海を抱く車窓の向こうで

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海を抱く車窓の向こうで

凪音の朝は早く、平日は5時起きだ。 職場が遠いというのもあるけれど、毎朝颯佑と自分の弁当をつくりながら、簡単な朝ごはんの用意をして、それから出勤の準備をする。朝7時の決まった時刻の電車に乗らなくてはならないから、忙しない。 昔は颯佑と一緒に通勤していたこともあったけれど、さすがに職場の目もあって今は別々の出勤だった。実際、颯佑の方が始業時間が遅いという事情もあるけれど。 その日、少し寝坊した凪音は、江ノ電の最寄り駅にローヒールの音を高く鳴らしながら駆け込んだ。 季節外れの予想外の暑さがいつもより早い潮の匂いを含んで生ぬるい風を連れてきていた4月の始まり。細い雨も降っており、湿度の高さに少しうんざりしながらジャケットを脱いでいると、肩を叩かれた。 振り返ると、マスクと赤いイヤフォンをしたままのスーツ姿の男性が「落としませんでした?」と手の中のものを差し出した。 シンプルな革製のパスケース。 慌ててバッグの把手をみると、鎖が途中で切れている。 自分のだ。下手すると数万はする定期代を捨てるところだった。 「ありがとうございます」 お礼を言って受け取ると、マスクで分かりにくいものの、男性はわずかに目を細めて笑みを浮かべたようだった。 ちょうどその時、緑色のトレードカラーで走ることで有名な4車両の江ノ電がゆるやかにホームに滑り込んできた。ホームに並んでいた通勤客が乗り込む流れに押されながら、凪音はもう一度だけマスクの男性に会釈した。 そのままするりとドア近くに立つと、男性は凪音を追い越して、中に乗り込んだ。 走り出した江ノ電はすぐに海の景色を車窓に映した。とはいえ、曇天の海は雨を連れてきた雲と同じ色をして、水平線もぼんやりしている。 凪音は、朝の通勤時にほんのわずかな区間に車窓いっぱいに広がる海の景色を眺めるのが好きだった。 でもすぐに電車は住宅街へと入るカーブを曲がって、車窓の風景もまた平屋や木造建築の家並みばかりのものに切り替わる。 それまでのほんの2、3分という時間が、快晴でも嵐でも、この上なく凪音には心地いい時間だった。 ゆっくり車内に視線を戻すと、眠たげな顔や仕事に向かう表情のない顔が揺られている。だいたい数年も同じ時刻の同じ電車に乗っていれば、名前も住まいも知らなくても、顔ぶれは同じになる。 ただ春は、そこに、まだ着慣れずシワも一つない白のワイシャツやブラウスに、真新しそうな革靴を履いた姿がちらほら混じっている。 フレッシャーズと言われることもある新社会人。まだ若者と一括りにされそうなあどけなさを残しながら、新しい日々への期待に満ちた目をしている。 そういえば、さきほどのマスクの男性もずっと見かけない顔で、ワイシャツも新しかった。たぶん新社会人だろうと思いながらふとつり革につかまって立つ人たちの体の間からのぞいた座席に目が吸い寄せられた。 例の親切な男性。 しかもちょうど凪音の方を向いたらしい男性の目と思い切り合ってしまった。 彼は少しだけ目を見開いてから、ほんのわずかに頭を下げた。 思わず凪音も軽く会釈を返す。少しツイストパーマでもかけてるのか、癖毛っぽくも見えるマッシュの髪型といい、今どきの子だけれど、礼儀正しいいい子だ。職場の新社会人たちを思い出して微笑ましくなりながら、また視線を車窓に戻した。 わずか20分足らずで鎌倉駅に着けば、JRに乗り換えて、延々と1時間は都心へと向かう通勤電車の中だ。空いた扉を飛び出して走る人たちに追い越されながら早足で乗り換え口に向かった。 あの彼も、決まった時刻の電車に乗るために走るのかもしれない。 そんなことを思ったのが、凪音が初めて碧に会った日だった。 それからは、いつも同じ時刻の同じ電車の同じ車両で、彼を見かけた。 車内で毎日ほとんど同じ位置に、凪音は立ち、彼は座る。いつしか、なんとなく無意識に存在を確認するようになった。 今日もまたいる。 目が合えば、初めて会った時の延長のようになんとなく会釈しあう。 これまで同じマンション内の人間でさえ、江ノ電で会ったところで目礼程度だったのに、江ノ電でしか接点のいない男の子と会釈しあうようになるとは思ってもいなかった。でもその連続し続ける変わらなさが、毎日を穏やかな安心するものにもしている。 凪音は変わらず、ほんの2、3分の車窓からの海に満足して、都内の職場へと向かう。 変わらない毎日。 日々、変わり続ける車窓の海。 カレンダーは静かに4月から5月へと移ろい、凪音の目にも少しずつ海の色が明るく映るようになったある日。 