海を抱く車窓の向こうで

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彼の名前が碧だと知ったのは、梅雨入りも間近と噂が立ち始めた頃だった。 あの日以来、なんとはなしに挨拶だけは交わすようになっていたものの、彼からハンカチを返される気配もなく、凪音も特にすぐ返却を迫るものでもないゆえにほとんど忘れていた。というより、それどころじゃなかったとも言えた。 凪音の気分と示し合わせたかのように、空に広がる雲は低く重く、バッグもそこに忍ばせたものの存在を主張して気を塞がせる。 夫の颯佑が浮気しているかもしれない。 いや、かもという可能性ではなく、ほとんど直感としては黒だ。 たまたまスーツのうちポケットにあった、明細。 そこに記されていたのは、ホテル利用のもの。接待だのなんだのでビジネスホテルに泊まることがないわけではなかったから、それ自体は特に気にしなかった。 いつものことだと捨てかけて、なぜその明細を開いたのだろう。まるでひかれるようにして。 そこにはビジネスホテルよりは少しグレードの高いホテル名と、1人分の金額にしては多い代金。 友人と合流した、ホテルの部屋がかなりいい部屋だった、何人かで一緒に酒盛りした、いろんな可能性を考えて消していった。 たった一度の過ちかもしれない。魔がさす、というのは誰にも訪れる。 最初に直感した考えがどうしても拭えなかった。 黙って見ないふりをすべきか、その明細を突きつけて暴くか。 誰か、なんて見当もつかない。 凪音にはどちらもできずに、ただ捨てられない明細をそっとバッグの奥にしまい込んだ。 それが季節に呼応するように日を追うごとに、重くなる。 「おはようございます」 朝のホームに俯くようにして電車を待っていると、声をかけられて顔をあげた。 隣に見慣れた赤いイヤフォンを外しながら、彼が立った。あいかわらずマスクをしたままで彼は軽く頭を下げた。 「おはようございます」と返すと、その日の彼はそのまま黙って隣に並んだだけではなく、「あの」とビジネスバッグに手を入れて、小さな紙袋を取り出した。そして遠慮がちに凪音に差し出した。 「この前のお礼です。借りたハンカチも入ってるんで……」 「え、お礼って、」 驚いた時、電車が滑り込んできた。 並んでいた列が自然と割れ始めるのに合わせたように、彼は紙袋を凪音になかば強引に押しつけるようにして離れた。 そのまま吐き出された人の代わりに吸い込まれて、いつもの定位置へと彼は歩いていった。 凪音も慌てて海が見えやすいドアそばに立つと、手元の紙袋を見つめた。 淡いミントグリーンにゴールドの英字は、どう見ても有名な海外洋菓子メーカーのものだ。 だいぶ気を遣わせてしまったと少し後ろめたく思いながらも、サプライズに近い小さなプレゼントはやっぱり嬉しい。ずっと塞いでいた気分が少し解けて、そっとイスに座っている彼の方をうかがった。 赤いイヤフォンをして、彼は自然体のようなラフさで座っている。 こっちを見れば、ありがとうの一言も伝えられるのにと思いながら、車窓の海へと視線を移した。 鎌倉駅でJRに乗り換えて座席に座った凪音は、ようやくその紙袋を開けてみた。さすがに本人見えている空間で開けるのも気が引けていたのだ。 中には、その紙袋の洋菓子店で人気といわれるマカロンと、丁寧に畳まれたハンカチ。 あのマスクの若者がこれをどんな顔をして買ったのかと少し微笑ましくなりながら、ハンカチをとりあげた時だった。 はらりと折り畳まれた紙が膝に落ちた。 メッセージカードのようなそれを拾い上げて開いた。 右斜めに上がる癖のある字で、「ありがとうございました」の一言。 その下にも走り書きがあった。 メジャーなSNSアプリのI.D.番号。彼の連絡先だ。 それを見た瞬間、凪音はひどくうろたえて思わず紙を折り畳んだ。 後ろめたいことは何もないはずなのに、なぜそうしたか自分でもわからないまま、息を吸って吐いた。 自己主張もなく淡白な印象で、しかも何か理由があるのかマスクを外した姿を見たことはないから、顔の全貌さえも知らない。 もう一度自分を落ち着かせようと静かに深呼吸した。よく考えれば、同じ最寄駅だから、都心とは違っての狭い町内、単純にご近所さんとしてという感覚かもしれない。あるいは社会人として後輩が先輩の連絡先を聞きたいようなものか。それとも何か相談ごとでもあるのだろうか。 いろいろと想像を逞しくしても、そのどこかで気持ちが騒ぐ。 ドキドキするような、久しく忘れていたくすぐったさ。 何かを期待したいと願う、自分の心の奥深くに見ないふりをして、そのI.D.をスマホのそのSNSアプリに入力して検索をかけた。 一番上位に出てきた候補は1つ。 碧/ao。 名前だろうか。 それをタップすると、いつも凪音が眺める、車窓から撮ったであろう海が画面いっぱいに広がった。いい写真だ。 波のない、まるで広大な湖と勘違いしてしまいそうなほどに凪いだ、おそらくは冬の海。 凪音もまた季節の中で一番好きな海だ。 それを背景に、碧/aoとmale、そしてKamakuraの単語がぽつりと浮かび上がった。 このアカウントの持ち主は、あの彼でしかない。 画面の下部にある「つながる」ボタンをタップすれば、凪音の連絡先がこの碧という人物に通知される。 相手側が凪音の「つながる」を承認して初めてコミュニケーションが成立する。簡単なことだ。彼が承認しないという選択はないとは思うものの、でもタップする指はすぐには動かない。 もっと軽い気持ちでつながってもいいはずなのに、どうしてもためらう。 口の中に渇きを感じたような気がして、バッグの中に常備しているのど飴を取り出そうとバッグに手を入れた。 その瞬間、指先がかさついた紙に触れた。 一瞬にして、冷や水を浴びせられた気がした。 夫と同じことを、自分はしようとしていたのだろうか。 それとも、夫と同じことをすることで、夫に対して意趣返しをしたかったのだろうか。 自分の中に巣食い始めている夫への猜疑心が笑い声をあげたような気がして、凪音はスマホをバッグにしまい直した。 受け取れるのは、紙袋の中で凪音には似合わないほどのかわいらしい包装をされた甘いマカロンだけ。 でもそうする自分がひどく残酷な人間のように思えて、それからの凪音は座席に座ったまま職場の最寄り駅につくまで一度も顔をあげられなかった。
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