泡沫に溺れる。

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雨だれの音が響いている。 心地よいまどろみの中で、背中越しに掠れた声がした。 「あなたがオレのものだったらよかったのに」 うなじに髪が触れて、それからやわらかく濡れた感触が押し当てられた。 ちろりと舌先で舐められて、甘噛みされた。 抑えきれない(あお)の熱が、体に流しこまれるみたいでこれ以上ないほど鼓動が早くなって、思わずかすかに青白い血管が浮きあがる腕を胸に抱きしめた。 体の向きを強引に変えられて、シーツの擦れる音がした。 覆いかぶさるように見下ろした碧が切なさに揺れる目で見下ろしている。 ふたつの手のひらで、そのよぶんさを削ぎ落としたような薄いほおを包みこんだ。 いまどきの若い男って、どうしてこんなに肌がすべすべできめ細やかなんだろう。 確かめるようにそっとなぞると、碧はかすかに目を瞬いて、それから猫のように手のひらにほおをすり寄せた。 甘えたしぐさがかわいい。 まるで猫みたいな子だなあと微笑ましくなる。 そのまま碧は手のひらの内側を舐めた。 ますます猫だ。 そう思っていると、ちらりと碧がこっちを流し目で見た。 ぞくりと、どこか体の奥が震えた。 手を引きかけて、手首を捕えられた。 「……っ」 動揺した瞬間、碧が指と指の間を強く舐めあげた。 「ま、待って……っ」 そのまま指を口にくわえられ甘噛みされ、また舌で愛撫をくわえるように動かす。 別の衝動に火をつけられそうになって、慌てた。 「時間、もう、たぶん……っ」 悲鳴に近い声を出した瞬間、手を引っ張り上げられるようにして抱き寄せられた。 「いやだ、帰したくない」 いつもよりはっきりと言葉にされて、それがどれだけ彼の想いを含んでいるのかわかってしまうのに、どうしようもない歯がゆさに、唇が震えた。 バンッと強い風が窓を鳴らした。 海際の街ゆえに、天気が荒れるとひどく風が強くなる。 2人でびくりと肩を震わせて、それから碧がゆっくりと体の奥の熱を吐き出すようなため息をついた。 「ごめん。オレかっこ悪い」 激しく頭を振った。 「全然そんなことない。かっこ悪いというなら、そうさせてる私が悪いの」 「違う、凪音(なお)さんは少しも悪くない。悪いのは全部オレだよ。凪音さんはオレのむりにつき合わせてるだけだから」 「違う、私がしたくてそうしたんだから」 「それは、いや、……やめよ」 ゆるく頭を振って、碧はゆっくり体を起こした。 さっきまでは目眩がするほどの熱を孕んでいたのに、素肌の上を撫でた空気のあまりの冷たさに無性に哀しくなる。 「もう……帰る時間?」 抑揚の少ない声でそう聞かれると、急に色褪せた現実が迫ってきてのろのろと体を起こした。 低いベッドから手を伸ばせば届くところに、下着と服が散っている。 それを一つ一つ身につけていくのは、まるで碧とつながる糸を自分の手で断ち切るみたいな気がした。 身支度を終える間、キッチン前のカウンターに寄りかかって、碧は黙って手のうちのコップの中の水を弄ぶように揺らしていた。 そのコップから溢れそうになる水は、まるで2人の関係みたいに不安定だ。 壁に立てかけられた黒フレームの姿見で、身なりを整え、不自然がないことを確かめる。 週末会社の飲み会に顔を出していたかくらいの、少し乱れた感じを意識して、あまりきちんとさせすぎない。 最後に外していた細いネックレスをつけなおせば終わり。 コトンと音がして振り向いた。 コップをキッチンに置いた碧が近づいてきて、凪音の背後に立った。 そして肩口よりも長い髪の間でフックをかけるのに手間取っていた凪音の手を抑え、碧がネックレスのフックをとめた。 「ありがと」 鏡の中で微笑むと、背後の碧が鏡の中で少し笑みを浮かべて頷いた。 「明後日は、会えないんだよね?」 鏡を通してその切なげな瞳に頷いた。 「週末は、……家にいるから」 碧が限りなく細いため息をついた。 誰がと言わなくてもわかっているから、それ以上、碧も追及はしない。 するりと碧が背後から首に腕を回して、額を肩にもたせかけた。 ため息の中で堪えきれない熱がうなじにかかった。 高鳴る心臓を必死で宥めながら、前に回された腕に触れた。 ずっとそばにいたいと素直に言葉にできない立場なのはわかっていたけれど、それでも碧のため息に答えを返したいと気持ちが揺れた。 「……ごめんね」 なのに口をついて出るのは謝罪ばかりで、碧とこうなってからもう何回この言葉を口にしたのだろうと思う。 きっと碧がいつかこの不毛な恋愛に疲れて離れていった時、この謝罪の言葉しか、彼の中には残らないんじゃないかと思えるほどに。 「凪音さん」 呼ばれて、振り向こうとしたあごを捉えられる。 そのまま唇に碧のが重なった。 腕の中で体を少し反転させると、回された腕の力が強くなってさらに密着した。 そのまま合わさる唇の角度も深くなって、勢い、こぼれる吐息も深くなる。 重なる鼓動がじわりと新しい衝動を連れてきそうで、なんとか碧の胸に手をつくと、やんわり押して離した。 その意図に碧の腕が緩んだ。 無理に突き放したことの負い目に碧の目を見られないでいると、ふいに呼吸すらままならないほど強く抱き寄せられた。 「……我慢ならいくらでもできる。また凪音さんと会えるなら」 「私だって……っ」 苦しさの中で言いかけて、言葉をのみこんだ。 いくら甘い言葉を囁いたところで現実は変わらない。間違った道の途上では、どんな言葉も海の藻屑にしかならないのだから。
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