして以後、後宮に足を向けることがなかった。レティシアもその姿をほとんどみかけたことがない。  一方、第三王子アデレードは好色で、手当たり次第という男だ。後宮にも序列があるのだが、おかまいなしだった。そのせいなのか、女性の扱いが乱暴なせいか、とにかく後宮内でも嫌われていた。レティシアもアデレードの舐めるような視線には鳥肌が立つ。  そんな中、時はきた。  フリード王子が後宮(ここ)を訪れたことは、レティシアだけでなく、他の女性たちにも少なからず動揺を与えていた。  フリード王子は完璧な美貌の持ち主だった。現王が北国から是非にと望んで呼び寄せた正妃を母親に持ち、フロイドの実弟でもある。正妃から引き継いだ金色の髪と(あお)い目に彫りの深い顔。加えて父親と同じ浅黒い肌に引き締まった身体つき。  彼が来て、後宮の女たちにある種の期待感が湧き上がるのをレティシアも肌で感じていた。  フリードは広間入口に近い百人目の女まで、ゆっくり歩いては一人一人顔を見ていった。レティシアには不思議だった。八十位以降は年端も行かぬ少女ばかりだ。アデレードではあるまいし、彼がそこまで女たちを見る理由がわからない。美貌で言えば上位五位までの女性で充分なはずだ。  しかし、彼のこの行動はチャンスでもあった。  近づくには、今このときしかない気がする。レティシアは覚悟を決めた。  フリードが前方へと戻る際、レティシアはわざと手を伸ばし、彼に踏まれた。 「これは、すまなかった」  王子が謝るとは思わなかった。  一瞬驚いたが、レティシアはさらにそれを利用した。 「こちらこそ、フリード様の御御足(おみあし)を汚してしまいまして……手を切り落としてくださって結構です」  だが、フリードはレティシアが差し出した両手を取った。 「気に入った。今宵(こよい)はそなたと過ごそう」  声には出さなかったが、その場にいた女たちがあからさまに失望しているのがわかった。フリードが選んだのは、成熟していない、青く硬そうな果実だったからだ。  レティシアは表面上驚いた顔をしたが、内心安堵していた。  捨て身の作戦だったが、彼に選ばれた。  寝所(しんじょ)に連れていかれたのは初めてだった。  レティシアは花を敷き詰めた風呂で身体を清め、薄絹を一枚まとっただけの姿になった。  よく拭いた髪を軽く上げると、まとめた髪の中に短剣を差し込んだ。  細く、短い剣だが、喉を突くことならできる。  身体には何も身につけてはいけないと言われていたが、レティシアは首飾りだけは親の形見として許しを()うた。  龍が彫刻された黄金の土台に美しい翠色の宝石がはまっている。黄金の鎖は三重に連なるもので、その首飾りは彼女にとって本当に何物にも換えがたい宝物であった。 「こちらへ」  フリードが寝台の中から微笑みかけてきた。思わぬ優しい声に、レティシアの小さな身体がわずかに震える。  今さら何の決意が揺らぐのだ?  レティシアは思ったが、この賢そうな王子はわずかな動揺も見抜いてしまう気がした。  冷たく滑らかな石の床が、湯で暖まった足を一歩ずつ進めるごとに冷ましていく。彼女の心も一緒に鎮まっていった。  寝台の横に立つと、さすがにいたたまれなくなり、レティシアは目を閉じた。身体を眺める視線を覚悟したが、意外にも何も感じなかった。  目を開けると、フリードが上掛けを自ら上げていた。上半身しか見えないが、彼も何も身につけていないようだ。  手招きされ、レティシアは寝台のフリードの隣に入り込んだ。  一瞬、レティシアの脳裏に「彼」の姿が()ぎった。  もうすぐ、ここへ来られるようになりますよ。  レティシアは心の中で「彼」へ微笑みかけると、近づくフリードの視線を避けるように目を閉じた。フリードの顔が首筋に寄せられた瞬間、レティシアは髪に手を入れ、短剣を抜いた。 「やはりか」  フリードは剣を振り上げたレティシアの右手を掴んでいた。 「くっ…」  レティシアは下唇を噛んだ。  疑われていたのか、最初から。 「……お前の首飾りを見た時にわかった。それはネイサンドルのものだ」 「知りません。親の形見です」  フリードがレティシアの右手を掴んだまま、剣を振り落とした。  短剣は床をすべり、壁にぶつかって止まった。  ああ、もうお終い。  ここまででした、ごめんなさい。  レティシアは力を抜いた。  フリードも掴んでいた右手を離した。 「その首飾りは……ネイサンドルの母親の形見だ」  フリードの言葉にレティシアは目を見開いた。
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