愛しむべき日々の波打ち際で

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ソファに投げ出されたスーツを拾い上げてハンガーにかけ、寝室の方に視線を移した。 ドアがかすかに開いている。 そっとのぞくと、ほとんどダブルベッドの中央を占拠して、毛布をはねのけながらぐっすり眠っている颯佑の姿があった。その隣に平然とした顔で身を横たえるのは、無理だ。 そう思ってそっとドアを閉め、18畳もの広すぎて淋しく感じられるほどリビングに戻った。 お腹が空いていたらしい颯佑は、カップ麺を食べたらしい。空の容器がシンクに放置してある。 颯佑は凪音がいないとすぐに食事を適当にすませがちだ。忙しい営業の独り身であればそれも仕方ない。 でも今は凪音が妻としている。きちんとした食事の管理も、夫が自己管理に甘ければ妻の役割でもある。 とはいえその妻が人には言えぬことをしていたのだから、空のカップ麺容器は、凪音を責めるような風情にも見えた。 責められても当然のことをしている、その自覚を今さら掘り返さなくても、凪音が一番痛いほどに分かっている。 もはや抜け出すことさえできないほどに、自分の中で碧の存在が膨らんでいることも。 でも碧は、まだ22歳という若さ。社会人になりたての。 そんな碧を、10も上の自分が縛り付けるなどどうしてできるだろう。今の碧はただ年上の女という珍しさゆえに夢中になっているだけで、社会になじみもして、出会う人の幅も広がれば、自分の視界の狭さに気づき、そうして凪音の存在よりも大切なものにも出会うだろう。 それを想像するのは難くなく、でも想像してしまうと、きりきりと胸の奥が痛む。 冷蔵庫から、颯佑にだけではなく、自分にも買ったビールをとりだした。 夫のことよりもまず碧のことばかり。 プルタブをひきながら、窓辺に立った。 台風がきているという予報は外れて、雨が弱まったのか、それとも太陽が雲の向こうにあがったのか、窓から見える空はかすかに明るい。 颯佑の希望どおりの湘南の海を眺望におさめられる、低層型高級マンション。その4階にある3LDKのこの部屋は、颯佑に言わせれば勝ち組が手にすべき勲章の1つのようなものだという。その勲章の1つに、自分の存在も加えられているのではないかと、たまに思ったりもするけれど口にはしない。 ビールを飲みながら、窓に寄りかかってなだらかな傾斜地に居並ぶ住宅街と海が雨と湿度にわずかに煙る光景を見下ろした。 その一郭に、碧の住むアパートがある。 1LDKの碧の部屋。この部屋に比べればはるかに小さいけれど、それでもすぐぬくもりに手が届く範囲が、凪音の心を慰めてもくれた。 少し窓を開けると、生ぬるい湿度を含んだ風と、そして潮の匂いを含んだ雨の匂いとが凪音を取り巻いた。 碧と凪音とが出会ったのもこんな日だったような気がする。
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