愛しむべき日々の波打ち際で

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愛しむべき日々の波打ち際で

どこを向いても観葉植物の緑が目に入る都心のオフィスはランチタイムにざわついている。 デスクにお弁当を広げていると、隣のデスクからキャスターつきの椅子ごとズズッと滑らせて習志野(きょう)が顔を出した。 「うまそーな匂いすると思ったら、やっぱ凪音さんの弁当だ!」 「あげないからね」 すかさず釘をさしつつ箸を動かしても、じとっとした目線が目の前のお弁当から離れてくれない。 「ちょっと、見過ぎだから。外で食べてきたんでしょ?」 「とはいえですね、人妻の手作り弁当の誘惑たるや、あでっ」 後半は頭を叩かれる音にかき消された。 「人の嫁の弁当にヨダレ垂らすな」 「あー営業の一ノ瀬さんじゃないスかー。なんか経理に用あんスかー?」 響が回覧用ボードで叩かれた頭をさすりながら、背後に立った颯佑を下から睨んだ。 一ノ瀬颯佑(そうすけ)。 ライトグレーのストライプシャツに爽やかなピンクのネクタイを締め、明るめのネイビブルーのパンツを着こなしている、営業部のやり手の1人。 そして凪音の夫でもある。 「それがあるんだよ。お前のそのケモノの目から嫁の弁当を守るっていう用が」 「えー、一ノ瀬さんよかケモノじゃないス、あだっ」 隣で文句を垂れる響に二度めの回覧ボードはたきをお見舞いしてから、颯佑が挟んだファイルを差し出した。 「凪音、悪い。客からミス指摘されて請求書返ってきたんだ。向こうの決済関係で急いでるんだわ。午後なるはやで処理頼めるか?」 またか、と内心ため息をつきながら、そこはビジネスモードに頷いた。 でも納得いかないと、頭をさすっていた響が眉をひそめて、口を尖らせた。 「それ何回めスかー」 上司だろうと部下だろうと関係なくはっきりものを言う三期下の響は、その明快さゆえに敵も味方も多い。 颯佑や凪音にとって裏表なくつきあえるから気が楽だった。 「しょうがないだろ、まだ慣れてないんだから」 慣れてない、その言葉一つで何度も同じ請求書の処理を頼まれる身にもなってほしい。 そうは言わずに、笑みを浮かべて受け取る。 「また桜庭(さくらば)さん?」 「そ。客への謝罪ばかり上達してどうすんだか。見かけたら凪音からも言ってやってよ」 苦笑しながらもかわいい部下のミスを何度もフォローする颯佑に苦い気分が胸の内に広がった。そんなことを思っているなど、夫は思いもしないだろう。 書類をデスクの目立つところに置くと、颯佑はホッとした顔をして「悪いな。今度、好きなもん買ってやるからさ」と声を少し潜めるようにして言った。 好きなものなんて、ほしくない。 そんなもの、買ってもらいたいとは思わない。 それよりも大事なことがあるはずでしょう? 言いたいことを飲みこんで「じゃあ考えとく」と笑みを返した。 「あ、今日は客と食事してから帰るから先寝てて」 言いながら、颯佑は軽く片手をあげてフロアの中央の方へ戻っていった。 「凪音さん、モノで買収されないでくださいよー。いくらなんでも桜庭さん、ミス多すぎじゃないですか。ここ最近、経理への嫌がらせみたいに増えてません? 一ノ瀬さんもそれいちいちフォローして仕事に支障でないんすかねー」 呆れた声で見送った響に内心頷く。 その影響か、連日、颯佑の帰宅は遅い。 そのことをいまさらとやかく言うつもりもないけれど、結果として、この2年はもうほとんど週末婚状態だ。2人の状態を言うには、週末婚という言葉もむしろ外れているかもしれない。 「適材適所とも言うし、ほかの部分でしっかり業務こなせてれば許容範囲でしょう」と軽く流すと、背もたれを前にして座った響は「そうっすかねー」とあくまで疑問視する態度を崩さずにその場でくるくると回った。 