愛しむべき日々の波打ち際で

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美琴につきあって居酒屋2軒をはしごしての午後11時半前。 ほとんど駆け込んだ終電の江ノ電には、くたびれた顔を俯けた帰宅客が揺られている。そこそこ満員気味の車内で、凪音はスマホに届いた颯佑からのメッセージを見つめた。 興が乗って食事をした客とそのまま飲みに行くことになり、気づいたら終電を逃していたという。颯佑のような夜も昼もなく仕事に邁進する営業マンには、自宅のある鎌倉の地など制約でしかない。だからよく途中の駅まで電車、そこからタクシーなんてことは珍しくもない。 ただ、今日は疲れたから適当にビジネスホテルに泊まるという。1人で。 電車が大きく揺れ、車窓の向こうの家並みが切れた。 そしてすぐに黒々と3分の2を暗い色に塗りこめられ、ただ134号線をトラックや乗用車が走り抜けていく車窓に切り替わる。 海だ。薄暗い、照らされることはない夜の海。 そこに、凪音の顔が映りこむ。 飲んできたせいもあるだろう、化粧直ししたところで疲れを隠し切れてはいない。20代なら飲み明かして朝帰りしても気にしたことなんてなかったのに。 目を月のない海に移した。 年に1人2人はのんでいるだろう、夜の海は、湘南のイメージからはほど遠い瞑さをもつ。防波堤の駐車場をぼんやり照らすオレンジ色の外灯がよけいに海との境界を際立たせている。 駐車場に佇むドライブインの店も閉店時間を過ぎ、防波堤には、わずかに1人2人の姿を認めるくらいだ。 駅を降りると、酔い覚ましも兼ねて、自宅とは反対の方角ーー海の方へと歩き出した。 潮の濃い匂いが湿気とともにウエーブがかった長い髪にまとわりつく。梅雨の終わり時、爽やかさなど1ミリもない。 少しだけ雨の匂いが混じっている気がする。 空を見上げれば、いつのまにか遠い群青色だった夜空は重たげな雲に覆われている。 海の目前のコンビニで買った1本の缶チューハイを手に、靴を脱ぎ捨て、防波堤に座った。 5メートル以上はある防波堤の下の砂浜は鬱々と沈んでいるかのように広がっている。 スマホをとりだして、名前を画面に呼び出す。 雑賀碧。 会いたいとメッセージを送れば、会えるだろう。 でも凪音がそれを素直に口にするには、10歳差という年齢と、わが身の保身が邪魔をする。人目を憚るのだから余計に自制心が動いて、そうして、自分の想いがどこにあるのかさえわからないほどにがんじがらめにされてしまう。 「……凪音さん?」 ふいに話しかけられて、小さな悲鳴とともに缶チューハイが手を滑り落ちた。 200mlのアルミ缶は、ひび割れを生じさせたコンクリート舗装の地面を一度跳ねてから横向きに転がった。まだたっぷり残っていたチューハイが、とくとくと溢れて、地面を黒く塗りつぶした。 それを伸びやかな腕がすばやく拾い上げた。 「驚かすつもりはなかったんだけど……」 「碧くん、どうしてここに」 「どうしてって、近所なんだよ?」 逆におかしそうに小さく笑って、見慣れたスーツにマスク姿で碧は缶チューハイを置きながら隣に座った。 「……見られたらマズい?」 「平気」そう言ってためらったものの、「……今日は帰ってこないもの」と呟いた。 その言葉をどう受け取ったのかわからないけれど、碧は「ふうん」と気のないような返事をして、片膝を立てて海を眺めた。 一緒に過ごしたい、なんて虫が良すぎる。 言い出したくて言い出せずにもやもやしていると、パーマのかかった少しかための髪がほおに触れた。 碧がごく自然に凪音の肩に軽く頭をもたせかけてきて、小さくため息をついた。 「……どうしたの? ため息」 聞いても、碧は黙ったまま前を見つめている。そこにあるのは静かに寄せては返る音ばかり。うっすらと白波の頭くらいしか見えない海は、ほとんど暗い闇の中に消えている。 話の接ぎ穂を見つけられず、缶チューハイを失った手も手持ち無沙汰のまま、身動きもままならず、時間ばかり過ぎる。 