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波間に翻弄されるばかりの、未来なき
「オレなら、あなたを泣かせない」
繰り返された言葉に、また涙があふれそうになって、深く息を吸い込む。
由比ヶ浜の潮の匂いが口から胃へと、そして体の隅々へと浸透して、碧の存在を焼きつけていく。
はっきりとした意思を秘めた言葉が、さっきよりは波の立ち始めた海の音にも負けないほどに届いて、いつも凪音の気持ちをしっかりとつなぎとめる。
若さゆえのその一途さが、愛しくもあり、憎らしくもあるけれど、それでもたぶん、あの日、碧と体を重ねた日から、凪音はずっと碧に支えられてきた。
だから、こうして泣くはめになっているのも、自分でケリをつけなくてはならないのだと、思う。
凪音はそっと、碧から手を引き抜いた。
「……結婚は、私と夫とだけの問題じゃないの。そこに至るまでの経緯がある。祝福してくれた両親や身内、職場も関わってる。責任が、あるの。家庭生活をつつがなく営むという責任が」
「なにそれ。仕事みたいな言い方」
「……仕事みたいなもの。もう5年以上も一緒にいれば、家庭という共同の仕事をしているようなもの。それを無責任に放置するわけにはいかないから」
「じゃあなに、そこに気持ちは関係ない?」
一瞬、言葉につまって、「ないわけじゃないけど」と言った。
愛しているかと問われたら即答できない。
漠然とあの日までは愛しているのだと思ってきた。
その上で結婚生活を5年以上も成り立たせてきた。
今になると、そこに横たわる感情が情だといわれればそうかもしれない。
それでも、その長い結婚生活が築いてきたものは、すぐには切り捨てられない。
「じゃあ、オレと別れる?」
今度こそ、言葉につまった。
別れると言葉にされると現実味が増して、碧との時間がいっきに巻き戻される。
ほんのわずかな時間でも、満たされていた。妻や嫁ではない、凪音という自分の時間。
「オレにとって凪音さんは遊びじゃないけど、凪音さんにとっては、責任のない、遊び?」
「っそういう意味じゃない!」
「オレになんの覚悟もないって思ってる? ……人妻に手を出しておいてなんのリスクも背負ってないって?」
「そんなことは思ってない」
ぐいっと手を引っ張られた。
息を詰めていた凪音は小さな悲鳴をあげるようにして、碧の方によろけた。すぐに力強い腕が凪音の腰を支え、凪音は碧の膝の間に立ち膝で収まる形になった。
「もしも、旦那さんにオレとのことがバレても、オレはいいよ。もし慰謝料とかそういうの発生してもいい。それで解決して、あなたがオレのそばで堂々と笑ってくれるなら、そんなの安い、安すぎるくらい」
「そんなこと、そんな碧くんに慰謝料とか、そんなリスクをはじめから負わせるくらいなら、この関係は無理よ。破綻してる」
「だから! だから、そういうのは全然オレのためなんかにならない、そんなの全然。凪音さん、分かってないよ。全然わかってない」
碧が凪音の腹部に頭をおしつけた。
「オレは、凪音さんが好きだ。それはもう、変わらない」
「いつか、もっと素敵な人が現れるかもしれないとは思わないの?」
「そりゃ現れるかもしれない。でもだとしたら、凪音さんだって旦那と別れてるかもしれない。たらればの話なんて無意味だ」
不安が内向きの言葉を吐かせるのは分かっていても、碧はまっすぐで、とても、とても、眩しい。今の凪音がどこかに置き忘れてきたかのような、得たくても得られない強さだ。
「そうやって逃げないでよ。オレの気持ちは、変わらない。今のオレが考えられる範囲の未来のオレだって同じ。あなたが、オレに待てというなら待つ。別れてというなら別れる」
はっきりと言う碧の言葉に、気持ちが揺さぶられる。
「凪音さん、そうまでして旦那さんに遠慮するのはなんで? 責任というなら、凪音さんの旦那にだってあるよね? 凪音さんが人知れず傷ついているのに、そうしているのは旦那の方なのに、それこそ無責任でしょう? そんな男にどうして義理立てするの?」
遠慮と言われて、ふとどこかでそうかもしれないと思った。
出会い方は見合いに近いとはいえ、恋愛結婚だと颯佑も凪音も思っていた。
でも、それは、そう見ないようにしていたとは言えないだろうか。
「それとも、……あんなに泣くほど、愛してる? 浮気されて何も言えないほど」
激しい口調が弱くなって、言いたくない言葉を碧が口にしているのがわかった。
「旦那のことが好きでいろいろ迷ってるって言うなら分かる。そうならそうとはっきり言ってよ。オレ、潔く諦めるから」
そんなことはない。
でもそれを素直に口に出せない。
出したら、認めなくてはならない。
凪音の中で、どれだけ碧の存在が大きくなっているか。
顔を覆って頭を振った。
「凪音さんは、……残酷だよ」
碧の冷たく突き放した声に、ほおを涙が伝った。
碧の言葉が痛くて、でも碧を選ぶわけにはいかない。なのに、自分から言い出せない。この関係を断ち切る言葉を、唇に乗せられない。
そんな自分が悔しく浅ましく、そして卑怯だと嫌悪する。
夫との別れも、碧との別れも、何も選べないなら、いっそのこと目の前の海の藻屑になって消えてしまえればいい。
碧がゆっくり立ち上がり、凪音の顎をとらえて少しもちあげた。
「それでもオレは、あなたが好きだ」
唇と唇が重なる。
触れるだけの優しさしか見えないのに、誰に見られてもいいという碧のその覚悟が、凪音の心を波の音ともにただ泣きたいほどに震わせた。
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