「営業には営業なりの育て方があるんじゃない? さすがに目に余るようなら申し入れはするけど」 夫の颯佑のチームにいる桜庭花は、営業で採用されただけあって、いわゆる女子力の高さとかわいらしさとで評判の入社2年目の女性だ。 重役の誰かの娘でコネ入社だとか、顔だけで採用されたとか、入社当初は口さがない噂が経理に届くほどには話題になっていたのを覚えている。 とはいえ、経理と営業の接点などほとんどなく、颯佑のチームに配属されたと聞いた時もそこまで気にしていなかった。 颯佑のスマホに頻繁に連絡がくるようになるまでは。 「いやもう目に余ってるじゃないすかー。一ノ瀬さん、絶対凪音さんに直接頼むでしょ。あれ、凪音さんだからですよ。なんだかんだやってくれるって奥さんに甘えてんすよ。それって公私混同じゃないすかー」 それは言われなくてもわかっていた。 本来、颯佑がもちこむ請求関係の類は、凪音の担当ではない。 斜向かいにいる同期の益城(ましき)美琴(みこと)だ。でも彼女は。 「聞こえてたわよー、凪音」 デスクを間仕切りする低いパーティションの向こうで美琴の声が響いて、それからパーティションの隙間から斜めに顔が覗いた。 艶やかな髪が揺れて、勝気そうな目元が少しきつくなっている。 「ごめんね、美琴。すぐ処理したら、報告だけそっちに回すから」 「別に凪音に謝ってほしくないわよ。一ノ瀬くんよ。習志野の言う通り、ちょっと目に余るわよ最近。いくら営業成績ツートップの1人だからって、調子のりすぎ。次こんなことあったら、私、言うからね」 「あ、私がちゃんと言い聞かせるから。いつまでもこのままじゃ、桜庭さんのためにもならないし」 慌てて言い募ると、美琴は疑うような目つきを和らげることもなく深くため息をついた。 「ほんと、なんであんたがあんな顔だけ男と結婚したのか、気が知れないわ」 「うわー、美琴さんきっつー」 「仕方ないでしょ。あんただって、たいして私と変わんないくせに」 美琴はあまり颯佑を快く思っていない。 それは凪音が颯佑と結婚する前からのことだし、相性というものもあるから、颯佑に対してきつい当たりに自然なるのも仕方がない。 でも最近はそれに拍車がかかって、よけいに颯佑は美琴を避け、美琴はさらに颯佑にきつくなるという悪循環に陥ってもいるのだった。 「ま、凪音に言ってもしょうがない。さっきの請求書、いいからこっち寄越して。私の担当案件だし、凪音だってそこそこ案件逼迫してきてるでしょ」 「……ごめん」 「だから謝らないでって。そのかわり、今日旦那、遅いんでしょ。なら夕食、つきあってよ」 頷きながら、颯佑から預かった書類のファイルを美琴に差し出した。 「ありがと」 「別にたいした量じゃないし、私、仕事早いしー」 ようやく美琴の勝気そうな目がいたずらめいた光を宿して和らいだ。 「それにプレ金っすよー。オレもオレもー」 「習志野はダメー。あんた酒弱いくせに飲むからすぐつぶれるでしょー。面倒見るこっちの身にもなってよ」 「あ、それ差別! ハラスメント! モラハラパワハラセクハラ反対!」 「は、何オンパレードで言ってんのあんたは」 2人の漫才みたいな掛け合いに思わず吹き出して笑う。気のおけない職場の仲間の雰囲気に救われた気がして、広げていた弁当を片づけた。 こういう時間があるからまだ普通の自分を維持できる。 自分の年齢と社会の目と責任ある仕事と、夫と築く家庭。ひたすらに日常の、おそろしく変わらない、おそろしく静かな、幸福であるはずの日々。 このままでいい。 このまま、自分さえ胸にしまうべきことはしまっておけば、いつかは丸く収まるはずだ。 そう意識していなければ、(たが)が外れて、きっと走ってしまう。 この愛しむべき日々を捨てて、なにもかも捨てて、碧へと。
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