湿度がひどく高くて、潮の匂いが町を覆っていた。 いつものようにホームにあがると、板張りの固いベンチに座る彼がいた。膝の間に頭を落とすように俯き、ぐったりしているようだった。 寒さと暑さとが不機嫌に顔を出すこの時期、ゴールデンウイークという長期の休みの後に体調を崩す新社会人が多いのは、経験からしても分かりきっていた。いつもの通勤客の列に並びながらも、ちらりと彼の様子を伺う。 緑の電車が見えた。 立ち上がりかけた彼がかすかによろめいて、思わず凪音は列を外れると、ベンチにすばやく駆け寄った。 「無理しない方がいいわ」 「ーーえ?」 突然の声に驚いて、顔をあげた彼はマスクをしていても明らかに青ざめていた。 「気分悪い?」 頷いた彼に頷き返す。 「今飲み物買ってくるから、少し横になってて」 もう一度座り直させるようにいったん肩を軽く押し戻すと、彼は少し迷ったそぶりの後、またベンチにどさりと座りこんだ。 ホームの自販機でお茶とスポーツドリンクを買う間に、背後で電車のドアが開いていつもの通勤客が乗り込み、気の抜けた音を立ててまたドアが閉まるのがわかった。 多少の遅刻をしたところで、凪音のような中堅社員の立ち位置や、月末月初といった繁忙期でなければ、1日の業務量の調整はつけられる。急だけど時間休にするしかない。 とはいえそれは凪音のこと。 「会社を休めればいいんだけど」 新社会人であれば、その会社の雰囲気、同僚などの周囲の目や仕事の進捗など、いろいろ気になるところだろう。 キャップを少し緩めてからスポーツドリンクを差し出し、それからお茶をハンカチに包んで必要あらば冷やすように伝えると、ぐったりとうな垂れていた彼は「すみません」と言いながら受け取った。 その時、単線であるがゆえに凪音たちが向かう鎌倉とは反対の江の島や藤沢行きの電車がホームに到着した。ドアが開いて、制服姿の高校生たちがわっと降りてくる。最寄りに高校があり、7時から8時台の電車が到着すると狭いホームは高校生であふれかえる。 同時に乗る通勤客もいるから人の流れが小さな滞留を起こした。それを避けようとしたものの間に合わず、ホームを降りようとする高校生たちの流れに後ろ向きに体が引っ張られた。 ヒールのバランスを崩してよろけた瞬間、強い力が凪音を引き戻した。座っていた彼がすばやく凪音の腕を掴んでいた。 「大丈夫ですか?」 言いながら彼は凪音の腕を引き寄せるようにして、自分が座る隣に引っ張り込んだ。 「ごめんなさい、体調悪いのに」 もはや統率の効かない高校生の群れから逃れるように慌てて座ると、彼はマスクの内側で苦笑したようだった。 なんとなく座ってしまった手前、「それじゃ」と放置するのも中途半端な気がして、背もたれに寄りかかり仰向けになっている隣に「仕事は大丈夫?」と静かに問いかけた。 「少し休めば大丈夫だと思うんで」と小さな声で応えがあった。 「……あの、あなたも、大丈夫ですか?」 きまり悪げな声に、凪音はふっと笑みを浮かべた。 目の前をドアが開いては人を吐き出し、また人を乗せては閉まって右に左に過ぎてゆく電車を、何本見送っただろう。 そう思ったのがわかったのか、「いまさら、ですけど」と彼は付け足した。 「私のことは気にしないで。この前、定期を拾ってくれたお礼」 気にされないように軽く言うと、彼は「あぁ……」と納得したようだった。 少しずつ口にしていたペットボトルの中身を飲み干した時には、もう高校生たちの授業も始まっている時刻になっていた。 長く息をついて、彼は自分の両目の辺りを冷やしていたペットボトルを離した。 そしてゆっくり上体を起こした。 「本当に助かりました、ありがとうございます」 「もう大丈夫そう?」 「なんとかなる、と思うんで」 「なんとか、ね」 思わず笑いつつ、立ち上がった。 目の前を緑色の電車が滑り込んでくる。 鎌倉行き。ちょうどいいタイミングだった。 「じゃあ、もう行きますね」 「あの、これ、とドリンク代」 慌てた彼がペットボトルを包むハンカチを示した。 「いつでも、同じ電車だから。それからお金はいらない、それもお礼のうち」 開いたドアから車内に足を踏み入れ、ドアのそばに立った。 閉まるドアの向こうで、どこか所在なげな彼がペットボトルを手にしたまま、頭を下げた。 それに会釈で返し、ゆっくり動き出した電車から立ち尽くしてずっと見送る彼から視線を外した。 また、車窓の向こうに、波頭を白く泡だてた荒れ気味の海が広がった。
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