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耳を打つ音にふとハッと目を開いた。雨が激しく降って、窓を打ち付けている。
「時間……っ」
うとうとするうちに眠りにひきこまれていたらしい。どのくらい時間が経ったのか、颯佑が帰る前には自宅に帰っていたい。
体を起こそうとして碧に抱き込まれていることに気づいた。抱き枕状態で身動きができない。なんとか起こさないように時計を目で探していると、碧が目を覚ました。
「もう朝……?」
窓から見える空の色はうっすらと重たい灰色をして、一瞬、これから夜かとも錯覚する。
「起こしてごめんね。もう帰らないと」
言い終わるか終わらないうちに「帰したくない」と、碧が即座に反応して凪音をさらに強く抱き寄せた。
思わず言葉を失っていると、また突然に腕の力が緩んだ。
「……ごめん」
謝らせたくないと思うのに、それに対して、何か言うべき言葉もないのが凪音と碧とをとりまく真実でもあって、凪音は言葉の代わりに解かれようとしている腕を胸に抱きしめた。
本当は、ずっとこのままでいたい。
でもそれを言ってしまったら、きっと凪音が必死で守っている一線が崩れてしまう気がした。
一度崖を転がり落ちたら、きっと自分で自分を止められない。それでなくても今にも脆く崩れそうな断崖の際に立ち尽くしているのだから。
碧は凪音の気持ちをくみとったのか、そのまま凪音のうなじの髪の中に顔を少し埋めた。
もう少しだけ、もう少しだけ抱き合っていたい。
そう思いながら窓の向こうを滝のように流れる雨の音に耳を澄ませてじっとしていると、その耳に自然にはない異質な音が割り込んだ。
なんだろうと眉をひそめ、それからその音が小刻みに揺れる振動音だということに気づく。
その瞬間、さあっと血の気が引いた。
身をこわばらせて動揺した様子に、碧がすぐに気づいた。
「凪音さん?」
「ごめん、碧くん」
凪音は碧の腕を解くと、さっとベッドを降りて、椅子の上に置いてあったバッグを引き寄せた。
ヴーヴーヴ―と鳴っている、スマホ。
取り出すと、画面には颯佑の名前が出ている。
体の熱も切ない気持ちもすべて凍りついた。
出るに出られないまま、そのスマホをただ見つめるほか為す術なく立ち尽くしているうちに、スマホの音が鳴り止んだ。
画面には、つい30分ほど前から複数回颯佑の名前での着信が並んでいる。
メッセージも届いていて、慌てて開くと、どこにいるのかと問うメッセージだ。
今は午前8時近く。泊まりの日はたいてい午前中でも遅い時刻や昼前にのんびり帰ってくる。だからまさか、ここまで早いとは想定していなかった。
もしかしたら、夫は誰かと過ごしてくるかもしれない。そんな疑念さえもっていたのに。いや、その疑念が正しい方が凪音には都合がよかった。本当のところは。
「電話したら? オレ静かにしてるから」
凪音の様子を見かねて、碧がベッドを降りながらキッチンへと向かった。
その気遣う背中が何を考えているのかはわからない。嬉しくも悲しくもある感情をもてあましながら、それでも目の前の現実に、凪音は頭を巡らせると颯佑の着信からリダイヤルした。
〈もしもし、凪音?〉
「颯佑さん」
〈今どこにいるんだよ? 家帰ってきたらいないし〉
焦るような調子に、気持ちがすっと落ち着く。
冷静に対処すれば、大丈夫と言い聞かせながら、万が一のための嘘をそれらしく唇にのせた。
「ごめんなさい、同期の美琴と飲んでたらちょっと終電逃しちゃって、ビジネス飛び込んだの。始発で帰るつもりでいたんだけど思ってたより疲れてたみたいで」
美琴と飲んでいたのは事実だ。美琴にあまり近づかない颯佑があえて真偽を正すことも考えにくい。
〈なんだよ……、心配するだろ。せめて連絡ぐらいしてくれよ。真っ暗だし、なんか事故にでもあったかとこのまま電話繋がんなかったら、オレ警察連絡してたよ〉
「ごめんなさい……」
〈で、今、どこ? つうか、まだ都内? そっちも大雨ふってんの? 音すごくね?〉
息が止まるような気がした。
窓の外は激しい雨で、まさかその音を敏感に拾うとは思いもしなかった。
「ーーッタク、タクシーで、もう鎌倉駅出たところなの、向かってるから。駅前のコンビニ寄ってくつもりだけど、買うものある?」
動揺のあまり早口になりそうなのを堪えて深く追及されないうちに別の話を持ち出すと、颯佑が少し考えるふうな沈黙を寄越した。
〈じゃあアイスとビール〉
夫の好きな組み合わせが返ってきて、内心ホッとする。
〈せっかく家でゆっくりできそうだってのに、もうそっこう疲れたよ。ビールでも飲まなきゃやってらんない〉
最後はほとんど当てこすりだと思えど、今日の場合は明らかに凪音に非があった。
「ごめんなさい……」
〈いいから、気をつけて帰ってきなよ。オレは寝てるかもしんないけど、起こさないでくれていいから>
わかったと言い、凪音は電話を切った。
その瞬間、緊張が解けると同時にどっと疲れが押し寄せてきた。
「……平気?」
近づいてきた碧がミネラルウォーターの入ったコップを差し出した。
「ありがと……」
受け取って一気に飲み干す。その姿に碧は一瞬驚いたように目を見開いてから、息をついた凪音からコップを受け取った。
「ごめん、オレが誘わなければ……」
つい口にしたらしい言葉に、碧自身がひどく傷ついたように視線を彷徨わせた。
凪音は「違う、碧くんは何も悪くない」と即座に返して、それから昨日も似たようなことを言っていたことを思い出した。
ずっと、この不毛な気持ちと時間とを、別れる前に繰り返さなくてはならないのか。
苦痛が喉元を押し上げるような感覚を飲みこんだ。
辛く苦しいのは碧だ。
好きな相手が目の前でその伴侶に電話している姿など、見たくもなかっただろう。凪音だって、見せたくもない。
でも現実だ。
いくら体を重ねても、凪音と碧との間には、どうしようもなく深い溝が横たわっている。その溝を今は、ただ碧の手に触れるしか、凪音には埋める術を知らない。
「碧くん……私、嬉しかった。碧くんと恋人みたいに、海を歩けるとか、思ってもいなかったから」
「……凪音さん」
「もし……」
辛くてどうしようもなくなったら、この手を離してくれてもいい。
そう言おうと思ったのに、言葉は出ない。言ってしまったら、現実になってしまいそうな気がした。
この恋愛を始めた碧だからこそ、終わりにもできる。
だからこそ、怖い。
「……ビールとアイス、だっけ? コンビニまで送ってく……って、ダメか」
どこか寂しそうに笑った碧が、凪音と繋ぐ手に力を少しこめてから離した。そして「引き止めて、ごめん」と小さく呟いた。
その声は降りしきる雨の音にまぎれて、かろうじて凪音の耳に届くほどの小ささだった。
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