「……凪音さん、飲んできたでしょ?」 ふと海の音に紛れるように、碧がからかうように頭をかすかに動かした。 首筋に触れる髪がくすぐったいのを我慢しながら、自分の服の裾をつまんで嗅いでみる。 「酒くさい?」 「それも、ある」 「他にも? え、やだな、離れて」 慌てて横にずれようとする前に、すかさず碧の手が伸びてきて太ももの間にするりと入ってきた。 びくんと体が震えた。 パンツスーツで、周りに人目がないとはいえ、ふいに太ももの内側に手をさしこまれて動揺しない人はいない。 「ちょ、碧くん!?」 「やっぱり」 「やっぱり?」 「凪音さん、いつもより体温高い」 そこは座って合わせていた内ももだから当然、という言葉を飲み込んだ。 指が緩やかに意図をもってなぞる。 「ーーっ、ここ、外……っ」 碧くんはマスクをずりさげながら顔の向きを変えて鼻先を首筋に埋めるようにした。濡れた唇がつっと汗ばんだ肌をなぞる。 「今日は、オレも飲んできてて」 ごく近い耳元で囁かれる。 「酔い覚ましに来たんだけど」 「ひぁっ」と変な声が出て、いつもは表情を表に出さない碧がくすくすと愉しげに笑った。確かに酔っているのかもしれない。 でもそうだからって首筋を意味ありげに舌先で刺激されているままにはいかない。 「ま、待って! この酔っぱらいはっ。ちょ、それ以上はダメだから!」 悲鳴のように碧の頭から逃れるように後ろへといざり、その拍子にバランスを崩した。 「危なっ!」 表情を変えた碧が慌てて凪音の腕をつかんで引き寄せた。 「あんまりはしゃぐと落ちるから」 落ちたところで下が砂だから死ぬことはないかもしれないけれど、高さ5メートルもあれば怖い。 さっきまでとは違った意味でバクバクと早いリズムを刻む心臓を宥めるように、碧が背中をぽんぽんと叩いた。 「……誰のせい?」 拗ねた声を出すと、碧が「……オレ?」とすっとぼけた声を出すから、思わず体を引き剥がそうと力を入れた。それに反発した碧がことさら腕の力を強めた。 細い体のくせにどこからそんな力が出てくるのか、全然対抗なんてできない。 すっぽりと腕に包まれて、このまま時間が止まればいいのにと、柄にもなく感傷的になる。 「……さすがに、言い訳できない?」 耳元で囁かれた言葉に深いため息をつきながら、「そうかもね」と返す。 でもそうだとしても、もういいか、なんて気持ちがよぎらないわけじゃない。 ただ心配なのは、まだ社会人になったばかりの前途有望な碧に迷惑をかけてしまうことだけだ。 「私はよくても、碧くんにはよくないしね」 言いながら体を離すと、するりと碧の腕は解けた。 でもそのまま手首を捉えられる。 「凪音さん、まだ時間平気?」 「大丈夫だけど、どうして?」 「下、降りてみない?」 「海?」 「入るわけじゃないけど」 手を引かれるままに、防波堤の途中で切れたように造られた階段を降りた。 砂に足を着く頃には、目の前の波が砕けて散る時の飛沫が2人の体に時々降ってきていた。 「けっこう荒れてる」 「雨降りそうだし、台風きてるんじゃなかった?」 「たぶん」 繋いだ手を離さないまま、暗い海ぎわをたわいもない言葉で沈黙を埋めながらそぞろ歩く。 太陽の下なら海の色もそこにたゆたうサーファー達の姿も見える。遊泳禁止の海ゆえに、ただ立ち寄っただけの観光客だっている。 でもこの時間は、誰もいない。 「そういえば碧くんって、ずっとここで育ったの?」 「生まれも育ちも。……ずっと嫌いだったけどね」 「ここが? どうして? 海のすぐそばでいいとこじゃない」 「凪音さんは、今日はどうして? が多いね」 小さく笑われて、「だって」と言いかけて口を噤んだ。お互いのことを語り合えるほどの時間が2人にはいつだってない。 「誤解しないでよ。単に……嬉しいんだ」 「どう、……」 またどうして? と聞き返しかけて、口を引き結んだ。 「あはは、どうしてか?」 いつもより声が弾んでいるような気がする。