梅雨明けと宝物

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梅雨明けと宝物

 少女は二の腕に、細かな傷をたくさん作っていた。薄汚い、水色のワンピースは、ポケットに画鋲や釘、まち針などが入っている。  宝物なんだと、少女は言う。錆び付いてしまわないように、よく磨くのだと息をふきかけ、裾でぬぐう。  細かい傷は、少女が自らつけたものだった。  魂が離れていかないように、痛みでつなぎとめるためだと、少女は答えた。  心配そうに見つめて、「娘は大丈夫でしょうか」と仕立てが良く、きれいな服を着た母親らしき、女がそっと問いかける。  眉間には、皺がキリキリと深く寄っていた。  面倒だ、とも言いたげだと医師にはそう見えた。 「主人は忙しいし、私にも用事や都合がございます。まさかこんなことを、大人が見ていない間にしていたなんて……どこを頼ればいいものやらと悩んでいたら人づてに、先生の病院を紹介されまして……」  少女を連れてきた、およそ田舎町にそぐわぬ女に、医師はなんとなく見覚えがあった。  浅草かどこかの新劇を観に行ったとき、舞台に立って高らかに歌い、踊っていた女だ。 名前は知らなかったが、派手な衣装と踊りは記憶に残っていた。薄汚いワンピースを着ている少女より、自分の口紅がはげていないかを気にする女は、医師の前で鏡を取り出し、しきりに自分の顔を見ている。  こんなことは決まりに反するだろうかと思いつつ、医師は女と少女を交互に見て、かさついた、薄い唇を開いた。 「お嬢さん、宝物は先生が預かろう。心も体も、誰かのものじゃない。自分のものだ。だからしっかりと、結びつけておきなさい。ないがしろにしてはいけないよ、どうか約束して、ここでしばらく私の手伝いをしてくれないか?」  手伝い、という言葉に少女は眼を輝かせた。  必要とされていない、私はいらないものなのだと考えている人間が見せる、歓喜の光がそこにはあった。  ささくれて粉をふいている少女の手を、医師は優しく握り、諭すように語りかけた。 「画鋲や釘や、小刀みたいな、お嬢さんを傷つけるものは宝物なんかじゃない。そして、傷つける大人の声にしたがって、自分を隠してはいけない。どうか、わかってくれるね?」  はい、と少女は小さく返事をすると、ポケットから「宝物」を取り出し、医師に手渡した。 「ありがとう、これは預かっておこう。自分をつなぎ止めて、笑うことができるようになったら、一緒に捨てに行こう」  ぼろぼろと少女は大粒の涙をこぼし、背を丸めて泣き出した。  女はうつむいて、鏡を握りしめている。 「深くは訊きません、どんな事情かは私も知りたくはない。貴女もどうか、自分がしてきたことから逃げようと思わないでほしい。この子は自分を見つめ直そうと、私を信じて、宝物を預けてくれたのだから」  女はなにも言わず、かつかつと靴のかかとをならして、診察室を出て行ってしまった。  医師は少女を連れて、病棟へと向かった。  梅雨寒を乗り越え、謡い出した蝉がうるさく感じられる日のことだった。
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