それが飲んでいたというせいなのか判断できるほどに、碧とのつきあいは深くない。 「凪音さんがオレに興味を持ってくれてんのに、嬉しくないわけないでしょ」 どきりとして隣を見上げると、薄暗い中で思いのほか優しい目が凪音を見下ろしているのに気づいた。 「興味もってなかったわけじゃないよ……」 弁解がましいかなと思ったけれど、それは本音だった。 10も歳下の相手なのだ、いろいろ聞いてうざいと思われたらどうしようという迷いの方がどうしたって先に立つ。それにもともとこんなふうに深い関係になるつもりもなかった。 今でも、覚悟なんてないまま、波にさらわれるように流されている。 「嫌いだって言ったのは、結局のところ田舎だからかな。海も山もあるから自然だけはたくさんあるけど、この海とかも興味なかったし、ほんと高校ん時とか嫌で仕方なかった」 「今も?」 「どちらかといえば。社会人になると同時に家出ようと思ってたんだけど、ちょっと無理になって。でも1時間以上かけて都心通うのはやっぱきつい」 颯佑のたっての希望で新居に選んだ凪音にとって、少し通勤に不便かなというくらいで、あまり不満もない。 一軒家が並ぶ住宅地の地元出身である碧に比べて、市外からの転入が多いマンション住まいとしては、感じ方も違うだろう。 それに出てしまっていたら、きっと凪音とは会っていなかった。 その言葉をのみこんで、海へと目を移した。 潮を含んだ風は、あっという間に髪の毛をごわごわにしてしまう。 「でも今は、凪音さんがいる」 ドキッとしてまた碧の方を見た時、碧が体をわずかに傾けた。 そのまま不意打ちでキスされる。 ほんのかすめる程度だったけれど、体が思わず緊張にこわばった。 「誰も見てない」 そんな言葉を言わせたいわけでも哀しそうな顔をさせたいわけでもない。それでも周りの目を気にしたことを敏感に悟られ、「ごめんなさい」と俯いた。 「……あ、見てるのいた」 「えっ」 謝ったそばから動揺して周りを見回すと、小さく笑う声が聞こえた。 「ほら、そこ」 碧が指をさす方角には海しかない。戸惑ったままでいると、碧は吹き出した。 「海しか見てないよ」 笑いながらの碧の言葉にようやく意味がわかって、いっきに肩から力が抜けた。 「もうやだ……」 その場にしゃがみこみそうになって、碧が慌てて繋いでいた手を引き上げながら抱き寄せようとした。 「からかわないでもう、ほんとドキッとしたの」 言いながら軽く碧の肩を押した。 「嘘じゃないよ。海には陸よりも多いなんかがいて、それとなくこっちの気配をうかがってる」 「それもっと怖い……」 いたずらめいた笑みを浮かべながら凪音の手を受け止めて、碧は少し笑みを弱めた。 「でも、ごめん。立場苦しくなるの、凪音さんなのに、考えなしだった」 急に切なそうな表情になった碧に、頭を振った。 「誰も、見てないから」 住宅街からの目隠しにもなっている防波堤と、夜という時間。それらと黒い海とに守られて、日常は遠い。 「ーー雨」 「もう少しもちそうな気がしたけど」 ぽつりぽつりと顔に当たり、碧との間に流れていた波音ばかりの空気が破られ、なんとはなしに2人で防波堤の上の駐車場に向かって階段をのぼりはじめる。 のぼったら、知り合い程度の顔で早々に別れなくてはならない。 無言のまま、視界には、煌々と光を放つコンビニと、高台の斜面すらも埋め尽くすように並ぶ寝静まった家の数々。かたく入り口を閉じた飲食店のガラスの向こうに動くものもない。 江ノ電の遮断機もあがったまま、ただ134号線を走り抜けるトラックばかりのテールランプの尾が流れていく。 繋いでいた手は自然と離れて、のぼりきると、背後の海から強い風が吹きつけた。 碧が一歩二歩前によろめきかけた凪音の腕をとる。 そしてびゅうびゅうと鳴る風の中で、言った。 「凪音さん、これから部屋にきませんか?」
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